第31話:田中
本編最後になります。
田中は、わずかに震える手でドアノブに指をかけた。汗で握りが頼りないが、カチャリと軽い音が指先に伝わる。深呼吸と共に僅かに残る躊躇いを飲み込み、クっと体重を手に預けるようにドアを解放した。
あの日、一斗缶が頭に当たってからというもの。己が成してきた数々の超常を、田中は確実に自分がしたこととして記憶していた。
しかし、同時にそれは「他人事」のようでもあった。
記憶にはあるが、理屈が追いつかない。自分が自分という殻を突き破り、巨大な何かの一部として振る舞っていた、「夢のような夢ではない現実」
その得体の知れない感覚だけが、彼の内側に澱のように沈殿していた。
かつての自分にとって「雲の上の存在」であった山田。解放したドアの隙間から全景へ、目に入り込む風景の中心に、品のあるスーツを纏い彼はいた。
冷徹かつ不動。田中の記憶にある山田は、自分のような末端の人間に対して決して感情など見せることはない。
しかし、今の山田は、隠しようもなく怯えていた。その微かな震え、強張った表情、唾を飲み込む喉仏の大きな動き。そして自分を見る眼差し。
山田の弱々しい姿が田中の内側で張り詰めていた緊張を弛緩する。ネクタイを緩めた時の気道のように、肺へ流入する空気の抵抗を減少させた。
目の前の傑物との邂逅は、皮肉にも少しばかり気が楽になるというスタートであった。
自分を取り戻し、白い空間から帰還した時から毎晩考えていた。ビールを啜りながら、自分に起きた事象のことを。
冷えた炭酸がキュと胃を締めつけ、赤ら顔を手で仰ぐ。ふぅーと息を吐き、ゴロンと横になりながら、極めて実務的な視点で結論に達する。つまり、キャパオーバーであると。
今回のバイパス計画、あまりに責任の重い、自分の手に余るオーバーワークとして認識したのだ。
自分には不相応に大きなプロジェクト。ならば相応しい人がやるべきとし、速やかに「できる人へ」預けるのだと結論づけた。その「できる人」のリストの筆頭に、あの傑物山田がいたのは、田中にとっては当然の帰結であった。
それでも、田中の中に微かな自負がなかったわけではない。女房は怖がり、おそらくこれから先、根に持つのは確定。
意図せずとはいえ、仕事としてあちこちへ駆けずり回り、多大な労力…本当に大変な労力を割いたのだ。
これだけ頑張ったんだから、名前ぐらいは決めてもバチは当たらないかな?
それは、過酷な残業を終えた会社員が、帰り道に少し高い一級酒を買うような、ささやかで気楽な特権意識であった。
もし断られたら、その時はその時で諦めればいい
田中はただ、プロジェクトの最後に自分の足跡をひとつだけ残したい。生まれてくる子に「父はがんばった」という逸話を残したい。そんな無垢な愛着を抱いていただけだった。
田中の話に山田は考え込むような怯えるような相槌を打つばかりで、特に反対はなかった。
あっさりと終わった話し合いに少し拍子抜けしながらも、田中は家に帰る。
本日の晴れ舞台の為に新調した革靴をポカポカ鳴らしながら。だらしのない夫の為に、せめて靴ぐらいはと女房が急遽用意したものだ。新品の硬さと少し大きいサイズがカポカポと鳴る。
外はまだ明るかった。建設中のビルディングは最上階まで登り、タワークレーンはもうすでに撤去されている。
だが、そんなものは田中の視界には入らない。その脇を流れるドブ川も。
今日は早めのビールにありつける。そんなことで満たせる男なのだ。
数ヶ月の月日が流れ、あの日々はすべて穏やかな日常の地層の下へと沈み込んだ。
陽光が差し込む平和な食卓。すっかり腹の大きくなった女房が、どこか誇らしげな様子で一紙の新聞を田中に差し出した。
思わず声が出た。
そこには山田の名前で新しく開通するバイパスの事が記事になっている。
京都と滋賀を結ぶ新しいバイパスの名前が載っているのだ。
自分の名前を冠した道路。子供にそのことを自慢する未来にワクワクした。
少しわがままを通したかな?と田中は思い、ほんのりと恥ずかしくなった。
新聞には大きく新しいバイパスの名前が踊っている。
それは「京滋バイパス」。
田中は敬二という名の男である。
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アカシックレコードが記す、日本国土の創世記。
縦横無尽に走る高速道路網は龍脈と呼ばれる。
龍脈創生記。
これはその一尾、京滋バイパスの誕生秘話である。
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これにて本編は終了になります。
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次から解編へと続きます。
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