第27話:黒電話
黒電話が踊った。ベルの音は秒針の音を掻き消しながら、執務室に響き渡る。山田は紫煙を漂わせ、上目で口角を上げながら、指で作ったピストルを三浦に向ける。
山田の「ピンときた」顔を見ながら受話器を受け取る。なるほど、ピンとくるわけだと納得を得た三浦は、山田を横目で流しながら対応していた。
山田の情報網が草津の居所を岐阜の伊吹山周辺であることを突き止めた。その一報にトンと小気味良く灰が落とされる。三浦の横目に山田が親指の腹を向けているのが入ってきた。
ロレックスの文字盤のガラス。山田はクロスで曇りを取りながら、煙草を咥える。珍しくオイルライターは一発で点火し、運勢占いで良が出た時のようにシワを作りながら口角を上げた。
張り巡らされ情報の糸は、ほつれもなく、縦横無尽に滞りなく機能している。通常通り、システムの動きに問題はない。構築された理屈通りの流れに、山田は満足気に煙を吐いた。
だが、吐いた煙が通り抜けたその喉元を、冷たい指が弄ぶように撫でている。「龍が立った」伊吹山。符合する、田中と龍。侵食する違和感を強引に意識の隅へと追いやるように喉を鳴らす。
飲み干すのだ、何もかも、今は…
今は佐々木の崩壊という致命的な欠陥を抱えている状況。利害の一致と佐々木の生存という、か細い糸に依存した一時的な結合状態。
山田は調整をしながらも、時間との猶予なき競走に過ぎない現実があることを、認識していた。
陣営は水面下で派閥同士の接触や憶測めいた情報が飛び交っている。灰皿の上で押し潰した煙草が、細長い紫煙を立ち上げている。山田は摘み上げ、再度押し付けながら、きな臭い陣営の動きに制御の算段をつける。
やることは山積みであった。
地図を机上に広げながら、トントンと指で示す。若い男が一人で泊まりにきた。訳ありそうな顔をしながら。
顔を上げながら、宿の女将が喋ってくれたと、山田は三浦にキーを投げた。
セダンは白い煙を上げながら東へと去っていく。山田は紫煙を吐き出しながら、遠くへ消えていくテールランプをしばらく見ていた。
強い乾燥した風が乗せてきたのは鼻を刺激する腐敗臭。ドブ川の臭いに山田は煙草のフィルターを強く噛み締め、すぐさま足元に叩きつけた。靴底で地面を滑らすように火種を潰す。切れかけた街灯が点いては消えを繰り返し、黒いアスファルトを、ドブ川の揺れる水面のように照らしていた。
草津の足取りを特定した情報網の成果。それが浮き上がらせるのは相手陣営への手応え。
バイパスと田中の話になった途端揃いも揃って精悍な顔つきが崩れ、痴呆のような反応を示すのだ。
ザラついた焦燥を山田は完全に飲み干せないでいた。
シガーライターの赤い灯が車内をぼんやりと明るく照らす。灰をポロっと足元に落としながら、三浦はセダンを駆り、山道を飛ばしていた。
ハンドルを悴む指で握りしめる。排熱の温風は虚しく、冷え込む車内。冷えと暗闇という根源的な恐怖の中を突き進む。
フロントガラスの向こうに稲妻が立ち上がり、前方の全景が一瞬だけ目に入る。ワイパーが必死に拭い去る雪の礫を、タイヤで蹴散らしながら三浦はアクセルを踏み込んだ。
人だかり、そして赤色灯とサイレンが鳴り響く雪の中、凍える耳を受話器につけ悴む指でジーコ、ジーコと頼りない音を立て、回転ダイヤルを回す。
夜の静寂を塗りつぶすように黒電話のベルが執務室に鳴り響いた。いや、鳴り響くというよりも、壁に沿いながら鼓膜へと侵攻してきた。迫り来るベルの音に強制されるように、山田は左手で受話器を耳に当てた。静寂の執務室に伝播する焦燥。それは三浦から草津を見つけた山田への一報であった。
その時、手首からずり落ちたロレックスが、カチャリと、頼りない音を発した。
霊峰伊吹で救助された草津は、手足は致命的な凍傷に侵され、残骸のようなスーツを纏った狂人そのものであった。正気という名の岸辺から遠く離れた残骸。助かったのは奇跡というより他ならない。
ジリジリと不安定な電灯の待合室に消毒用アルコールの匂いが重く流れる。その重い空気が吸い込まれるようにドアが開かれ、看護師が呼びに来た。
靴音が残響を生みながら、薄暗い廊下を進む。四方から迫る音が皮膚を透過し、背骨と頭蓋骨を細かく揺らす。冷えきった遠くで鳴る音が鼓動を圧迫していた。
山田と三浦の前に現れた草津。
それは草津のようであって草津ではないようであった。
かつての精悍さは消え失せ、髪は白濁し、眼窩は深く窪んでいる。その変容は、会議室で崩壊した佐々木のそれと、あまりにも残酷なまでに相似を成していた。山田は細かく息を何度も吸う。呼吸が上手くできないのだ。
意識の混濁した草津の唇が、震えながら音を紡ぐ。
「……田中……」
ロレックスでさえ飲み干せた猛者の貌が、今、目の前で起こっている事象を正しく認識できず、ついに…
積み上げてきた論理の城壁が、砂の城のように瓦解した瞬間であった。山田の顔貌から、もはや驚愕を隠すための仮面は剥がれ落ちていた。




