第30話:チグハグ
山田はつい先ほどまで絞首台に向かう死刑囚の貌をしていた。ギロチンの音に怯え、覚悟も生存への渇望すらもない顔貌をしていたのだ。
山田のロレックスは確かに、その刻音を三浦の鼓膜にも明確に届けていた。
今目の前にある現実は、その延長線からは大きく逸脱している。因果のレールが物理的に跳ね上がり、別の線路へ強制的に接続されたような位相のズレ。それに気付かぬまま、山田の直前は成立させられている。
山田の後方に控え、その一挙手一投足を、そして空気の振動を俯瞰していた三浦。明るい部屋とは対照的な、薄暗い死刑囚の進む廊下が眼前に広がっていた。声、物音、空気の揺らぎ、部屋の全てが破滅への共鳴として、山田の背中に吸い込まれていく。オーダメイドされたスーツはこの日の為に用意された、拘束着のような無機質さを主張していた。
だが、三浦は、この部屋に田中が足を踏み入れた瞬間に感じた違和感の正体に、ついに辿り着いた。
一見、田中の「全権譲渡」という提案に対し、山田が「受諾」という形で場を収めたように見える。しかし、三浦の眼には、それは互いの意志が噛み合った結果ではなく、噛み合わない歯車が、互いに虚空を削り合っている異様な光景に映った。
何もかもが、決定的にチグハグなのだ。
同時に右手で左のポケットを弄り、左手で右のポケットを弄る。そんな馬鹿げたことが起きている。これは利権を巡る対立であったはずなのだ。
バイパス利権という巨大な獲物に対し、佐々木陣営の初動は非情かつ合理的で、「芸術的」ですらあった。
魔人佐々木の放つ圧倒的な暴力の予感が、敵対勢力の思考を硬直させ、その隙に山田が用意周到に搦め手を張り巡らせる。
抗争が火を噴く前に、相手はすでに逃走路を断たれ、盤上の死角へと追い詰められていた。
相手の体裁を保つ程度のわずかな分配をあえて与える。これにより、再起不能なまでの怨恨を回避しつつ、実質的な主導権は永久に佐々木陣営の掌中に留める。
山田が描いた絵図は抜け道のない構造を作りだし、そして、その通りに事態は進行した。
「利権を巡る対立があり、それは平和的な話し合いで解決した」という公的な美談の裏で、山田は冷徹に、最初から勝負にすらならない詰みの状態を完成させていたのだ。
それは人間が築き得る最高純度の秩序だった。
そこに、この田中が投げ込まれた。
初期の田中は、自身の所属する陣営にとって単なる数合わせのような若造に過ぎなかった。
キナ臭い陰謀の臭いも嗅ぎ取れず、殺伐とした利権争いの温度すら感じていないような、救いようのない無垢。その何も知らぬという佇まいは、老練な山田や三浦にとって、最も警戒に値しない安全な背景幕であった。
悪魔のような搦手も、佐々木が積み上げた絶対的な恐怖も、田中は「躱す」ことすらしていない。ただ、そこにあることに気づかないまま、透明な壁を通り抜けるように踏み越えていった。
気づけば、盤面最強の駒であった佐々木は崩壊し、将来を嘱望された草津は廃人と化した。
そして、今日、あの圧倒的な神性は潮が引くように消え去り、田中は現れた。
山田、佐々木が鎬を削って奪ってきた利権の主導権。それを田中は、道端の石ころを譲るような気軽さで、容易く山田の手元へと放り出した。
訳がわからない。そんな次元はとうに超えている。
三浦の鼓膜にチッチッ刻音が張り付く。山田のロレックスは正確な秒針を刻み、これが現実なのだと確実に示している。
何を見せられているのか?
瞼はビクビクと、痙攣を起こし、いつもより眼の渇きを感じる。臓腑に落ち込む現実の風景は瞬きすることを拒絶し、この現実の中心点、田中を三浦の視界から逃すことを許さない。
かつてバイパス計画の末端で、「賑やかし」として連れてこられた、あの場違いな男。
親近感を覚え、少しばかりからかってやりたくなるような、毒にも薬にもならない若者。
三浦の眼に映る今の田中は、「それ以外の何者でもなかった」。
その徹底した空虚こそが、三浦の背骨に消えない悪寒を走らせていた。




