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アカシック・ロード  作者: Janpon
解編
32/32

第32話:一斗缶



 カラン

 

 よく整理された無機質な執務室に、冷えた音が響いた。

 それはウィスキーグラスに氷が滑り込む音。琥珀色の液体が氷を濡らし、音を立ててその隙間を埋めていく。ウィスキーのグラスにウィスキーを注ぐのは道理。ここに、完璧なロックが完成した。

 

 もはや主のいなくなった、静謐すぎる執務室。三浦は一人、時計の刻音を相棒に手酌酒を嗜んでいた。配置された調度品の影が僅かに揺れる。窓から侵入する車両の光のみが、この部屋と対話しているようであった。

 揺らされた影の奥の静かなる重量物。今日の目的は、その重量物、金庫に眠る山田の表に出せない資料の最終処分である。

 今や山田は、バイパス利権を束ねる名士として、表舞台に立つ人間だ。かつてドブ川に捨て去ったはずのドロドロとした因果を、いつまでも金庫に閉じ込めておくリスク。それを今、三浦の手で断ち切らねばならない。


 飲み干すのだ、何もかも、今は…


 キラリとしたキレのある反射。三浦はグラスを揺らし、氷が放つ冷徹な音に耳を傾けた。

 

 煙草の灰を灰皿に落としながら、三浦はゆっくりと、そして重く煙を吐いた。

 その空間に広がる紫煙の向こう側で、三浦は山田という男が成し遂げた偉業の輪郭を改めてなぞっていた。


 山田は田中という得体の知れない劇薬を、最も効果的なタイミングで、最も残酷な形で使い切った。

 魔人佐々木を排除し、その正統な後継者であった草津をも再起不能の深淵に突き落とした。山田の世代では決して辿り着けぬはずだった後継者の座。その厚い壁を打ち破るために、彼はバイパス利権という巨大な戦場を、己の権威を確立するための巨大な装置へと作り替えたのだ。


 敵対勢力との和解、そして支持の獲得。

 それすらも、山田が緻密に描き、冷徹に執行した計画の一部であった。暴力的な圧迫と、絶妙なタイミングでの譲歩。搦手を尽くした末の平和的な着地という体裁が、山田を単なる簒奪者ではなく、混沌を鎮めた正当な王へと押し上げたのである。

 山田のきな臭い手段と、寸分の狂いもない計画性。

 それが今、この無機質で静謐な執務室の静寂を作り出し、一人の男を頂点へと導いた。


 全ては山田の思い通りになった。


 三浦は喉を小さく鳴らし、口に含んだウィスキーを飲み込む。焼ける液体が臓腑へと攻撃性を持って到達する。

 軽く頭を振ると、頭の中に浮かんだ「山田の勝利」という仮説を、「そんな馬鹿な話があるか」と即座に否定した。

 傍目には、山田が知略を尽くして王座を勝ち取ったように見えるだろう。古参の佐々木陣営の関係者は山田の搦手を知り尽くしている。

 だが、山田の傍らでその本質を見続けてきた三浦だけは、知っているのだ。


 山田という男は、そもそも権威の椅子など欲しがる人間ではない。

 彼は本来、アウトレンジから冷徹に計画を練り、必要とあらば至近距離で躊躇なく最悪の凶行に及ぶ、実利と執行の男だ。

 誰の目にも触れる頂点に座り、身動きの取れぬ義務と責任に縛られることを、最も嫌う人種なのだ。

 二度と立ち上がることを許されない「権威」という重石。あの時の背中はまさに「死刑囚の背中」。山田は自らの意思で座ったのではない。「座らされた」のだ、佐々木の地盤と共に。


 グラスの冷えた感触を指で感じながら、三浦の脳裏にあの日の光景が蘇る。

 焼酎に無残に沈められた山田の黄金のロレックス。

 あの時、三浦はあれを佐々木による屈辱の儀式だと思っていた。だが今、目の前の静寂の中でグラスを揺らしながら、三浦は確信した深い頷きを得ていた。

 

 今の山田は、あの時のロレックスそのものである。


 グラスという名の檻に閉じ込められ、逃げ場のないままに液体を満たされる。

 それが佐々木が注ぐ焼酎だったのか、あるいは田中という怪物が注ぐ権威という名の劇薬だったのか。その違いでしかない。


 三浦は目を細め、グラスを置いた。

 山田を権威の檻に閉じ込めたのは、果たして田中の意志だったのか。あるいは、崩壊した佐々木や草津の怨念か。

 いや、違う。

 誰でもない。高度経済成長期という名の狂奔、膨れ上がる利権、そして秩序を欲した時代の強制力。その巨大な力学が、実務家としての完成形であった山田という部品を、最も相応しい座に嵌め殺したのだ。

 その山田は時代を動かしながら、ドブ川に漬け込んだ者達の這い上がる手を狩り続けねばならない。時代と清算という名の副業に追われ、それは死ぬその時まで背負わされるのだろう。


 三浦はかつての山田のように口角を緩め、空想が過ぎるなと、自虐的な笑みを漏らした。

 そろそろ退散かと、飲み干そうとグラスを傾けた時だ。氷と氷の隙間を射抜いた三浦の視線に、鋭い反射が飛び込んだ。

 グラスを支える手の力は緩慢に抜けていき、机の上にコツンという控えめな音が響く。僅かな接触音が、耳障りなほど鮮明に鼓膜から侵入する。

 鼓動が静かに跳ね上がるのを三浦は自覚した。執務室の隅、影の中に潜んでいたそれは、場違いな金属光沢をユラユラと放っていた。


 そこにあったのは、あの一斗缶。


 あの日、会議室で田中の頭に衝突し、すべての因果を狂わせた元凶。そして、かつて佐藤という男を抹殺するために使われた、血と錆の記憶を纏う鉄の塊。

 山田にとっての最汚点。本来ならば、勝利の瞬間に真っ先に処分されるべき証拠が、なぜか今日まで、誰の手にも触れられずに埃を被り、放置されていたのだ。


 なぜあるのだ。なぜここに、存在する。

 山田はこれほど詰めが甘い男ではないはずである。

 三浦は、山田の徹底した計画性を思い出し、喉の奥に苦い違和感を覚えた。

 事務処理の天才である山田が、これほどまでに明白な弱みを、自身の執務室に放置するはずがない。

 まるで、これだけは捨てることが許されなかったかのように。あるいは、誰かがそこに在るべきだと定めたかのように、存在している。


 三浦は訝しげに、しかし吸い寄せられるように、その銀色の肌へと手を伸ばした。

 指先が冷徹な金属に触れる。

 あの一斗缶が田中の頭を叩いた瞬間から、この物語は始まった。

 そして今、その終わりの始まりを告げた物体が、三浦の指先にあの日のドブ川の冷たさを蘇らせる。


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