第28話:摩耗
草津の失踪と変容。それら一切の不条理は、魔人佐々木による過度のプレッシャーという、既存の力学に基づいた解釈によって速やかに埋め立てられた。
佐々木という怪物の苛烈さを知る者たちにとって、その重圧が若き後継者の精神を破綻させたのは、情景が浮かび上がるほどに、あり得る話である。そして、それが自殺的逃避へと駆り立てたという憶測は極めて納得のいく整合性を持っていた。
街の噂になれば、それはさらに矮小化され、単なる若きエリートのノイローゼとして扱われた。
日本列島を貫く経済の急上昇は、等しく人々に狂気を強いていた。
上昇の加速度に耐えきれず、精神の軸を焼き付かせる者は珍しくもない。それは、繁栄という巨大な建物を支えるために打ち込まれる高度経済成長期という名の杭の下で、草津は音もなく踏み潰されていく名もなき犠牲の一つに過ぎなかった。
擦り潰す者と擦り潰される者の日常である。
山田があの日以来、執拗に使い続けているオイルライター。そのフリントホイールの歯はすでに欠け、親指で弾くたびに虚しい金属音だけが響く。空回りを繰り返す火花は、もはやオイルを燃え立たせる熱量を持たず、ただ指先に黒い煤を溜めていくだけであった。
窓からの光に照らされ、静止して指先を見つめる姿は、すでに終わった時代の断片を映し出す無声映画のワンシーンを思わせた。余白の中に佇むその背中は、もはやノスタルジーという名の生身を欠いた残像でしかなかった。
三浦は、その残像を、山田の現状そのものだと冷徹に観察していた。
関係各所へ布石を打ち、情報を手繰り寄せようとする山田の挙動。それはかつての彼なら口角を緩め、鮮やかに盤面を支配する一手であったはずだが、今はどれほど手を動かしてもシャツの皺を増やすだけの、要領を得ない空転が続いている。
もはや理も利もない田中からの、自然な形の逃走経路の模索は選択肢でもなんでもない、生存への足掻きであった。
その足掻きの中で、一筋のか細い光が差し込んできた。今は亡き佐藤の黒い手帳である。
砂漠でオアシスを見つけた話と相違なき反応で、山田は手帳に没頭する。ページを捲る音は次第に音量を増し、執務室に拡大していく。
リペアから戻ってきたロレックスは、それに応えるかのように刻音をシンクロさせた。チッチッチッの響きはドライブしながら、逃走経路という高速道路でアクセルを踏む。
コクとまろみの紫煙を吐き出しながら、ついに山田の口角が緩んだ。
現状は陣営内での影響しかない佐々木の崩壊。そして、草津の変容は実績なき若者のノイローゼ。
それらは秘匿とまではいかないが、公にしている話でもない。このベール包まれた権力の空白を欲しがる人間はいる。
有力者を転々としてきた佐藤の情報の中に、佐々木の地盤に食いつき、それなりの説得力を持って飲み込む人物が何人かいるのだ。
佐々木の地盤を食わせ、其奴らを田中と対峙させる。バイパス利権の盤上に、すり替わった王を配置し、自分達はその間にゲームから降りる。
どうぞ勝手に抗争でも始めてくれればいい。見届けることすらせずに、この件からは完全に縁を切る。
血走った目で脂汗を掻きながら、手帳を片手に口角を上げる。灰皿に突き刺し損ねた吸い殻が机の上を転がり、スーツの袖口でそれを払う。
見通しという安寧の縁に指をかけ、胃の腑の焼けるような焦躁から必死に逃げる。胃液と唾液を口に溜めながら、安堵の表情を作り出そうとする。かつて、この表情を見たことがある人間はいるのだろうか。
山田の精神が不条理の濁流に呑み込まれ、着火石のように摩耗していく中で、腕の時計だけが正気のフリを続けている。その物理的な正確さこそが、今の山田にとっては、現実との最後の、そして最も危うい接合点であった。
山田が左手首で顎先の汗を拭った、その時だ。
静まり返った執務室に黒電話が鳴り響く。その音色は、山田たちの守ってきた日常の論理を物理的に塗り替えていく侵食の響きであった。
受話器を取った三浦は、受話口から漏れ出す微かなノイズに、この世界とは別の層、隔離された領域からの風鳴りを感じ取った。それは、人知を超えた何かが、再びこの現世に指をかけた合図であった。
電話を代わった山田。その瞬間、彼の端正なスーツの内側では、制御不能な滝のような汗が噴出した。
冷たい汗は背徳的なまでの速度で背中を伝い、最高級のレザーベルトにじわりと不名誉な染みを広げていく。
組織を統率し、利権を差配し、ロレックスの秒針と共に歩んできた山田の自負は、自身の毛穴から漏れ出す実体のない恐怖によって、無残に洗い流されていった。
田中の陣営からの、唐突な、そしてあまりにも事務的なアクセス。
これまで痴呆のような反応を繰り返していた者たちが、突如として精密機械のような整合性を取り戻し、山田を名指しで話し合いを依頼してきたのだ。
それは交渉でも、対話でもない。
草津と佐々木を抜け殻に変えた何かが、ついに山田の処理に乗り出したことを意味していた。
灰皿で立ち上る紫煙は、もはや山田の思考とリンクすることなく、ただ垂直に、この密室の終わりを告げる線香のように昇っていった。
山田が自然な形での逃走を模索し、布石を打とうとするそのわずかな隙間。そこには、すでに見透かしたような蓋が置かれた。
物理的な封鎖ではない。まるで因果の流れそのものが先回りし、唯一の退路を消失させていくような、知性を持った不条理。
震える手で吸い殻を押し付ける山田の背後で、三浦はもはや論理を放棄し、そこに逃れられぬ運命の輪郭を見始めていた。田中の存在は、もはや対抗すべき敵ではなく、逆らうことのできない天候や重力の類へと変質していた。
草津が白髪の廃人と化し、佐々木が沈黙を続ける中、瓦解寸前の陣営は山田をトップに据えるという形で、かりそめの平穏を維持することになった。
佐々木の腹心として、実務と非情さを兼ね備えてきた山田。彼に対する周囲の評価は、驚くほど平坦なものであった。「可もなく不可もない」。その冷徹なまでの無機質さこそが、カリスマを失い、ただ利権を延命させたいだけの構成員たちにとって、うってつけの落とし所となったのだ。
バイパス計画、その最終局面。
山田にとって、本日会う男、田中。傍目には落ち着きと静寂の凪の中。色彩を抑えた静止画のような穏やかな空気が流れている。
停止しているのだ。泡立つものはない。事象の向こう側、地平面の彼方の相互作用のない空白がただ横たわっているのだ。
そこに残っているのは、ただ純粋で、逃れようのない原始的な恐怖のみであった。山田は、自らの肋骨を叩く心臓の音にさえ、追い詰められた鼠のような窮屈さを感じていた。
左手首に鎮座する黄金のロレックス。
その機械的な、あまりに事務的なカチ、カチという刻み音は、今の山田にとっては、自らの終焉を嘲笑う嫌味なカウントダウンに他ならない。山田の意識が混濁し、恐怖で脈拍が跳ね上がろうとも、精密な歯車はそれを一切無視し、この世の物理法則を淡々と執行し続けている。
ドアノブが回るガチャリという金属音。
意識の混濁した山田の耳には、それが重い断頭台の刃を固定していた鎖が外れ、自由落下を開始する直前の乾いた音に似ている気がした。




