第26話:帰還
未来が現在を経由せず過去へと接続され、因果の連鎖が無限に乱立する。
田中は、知覚を超越した純白の空間に浮遊していた。そこは、狭隘でありながら無限に広がり、下降することが上昇を意味する反転世界。動作の前に音が発生し、残響の後に結果が現れる。田中は、その残響と白としか形容できない領域で、ただ存在していた。
何かに押されるような感触があった。硬いような、柔らかいような何か。その瞬間、呼吸が復活する。それと共に全事象が自身へと吸い込まれてきた。自身に嵌め込まれるような感覚が次第に輪郭を帯びる。
その瞬間、田中は己が何であるかを理解した。
意思を持ち、目を開くと白い空間は破れ、現実のフレームが組み立てられていく。
視界の向こうで純白は剥がれ落ち、慣れ親しんだ風景が急速に色彩を帯びていく。
自宅の居間、ちゃぶ台、座布団。そして、台所から聞こえる女房の足音。
空間が割れるような、閉ざされるような衝撃音が鳴り響くと、田中の目の前にはグラスに注がれた冷えたビールがちゃぶ台の上に置かれていた。
目をぱちくりとしなが、恐る恐るグラスに手を伸ばし、一口。グッと喉を押す炭酸。苦味と冷たさ。それが喉を通るたび、神々しい光の糸は脳髄から引き抜かれ、自分の輪郭が皮膚を走る。この居間のある世界と馴染んでいく。一人の男としての重力が戻ってくる。
一口飲むたびに首元に滲み出る汗。シャツに吸われたその臭い。その卑俗なまでの生々しさがしっくりくる。これこそが、彼が手放さなかった現実の錨であった。
居間の方から、ズズズと喉を鳴らす音が聞こえた。プハーという満足そうな声、そしてゲップの破裂音。
ガシャン
皿を持つ手に力が入らなかった。それはあまりにも唐突に訪れた。自分に纏わりついていたものが瞬時に霧散していく。
何も考えられない、込み上げるものは瞳に集まってくる。ただ滲む視界を眺めるしか出来ない。
皿が割れる音が静止した空気を切り裂き、青ざめて立ち尽くす女房がいた。彼女の瞳に溜まった涙が、重力に従って落下する。
その瞬間、田中はのっそりと立ち上がり、女房の元へドタバタと駆け寄った。
伝わってくるのは、懐かしく、そして切実な夫の体温。押さえつけるように抱きしめられた腕の中から漂う、いつもの汗の匂い。
スーと、彼方へと心に巣食う異物が遠ざかっていく。二度と戻ってこないと諦めていた時間が、不細工な抱擁と「怖がらせた」いう矛盾した愛憎の形を取って、彼女の元へ還ってきた。
大粒の涙で化粧を崩す女房の中で、息を殺していた日々がスライドしていく。
日に日に夫が夫でなくなっていくような深淵な恐怖。突如それが始まったあの日以来、模倣さた人形のような人間味のない得体の知れない夫。
靴の音に、その仕草に、その顔に、引き裂かれていった日常。
夫であって夫ではない存在にお腹の中の子を悟られてはいけないと、行き止まりのような恐怖の中を進む毎日。
しかし今、そこにいるのは、不器用で、量産型の、しかし紛れもない自身の夫だった。あの頃の体温を伴って、彼は唐突に日常へと還ってきたのだ。
泣きじゃくる女房を撫でる田中の手は、もはや龍を御する手ではない。
一日を終えてビールを飲み、明日もまた不条理な現世を歩んでいく、平凡な男の手であった。
張り詰めていた疑念は消え去り、居間にはただ、安堵という名の凪が漂っていた。
その凪の中で、田中の網膜は空間を吸い込む。紛れもなく自分は家にいる。鼻腔をつく髪の匂い、この身長差だったなと、魂の底から帰還を実感していた。
真剣な顔を作った女房は話があると切り出した。突然の切り替わりに、背中に汗を垂らしながら田中は頷く。
お腹の中に新しい家族が宿った。やっと言えた安堵に女房は久しぶりに笑顔を作れた。
狼狽しながら、暖かい空気に田中は目を細める。そして、ある決意を固めた。




