第29話:受容
が、気がしただけであった。
祈るように机の上で組まれた腕の感覚が無くなり、ただひたすら己にかかる重力に耐えるだけであった山田は、確かにギロチンの音を聞いた。
ガチャリと鳴ったドアノブの金属音は虚無の響きで山田の全身を逆立て、破滅の観念を強制したのだ。
だが、扉から顔を出したのは、緊張を隠しもせずにオドオドと様子を伺う、弱者そのものの男であった。
カポカポと締まりのない歩行音が、静止した山田の前で鳴らされる。視界に入る猫背の眼鏡は、タイピンどころか、ネクタイまでもが歪んでいる。そんな、だらしがないとしか表現ができない男が、山田の目の前に迫った。
覇気も威圧もない会釈が、山田を囲んでいた空気を粉々に破壊した。
失われた酸素が急激に肺胞に取り込まれる。破滅の観念は一気に消え去り、肉体に生命力が戻ってくる。むしろ、反動で鼓動が跳ね上がる。神経に電気が通り抜け、血管の内圧は痛いほど膨らんだ。急激に熱くなる体を冷やすために、滝のような汗が皮膚を走っている。
山田の目の前にいるのは、田中。だが、双眸の網膜が写し出している田中は、かつて会議室で燐光を放ったあの神々しい畏怖が全くない別もの。
そこに立っているのは、どこにでも勤めていそうな、どこまでも真面目で、どこまでも平凡な一人の青年である。
そのあまりの落差に、渇いた口腔の唾液が行き場を失い、山田の戦慄は混乱へと変質した。傍に置き、半ば寄りかかっていた観念が喪失し、天地を危うく手放しかける。
目の前の男は、理屈を並べる必要もなく、暴力を振るうまでもなく、指一本触れずねじ伏せることができる、そんな奇妙な、そして絶対的な確信だけが、部屋の空気に湧き上がる。
山田の奥から生成される情動が体幹部から全身へと巡る。力を取り戻した左手を小指から、固く震えるほど握りしめた。骨に直接頼れる勲章の振動を刻みつけ、閉じた地平の隙間に差し込む理の槍、その照準を山田は息を荒くしながら組み立てた。
平常時のように口角を緩め、これなら勝てるという希望的な楽観が、山田の脳裏をかすめる。
しかし、その直後に背筋を凍らせるような疑念が襲った。
この「凡庸さ」こそが、獲物を引きずり込むための奈落の入り口ではないのか。あるいは、自分を油断させるための高度な罠なのではないか。
しかし、山田は息を重く吐くと、自嘲した。
佐々木を壊し、草津を廃人にしたこの男に、そんな卑小な小細工が果たして必要なのか。田中にとって、山田という存在は、罠を仕掛けるまでもない、ただ処理されるべき路傍の石に過ぎないのではないか。
山田の思考は最大限の振り幅で揺れる。だが、双眸は現実を捉えている自覚があった。
目の前の田中が書類を捲る所作は、どこまでも卑小で、覇気に欠けている。
それは街の小役人や、出世を諦めた万年係長のような、徹底した「小物」の動きそのもの。しかし、その無害な仕草が繰り返されるたび、山田の喉は砂漠のように乾燥し、肺に吸い込む空気すらもガラスの破片のように鋭く感じられた。
静寂が執務室に横たわる。疑念による気泡が作る揺れが僅かに漂うだけである。
意を決して沈黙を破ったのは田中であった。山田の目を見ながら、風景が喋っているようにボソボソと。
だが、消え入り、霧散しそうなその言葉は、先ほどとは別のベクトルで山田を粉砕しようとした。
田中は伏せ目がちに、どこか申し訳なさそうな、緊張した面持ちで「これからの指揮は、すべて山田に取ってもらいたい」と告げたのだ。
こめかみの中の細い血管が何本か引きちぎられそうなほど、山田は目を見開いた。己の耳の正常を疑う。理解が拒絶を起こしている。
バイパス計画、利権の分配。それらすべてを、田中は山田の手に委ねようとしていた。
それは山田が最近まで手に入れようとしていたものだ。
山田は手術前の患者のように黙るしかなかった。沈黙以外の選択肢はないのだ。
思考の回路がショートし、脳内では罠か本意かという無益な思考が高速で繰り返され、焼き付く寸前である。
左手首の冷たい感触。ロレックスが、非情に時を刻む。一秒ごとに寿命が一年縮んでいくような、圧倒的な密度の重圧。
再び静止した山田をよそに、続いて田中の口から漏れたのは、あまりにも拍子抜けするような提案であった。
莫大な利益を生むバイパスの全権、支配権、そして采配。それらすべてを山田に預ける代償として、田中が求めたのは、ただ一点。
バイパスの名前にアイデアがあるので、採用して欲しい
本来、公共事業や利権構造において名称は、その土地の歴史や権力者の威光を刻む、極めて政治的な意味を持つ。しかし、これから手にする膨大な金と権力に比べれば、それはあまりにも安すぎる対価。破格の提案である。
山田の脳内で鳴り響いていたはずの、幾重ものアラートは、あまりの異常事態を前にして、ついに完全な沈黙へと至った。
かつては佐々木の毒に耐え、組織の激流を泳ぎ切った山田の知性。しかし、田中の覇気のない小物感と全権譲渡という、理屈を無視した不条理の連撃は、山田の合理性を根底から焼き払った。
何もかもが罠に見える。しかし、その罠を疑うための基準すら、今の山田からは失われていた。
相対するは、あの田中である。
その田中が指揮を執れと言い、名前を決めさせろと請うている。
ここで首を横に振ることは、即ち佐々木や草津と同じ、あるいはそれ以上の崩壊を招くことを意味する。
山田には、飲む以外の選択肢は残されていなかった。この「首を縦に振る」という絶望的な妥協点こそが、人間・山田が到達し得る、そして彼自身の器が許容できる限界であった。
表向き、その会談は驚くほど円滑に幕を閉じた。
組織のトップを代行することとなったベテラン山田が、持ち前の実務能力を遺憾なく発揮し、バイパス計画の指揮を執る。
両陣営から反対する者は誰もいなかった。むしろ、佐々木の不在において、最も相応しい人選であると歓迎をされている。
バイパス利権の決着として、何も違和感のない落とし所であり、不自然さは何もない結末に落ち着いたのであった。




