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アカシック・ロード  作者: Janpon
解編
33/38

第33話:会話



 三浦は、伸ばした腕にツーと汗滴を走せながら一斗缶の細い取手に指をかけた。針金のようなバーが指の関節に食い込む。

 そう、千切れそうなほど食い込んだのだ。

 その瞬間、皮膚から背骨の奥深くへと、逃げ場のない冷気が一気に駆け抜けた。

 ツッと思わず息が漏れる。


 重い。


 それは、空の容器が放つ軽薄な金属音とは対極にある、逃れようのない物質の質量。

 当たり前の話だ。18リットルの液体を飲み込んだ金属の塊は、それだけで十分に人間を現実に繋ぎ止めるだけの重さを持っている。

 張り詰める前腕の筋に、手首の関節に、のしかかる確実な負荷がそれを物語っているのだ。


 電気が走り抜けたように三浦は、バランスを崩しながら手を引く。重力が増したかのような空間の中、視線は四角く静止したままの一斗缶から離れることができなかった。鈍い銀色の反射、大きな歪み。

 そう、そこには、あの日佐藤の頭部に振り下ろされた際にできた大きな凹みがある。だが、驚くべきことに、その一斗缶はいまだ封が切られていなかった。

 貼り付けられたラベルにはシンナーの文字がある。

 揮発性の高い、劇薬である。


 三浦は、取手を掴んだ右手の震えを止めることができなかった。

 脳裏を駆け巡るのは、冷徹な物理法則と、眼前の現実との致命的な乖離だ。


 あり得ない。断じて、あり得ない。

 18リットルの液体が詰まったこの鉄塊が直撃すれば、人間の頭蓋など熟れた果実のように砕け散るはずだ。それを、あの日の田中は軽傷で済ませた。

 それだけではない。

山田という男は、知略の人だ。この重さの物を、至近距離にいる人間に気づかれずに持ち上げ、かつ正確に振り下ろすほどの腕力も、身体能力も備わっていない。

 あの日、あの会議室で起きたことは偶然の事故ではない。この執務室で行われたのは山田の凶行でもない。


 時計の秒針が妙に揺らいで鼓膜を揺らす。通り過ぎる車両のヘッドライトが執務室に飛び込み、その都度一枚一枚シャッターを切っているような錯覚を覚える。静止した写真が迫るように三浦の思考は、ついに一つの戦慄すべき結論に到達した。

 田中が目覚めたわけではない。田中が神の如き権能を手にしたわけでも、山田が緻密な計画で王座を奪い取ったわけでもない。

 すべては、この一斗缶が仕組んだことだったのだ、三浦はそうとしか思えなかった。

 

 思えば、この一斗缶は全ての事象の始まりから存在していた。

 田中の脳を揺さぶり、異能を植え付け、佐藤を消し、邪魔な佐々木や草津を排除し、そして最も御しやすい管理者として山田を権威の椅子に縛り付けた。

 田中や山田は、この冷徹な金属容器が描いた絵図の上で踊らされていた、ただの人形に過ぎない。


 三浦は、持ち上げかけたその鉄の容器を、息の呑みながら、眺めるしかなかった。微動だにしない銀色の四角いオブジェ。

 

 トリガーなのだ、この一斗缶は。

 

 あの日、会議室という喧騒でこの缶が空を舞った瞬間、世界の安全装置は外れたのだ。シンナーという劇薬を内包したまま、それは物理法則を、因果律を、そして人間の尊厳を次々と撃ち抜いていった。


 口の中に残っていたウィスキーの甘みは、瞬時に苦い砂の味へと変わった。

 三浦の全身を支配していた心地よい酔いは、氷水を浴びせられたように消失し、後には研ぎ澄まされた、死に至るほどの覚醒だけが残った。

 三浦は、椅子に深く腰掛けたまま、眼前の金属容器を凝視し続けた。

 何の変哲もない。工事現場や工場に転がっていれば誰も見向きもしない、平凡を絵に描いたような一斗缶を。


 執務室の窓の外。

 夜の帳がゆっくりと剥がれ、青白い黎明の光が部屋に差し込み始める。街は日常の駆動音を立てながら、喧騒の準備を完了させていた。まるで、巨大な呼吸のように始まりの音が執務室に飛び込んでくる。

 三浦は一晩、瞬きさえ忘れたかのように、一斗缶から目を離すことができなかった。


 ドブ川は、あの日と変わらず、すべてを飲み込むような漆黒の静寂を湛えていた。

 ゆったりとした穏やかな流れは、都市の排泄物と時代の澱を運びながら、重く、鈍く、黒い光を反射している。水面に揺れるのは、川沿いにそびえ立つビルディング用のタワークレーンだ。夕日に赤黒く染まったその鉄骨は、明日への繁栄を約束する巨大な墓標のように、周囲を威圧し続けている。


 三浦は、手の中にあるその重みを改めて噛み締めた。

 これが佐藤殺害の揺るぎない証拠品であり、同時にこの異常な数ヶ月を引き起こした因果の根源であるという確信。

 理屈ではない。三浦の生存本能が、これを一刻も早く、人の世から切り離せと命じていた。

 処分する方法は、一つしかなかった。

 ドブ川に沈める。

 用済みとなった残骸の終着地点。

 それは、かつて佐々木や山田がこの街の裏側を統べるために、幾度となく繰り返してきた清算の作法であった。


 三浦は何度も視界を往復させ、川べりの淀んだ場所へと足を向けた。

 ヘドロの臭いと、冷たい水の匂いが混ざり合う。

 十八リットルの重みが、三浦の腕を、肩を、そして精神を大地へと引きずり込もうとする。彼は大きく息を吐き、全身の力を込めて、その銀色の金属容器を、黒い水面へと突き出した。


 ドブン、と。

 粘性のある重苦しい音が響き、黒い飛沫が上がった。黒い水面がゲップを吐いたかのように、腐敗した臭いが風に揺れる。無数に出す小さな泡を浮かべ、飛沫を飲み込む。

 未開封のシンナーが詰まった一斗缶は、水面に浮かぶことなど一瞬たりとも許されず、その圧倒的な質量に従って、瞬く間にドブ川の底へと沈んでいった。

 水面に広がった波紋は、タワークレーンの歪んだ影を乱し、やがて何事もなかったかのように元の平穏を取り戻す。このドブ川にとって日常茶飯事なのだ、異物を飲み込み沈めることは。


 三浦は、足を止めた。

 耳を打つのは、重苦しく空気を震わせるゴォーという響きだ。錆びついた歯車が巨大なワイヤーを強引に巻き取り、街の底から悲鳴のような振動を汲み上げている。

 この不協和音こそが、この地域の活力であり、絶え間なき再開発の鼓動そのものだと、三浦はどこかで納得していた。

 焼け野原に無作為に建ち並んだ、あばら小屋のような闇市。それが時代と共に一掃され、巨大な重機が入り込み、天を衝くビルディングへと姿を変える。

 すべては流れ、形を変え、塗り替えられていく。

 ドブ川に沈めたあの一斗缶さえも、やがては土砂に埋もれ、コンクリートの基礎の下で忘れ去られた化石になるはずだった。

 三浦は、その喧騒の正体を確認しようと、ゆっくりと視線を上空へ向けた。


タワークレーンは、なかった。


 夕日に染まった鉄骨の威圧感も、空を切り裂くアームの威容も、そこには存在しない。

 ビルディングはすでに最上階に達し、その殻を脱ぎ捨てるように、役目を終えたクレーンは跡形もなく解体・撤去されていたのだ。


 三浦は、弾かれたように視線をドブ川へと戻した。

 水面には、完成したビルディングの威容と、突き抜けるような青い空だけが、どす黒く反転して映り込んでいる。


 唐突に、視界が歪んだ。

 頬を伝う熱いものに気づき、三浦はそれが自分の涙であると知った。

 何が起きたのか、論理ではない直感で、彼はすべてを理解してしまった。

 時代が、いや、時代という皮を被ってこの地を蹂躙した巨大な何かが、今この瞬間、完全に向こう側へと過ぎ去ってしまったのだ。

 ドブ川の底から響いていたあの轟音は、未練を断ち切るように遠ざかっていく。

 もう二度と、触れることも、関わることも、その一端を垣間見ることすら叶わない。

 圧倒的な喪失感が、三浦の胸を抉った。


 震える指で口に運んだ煙草は、喉を焼くような苦味を増していた。

 その苦汁を飲み込みながら、三浦は思い出した。

 自分は元々、これほどまでに無機質な男ではなかったはずだ。些細な情に動かされ、取るに足らないことで心を揺さぶられる。そんな、どこにでもいる平々凡々な、小さい男に過ぎなかったことを。

 田中という異物、山田という檻、佐々木という狂気。

 それらに触れている間、自分もまた、何か特別な存在になれるのではないかと錯覚していたのかもしれない。


 だが、三浦の内にあったあの感覚。

 ドブ川の底を、あるいは世界の底を強く蹴り上げるような、あの痺れるような高揚感は、霧散して消えていた。

 残されたのは、ただの「三浦」という人間だけであった。


 「大丈夫?ですか?」

 ふと背後から甲高い声が聞こえる。

 三浦はゆっくりと声の方へと振り返る。橋の上から覗き込むように電子部品工場の制服を着た女性が心配そうにしていた。

 彼女からは一斗缶も何も見えない。ただ、肩を震わせて涙ぐむ若い男の背中が見えたのだ。

 自分は随分と酷く情けない顔をしてるんだろうな。彼女の瞳に映る己の顔を見て、三浦は確信した。

 「大丈夫、ありがとう」

 テーピングが巻かれた指から渡されるハンカチを三浦は受け取った。

 受け取ったハンカチは、少し毛羽立ち、天日干しの乾いた匂いがした。

 

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