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アカシック・ロード  作者: Janpon
解編
35/38

第35話:タクシー



 爪が剥がれるほどに食い込ませた指。そこから流れ出る血が筋を作り、上空へと逃れていく。  

 草津は今、自身が落下していることを自覚した。握力が保持していた感覚は喪失し、指は行き場を無くし、空を掴む。

 小さく点へと変わりゆく龍。消失点から引き離される草津は腕を伸ばし続けた。つい先ほどまであった冷徹な疾走と万能感が抜け殻のように草津を置き去りにした。

 あの日、幻覚と現実の境界線において、龍の背から放り出された草津。乾燥した冷気が眼球の水分を弾け飛ばす中、その視界は、ある一点を凝視していた。

 

 霊峰伊吹山頂上。宇宙の星々の運河に照らされ、真空の如き透き通る世界にある点。無垢な白い世界において、拭えないザラ付く違和感を放つ黒い一点。視界は山頂のその一点へと拡大していく。

 

 眼前にいたのは、若き佐々木、暴力を具現化した眼光を放つ魔人が立っているはずであった。しかし、その輪郭が歪んだ次の瞬間、そこに立っていたのは紛れもない「田中」であった。

 肌に受ける暴力的な冷気も、風圧も、意識から消える。草津は、今、自らがドブ川へと落下している事実さえ失念し、ただ目を血走らせる。そこにいたのが「田中」であったという認識が声にならない叫びを上げさせた。   

 同時に、湧き上がる腐臭が鼻腔に詰め込まれた。汚物が這がってくるように、逃れようのない絶望が全身を貫く。

 鼓膜の奥で気泡が弾けるように、通過する冷ややかな笑い声が湧き上がる。先程まで自身を支配していた野心も、絶頂を感じた万能感も全て嘲りに変わる。全ては田中の掌上で転がされていたという遊戯に過ぎなかったのだ。

 その残酷な真実が草津の全身を打ち付ける。

 

 声なのか、呼吸なのか、わからぬ音を草津は鳴らす。上空に流れ出るその音は、草津の残骸を撒き散らすように漆黒の星空へと霧散していく。

 すり減り続ける自身の中で、草津は自覚してしまう。

 田中という男は、乗り越えるべき巨壁ですらなかった。挑むべき対象でも、攻略すべき事象でもない。それは、人間が触れることさえ許されない、時代の深淵に潜む機構そのものだったのだ。


 草津の胸中に、忘却していたはずの原風景が再び蘇る。

 荒れ狂った父親が叩き伏せたちゃぶ台。粉々に砕け散った皿の破片を、母親と肩を寄せ合い、啜り泣きながら拾い集めたあの夜。指先に伝わる陶器の冷たさと、理不尽に踏みにじられた日常。

 今、その時と同じ無情な黒い液体が、草津の喉元を通り、内臓の隅々にまで染み渡っていく。

 あの日の絶望は、ドブ川への加速する今、再現されていた。

 

 その加速の最中、事象の後に発生する特有の音が、草津の意識を鷲掴みにした。まだ何かあるのか、絶望の縁に到達しながら、その先があることにさらに草津は絶望を重ねる。

 その絶望とは裏腹に草津の網膜に焼き付いたのは、田中の「笑み」。安堵を促すような微笑が草津の視界に固定される。

 感情が欠落した「無表情の笑み」である。

 それは、草津の深淵の底へと到達する、慈悲も悪意も介在しない、ただ事象が確定したことを告げるだけの圧倒的な微笑。


 その時、全てが静止した。風切り音は無くなり、肌は風圧を触らず、落下は止まった。星の瞬きすら起こらない静寂。

 田中は緩慢な動きで草津の頭上に指を向ける。今動いているのは、田中の腕だけである。

 何事だと、草津は眼球だけを動かし、頭上を見れば、そこには先ほどの遥かに巨大な龍。


 頭の中に直接残響が侵入する。眼球が再び田中を捉えると、ハッキリとその龍を指して草津に告げた。


「新名神」と。


 それがこのバイパスより巨大な未来の龍であると草津が理解した時、人間の耐えられる限界を超えた。

 次の瞬間、髪の毛の色は全て抜け落ちた。

 

 再び落下は開始される。キラキラと龍の燐光を反射するドス黒いドブ川へと向かって。

 

 タクシーが一人の地味な男を拾って街へと向かう。雪は降り続け、白い灰の中を進んでいるようであった。

 このタクシーは、今朝酷く疲れた顔をした、若い男を季節外れの麓へと送った。もしかして、自殺志願者だったのではと、後味の悪さを感じ麓へと戻ったのだ。

 そして、偶然、帰りにこの地味な客を拾ったのだ。

 

 運転手は見てしまった、若い男が自らシャツを破りながら雪の中で凍えているのを。靴を片方無くし、意味不明な叫びを上げていた。

 狂人の振る舞いに戦慄を覚えたが、すでに近隣の住民が通報していた。なんでも、来た時からあの場所であの調子だったらしい。

 その男は、間違いなく今朝送り届けた客であった。だが、その容姿は大きく変わっていた。真っ黒だった頭髪は、真っ白く抜け落ちていたのだ。まるで雪の白さと同化し、その存在が風景に溶け込み消えていくようであった。

 

 その話を聞き終えた客の男は、代金を払おうと、財布を取り出した。アイドリングの音に掻き消されのか、静かなる挙動で止め金を指で弾く。遅れてパチン金属音が車内に響いた。札を取り出し、運転手がそれを受け取ると、パサリと乾いた紙の音がした。札を出した手を膝の上に戻した後にしたのだ。違和感を覚えた運転手は客の男の顔をマジマジと見た。だが、ただ地味な男という印象しか残らなかった。

 ドアが開き、男は外に出る。男を避けるように雪が軌道を変えている。いよいよ、違和感が気味の悪いものに変わり、運転手は急いでドアを閉めた。音がしない。いや、閉め切った数秒後にバタンと、ドアの音が運転手の鼓膜に届いた。

 タクシーは急いで雪を踏み固めながら、発進する。気味の悪い日だった。その日、全ての音が動作の後に発生していたのだ。

 

 

 


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