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アカシック・ロード  作者: Janpon
解編
34/38

第34話:龍脈



 カツカツと規則正しい靴底の音が静かに遠くまで残響する。等間隔に設置された電灯が、ワックスで磨かれた床に曖昧な光の筋を落とし、通過するたびに影は伸びて縮みを繰り返す。

 曖昧な影を作っては消し、山田は消毒アルコールが匂う薄暗い廊下を進む。


 山田は、一人の孤独な男として、草津の静養先へと頻繁に足を運んでいた。

 先客の女性に頭を下げ、取り止めのない会話を少しだけ交わす。切り上げた会話の向こうのベッドの上には、かつての野心に満ちた若き後継者が眠っている。

 今日はよく寝る日だと、草津の女房は山田に告げた。髪と服装の品は整えてはいるが、目の隈と痩せた四肢に心労を感じさせる。夫が無事であっただけで胸が一杯になるこの女は、よく出来た妻なのだろう。

 女房は痩せこけ、白髪になった草津の手を取った。体温、脈、息。草津の生を精一杯感じている。

 だが、山田は目を逸らすしかなかった。息が詰まる残酷な現実からは逃げられない。

 精神の回復と放心の淵を、振り子のように行き来する壊れた残骸が横たわっている。ただそれだけであった。

 チ、チと刻むロレックスの秒針の音が重さを増していく。草津が変容したその日からずっと。

 

 佐々木は消え、田中のあの底知れぬ狂気は、もはや手の届かぬ京滋バイパスという日常の向こう側へと去った。

 この泥沼のような戦後を共に泳ぎ切り、田中の狂気を共有できる同胞は、この変わり果てた草津しか残されていなかった。


 山田は、草津の虚ろな瞳を覗き込むたびに自問する。

 あの霊峰伊吹の頂で、一体何が起こったのか。何が、あれほど強靭だった草津の精神を、塵も残さぬほどに粉砕し尽くしたのか。


 山田は、草津の変容の奥に潜む何かを見つけねばならなかった。

 いつ舞い戻るか分からぬ、あの男に、何の備えもなく対峙することは、ただの自殺行為に等しい。山田の冷徹な理性は、そう告げていた。

 田中という存在が、今はどれほどただの男を演じていようと、その内側に潜む巨大な(ことわり)を無視することはできない。

 

 だからこそ、山田は聞いておかねばならなかった。

 理性をかなぐり捨て、廃人同然となった草津の断片的な言葉を、一つ一つ拾い集めていったのだ。


 草津の口から漏れる、時系列も因果も崩壊した記憶の破片。

 それを繋ぎ合わせるたび、山田の心臓は冷たい氷を飲み込んだように凍りついた。

 

 かつての自分の推測は、甘すぎたのだ。

 佐々木という魔人の精神を根底から崩壊させたのも、草津に若き佐々木の幻覚を見せ、その誇りをズタズタに引き裂いたのも、すべては疑いようのない事実。田中の内側に宿る超常が引き起こした事象であった。


 山田を最も戦慄させたのは、その超常の振るわれ方だった。

 そこには、佐々木のような嗜虐性も、情念も、一切混じっていない。

 田中は、いや田中の皮を被った何かは、バイパス計画の完遂を阻む障害物を、ただ事務的に、確実に、効率よく排除したに過ぎない。


 山田は自嘲気味に、冷え切った自らの手を見つめた。煙草が僅かに震え、灰がポロリと意図せず落ちる。


 どうしても腑に落ちない。

 

 その動機は、なんなのだ。

 

 田中、あるいは宿った何かが、そこまで冷徹に、かつ完璧に障害を排除したのだとしたら、なぜ最後の一歩で、その果実であるバイパス利権のすべてを、この山田に完全な下地を整えて譲渡したのか。

 

 今の状況を客観的に見れば、まるで山田が田中という怪物を使役し、佐々木と草津を血祭りにあげて王座を簒奪さんだつしたかのような形になっている。田中は、山田という男を勝者にするために動いた「猟犬」であったかのようだ。

 だが、そんなことなどあるはずがない。

 

 では、田中は何のために、誰のために、あのような神業を振るったのか。


 草津が放心の合間に、呪文のように繰り返す言葉がある。

 それは、どれだけ山田が知略を巡らせても、どの利権構造に照らし合わせても、一向に出口の見つからない不可解な符号だった。


 山田は、いつか、必ず田中に会わなければならない。

 それは事務的な引き継ぎでも、権力者としての視察でもない。

 一人の「人間」として、あの無垢な破壊神の真意を問い質さねば、山田の人生は、田中という巨大な装置の中に組み込まれた、ただの使い捨ての歯車として終わってしまう。


 山田が田中の住む古びたアパートの前に立ったのは、バイパス工事の重機の音が、遠く京都と滋賀の境で鳴り響き始めた頃だった。

 プロジェクトが正式に動き出し、もはや後戻りのできない現実として鉄とコンクリートが大地を刻み始めるまで、山田には田中に会う勇気など微塵も存在しなかった。

 この数ヶ月、山田は自らの権威を盾に、得体の知れない恐怖から逃げ続けていたのだ。

 だが、意を決して踏み出した足は重い。

 安っぽい鉄骨階段を一段昇るごとに、あの日の光景が、音が、匂いが、鮮明な恐怖となって山田の五感を支配し始める。


 扉が開いた瞬間に流れ出したのは、どこにでもある家庭の、生活の匂いだった。

 煮物の甘い蒸気、魚の焦げる匂い。どこにでもある家庭の風景なのだ。そして奥で聞こえる赤ん坊の、どこまでも無垢な泣き声。

 田中は、玄関先に立つ山田を見た瞬間、胃の奥がキュッと縮み上がるような、ひどく嫌な予感がした。それは、すっかり忘れ去っていたはずのあの白い空間、音が消え、色彩が剥がれ落ち、自分という境界線が失われるあの狂気の領域へと引き戻される予兆のような感覚だった。

 だが、目の前の山田は、かつての傲慢な策士でも、あるいは権威に満ちた王でもなかった。


 玄関先での挨拶と、どこかぎこちない世間話。バイパスの進捗や、地域の景気。

 半開きのドアはお互いに干渉し合わない境界線であった。それは、山田にとっても田中にとってもである。

 田中は、目の前の男が平凡な自分を、まるで剥製でも見るかのような、切実で危うい視線で見つめていることに気づいていた。

 山田は一度大きく息を吐いた。それは、これまで喉元までせり上がっていた恐怖を、無理やり言葉に変えるための儀式のように見えた。

 煮物の蒸気が止まり、田中の女房は赤ん坊を抱きしめて泣き止ませる。ふいに出来た空白が空間に広がる。

 山田は絞り出すような声で言った。


 シンメイシンとは一体何だ。

 

 草津が譫妄の果てに漏らし、山田が喉の奥に突き刺さった棘のように抱え続けてきた、理解不能な言葉。


 その問いが投げかけられた瞬間。

田中の背筋に、忘れていたはずのあの重みが蘇った。山田との境界線が破断しかける歪みを感じたのだ。

 日常という薄皮が一枚剥がれ、その下にある剥き出しの深淵が口を開ける。


 あの、ステキな音が遠くで微かに聞こえた気がした。

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