第25話:理(ことわり)の縁
猛り狂う威不生の中で、草津の生命は、軋みながら砕ける音を鳴らす。
不可逆的な停止線の向こうへと進行する中、己の命の感覚を求め、白い氷の指先が胸の奥の鼓動を探る。弱い波打、徐々に遠くへと逃げていく響き。秒読みを開始した鐘の音は、用済みとなった残骸の終着地点へと続いていた。
眼前に展開されている佐々木との邂逅は、「今際の際の走馬灯」なのか、あるいは「理の縁」で課された聖域の試練なのか。
吹き荒れる白い世界に溶け出した草津の意識は、現実の輪郭を滲ませていた。
しかし、その混濁した意識の中でさえ、草津は客観点な現実ではないと理解していた。
その確信の源泉は、目の前に立つ佐々木の姿そのものにあった。
そこにいるのは、会議室で田中に屈し、廃人と化した老いた敗残者ではない。
泥にまみれ、無数の傷を刻みながらも、周囲の熱量を奪い取るほどの生命力を放つ、若かりし日の獣。
喰らうか、喰われるかという血生臭かった時代を、その殺傷能力の高い刃のような眼光で生き抜いた佐々木である。
吹雪の音すら消え去った静寂の中、この極寒の世界と完全な適合を果たした呼吸は、凍てつく吐息を発している。死に至る冷気ですら馴染ませ支配した魔人。その眼光が、スーツを切り裂かれた草津を射抜いた。
全盛期の佐々木が纏う威圧感は、単なる暴力の結果ではない。
死地において極限まで研ぎ澄まされた直感。それは、人の弱さを単なる欠陥ではなく、利用し尽くすべき資源だと見なす擦り潰す者の眼光。それは徹底した服従か破滅かの二択が作り上げた、支配領域の上に立つ権威そのものである。
草津は、その幻影が放つ眼光の圧力に晒され、終着地点へと向かう動悸が砕け散るほどの緊張を強いられていた。
かつての敵対者たちと同じように、自分もまたこの魔人に擦り潰される。ドブ川の底へと顔を押し付けられ、自らの血と泥を啜りながら、何の糧にすらならず無意味に消滅していく。その恐怖は、物理的な吹雪よりも冷たく、草津の魂を凍結させた。
しかし、草津を真に絶望させたのは、佐々木の暴力の先に重なって見える田中の視線であった。
佐々木の眼が「弱さを利用する」という執着を孕んでいるのに対し、田中の眼には哀れみも、憐れみすらもない。
それは、草津という存在を認識すらしていない眼。
価値があるか無価値であるかという議論の土俵にすら上げず、ただそこに在る事務的な空白として処理する眼。
佐々木に殺される恐怖。それ以上に、田中のその徹底した無関心が鈍器として臓腑の奥に致命的に重い一撃を与える。それは、草津の奥歯を激しく鳴らし、メキメキと存在価値を背骨から引き剥がし、根底から崩壊させようとしていた。
この崩壊の淵で草津が触れたのは、遠い過去に堆積していた原初の底であった。
酒乱の父が破壊した居間。散乱したガラスの破片と食器。腫れた顔の母と共に、涙を堪えながらそれらを拾い集める朝。同級生という正常な世界の住人に、この不条理を悟られぬよう必死であった。指の関節に、床につく膝に、ガラス片を食い込ませながら、痕跡を消し去る日々。
それは、力ある者に流され、踏みにじられる側、すなわちドブ川を構成する一滴の水でしかなかった自分という存在のルーツであった。今まで誰にも暴かれなかった絶対的な欠落が横たわっていた。
佐々木の暴力的な眼光と、田中の虚無的な視線。その二つが草津を完全に消去しようとしたその刹那。
草津の世界は反転した。
極限まで圧縮された無価値観が臨界点を超え、負のエネルギーが激しい勢いで逆流を開始する。
それは、伊吹の山嶺に立ち上がった稲妻との同期であった。天から降り注ぐ光ではない。大地から、あるいは草津の深淵から天を貫くエネルギーの噴出。
爆ぜる。
草津の脳内で、あらゆる論理と恐怖が粉砕された。
痛みも、寒冷も、自己嫌悪も、高次元のエネルギーへと変換され、彼の背骨を駆け抜ける。
もはや、そこには「拾い集める者」としての草津は存在しない。
不条理を飲み込むのではなく、不条理そのものを威圧として顕現させる。
伊吹の山頂、猛吹雪の暗闇の中で、極限の世界の理が、草津という依代を通じてついに立ったのである。
目の前に屹立する全盛期の佐々木。それが草津自身の無意識が排出した残像であろうと、霊峰伊吹が侵入者に突きつけた試練であろうと、もはやその性質は重要ではない。
この暴力の原典を正面から乗り越え、その向こう側へと踏み出さない限り、佐々木という過去を超えることも、田中という深淵に指をかけることも叶わない。草津は、自らに課せられた不条理の清算を完遂すべく、死の淵で踏み止まった。
凍結しかけた指先に、凍りついた四肢に再び血流が循環していく。波打つ鼓動は波動となって全身を駆け巡る。
かつての理不尽を飲み込んできた心臓は、今や全身へと暴力的なまでの生命力を送り出す。波打つ鼓動は皮膚を震わせ、周囲の吹雪を熱で押し返すほどの磁場を形成し始めた。
白濁し、割れたガラスの向こう側のように混濁していた草津の意識。しかし、ホワイトアウトしたはずの視界には、急激に鮮烈な色彩が再構築されていく。
雪の白、岩の黒、そして己の内側から噴出する熱という名の緋色
それは、生存本能が存在の位相を強制的に一段階引き上げたことによる、高解像度の覚醒であった。
草津は、ついに人の限界という防壁を内側から食い破った。
もはや山田の管理する組織の駒でも、佐々木の支配する暴力の奴隷でもない。
伊吹の山嶺、神と獣が交差するこの境界において、草津は田中と同じ向こう側の理を、新たな超常をその指にかけた。
無言のまま、鋭利な刃の如き眼光を湛えて歩み始める若き佐々木。その背中を追うように、草津は雪原を突き進む。ザシュ、ザシュと、もはや物理的な質量ではなく、存在感そのものが重力となって霊峰の雪を踏み砕いていく。
この行軍は、もはや登山ではない。草津の深層意識に刻まれた暴力の歴史を遡り、その頂点を確認するための儀式であった。
ある一点で草津は静止した。意を決し、乗り越える壁であった佐々木の背中に、かつてない鋭い眼光を突き立てる。肚の底から、大気を、そして運命を震わせるための空気を、深く、深く吸い込む。
この瞬間、三浦の演算も、山田のロレックスも、田中の事務的な視線も届かぬ絶対的な静寂の中で、世界の輪郭がわずかにその隙間を開けた。
既成の理が剥がれ落ち、生と死、過去と未来が混濁する因果の零地点が、草津の咆哮を待っている。
震える空気が言葉となって、吹雪を、そして伊吹の神性を貫いた。
「佐々木という過去を乗り越え、その先、田中の向こう側へと己は登り詰める」
それは、単なる決意表明ではない。草津が歩んできた不条理な過去、そして山田の組織という名の殻を完全に破壊する宣告であった。
「業火の道に全てをくれてやる。だが、己は全てを手に入れてやる」
身を焼くほどの苦痛と喪失、そして拾い集める者であったかつての自分、その全てを供物として差し出し、代わりにこの世界の理を奪い取るという簒奪者の誓い。
佐々木は歩みを止め、草津へと振り返った。その眼光に貫かれた瞬間、あれほど吹き荒れていた暴風が、吸い込まれるように消失した。
雪は止み、大気は不自然なまでに冷たく澄み渡る。代わって草津を支配したのは、脳髄を直接鷲掴みにされるような、不可知な圧力であった。それは、世界が意味を失い、本質だけが剥き出しになる聖域特有の重圧。
見上げれば、そこには雲一つない漆黒の闇と、降り注ぐような満天の宇宙。草津は、ついに霊峰伊吹の頂上へと到達した。
佐々木は、眼光を崩さぬまま、静かに西の方角を指し示した。そこにあるのは、琵琶湖、そしてその先に眠る京都の地。闇の底に、人の営みの名残である微かな灯火が点在している。
闇の中に、「動く光」があった。
それは鉄道の光でも、道路を走る車列でもない。京都から滋賀へと、地形を舐めるように蛇行しながら進む、巨大な生き物のような光の連なり。
草津は、佐々木にすら劣らぬ覚醒した眼光を凝らし、その不確かな輪郭を視神経に焼き付けようと身を乗り出した。
朧げな光の粒子が、一つの巨大な象形を結んでいく。
それは、秩序を持ちながら、うねり、この世界の巨大なエネルギーを吸い上げて蠢く、圧倒的な「龍」の姿。
田中の中に見ていたもの。
それは権力という名の机上の空論ではなく、この列島の背骨を流れる巨大な水脈そのもの。草津は今、その龍の鼓動に、自らの意識を完全に持っていかれた。
愕然と立ち尽くす草津の視界が、突如、無限の広がりを見せた。
次の瞬間、彼は頂上から見下ろしていたはずの龍の背上にいた。冷酷なまでの疾走感。周囲の夜景は色彩の線となって溶け落ちていく。
草津は、掌に食い込むほどの力を込め、人知を超えた質感を放つ龍の鱗に指を食い込ませる。
佐々木の暴力でも、山田の論理でも届かなかった田中の領域。この龍をものにできれば、いや確実にものにするのだ。そこに到達するためには、この巨大な因果の水脈をねじ伏せ、掌握する他に道はない。
かつて理不尽に耐え、泥を啜っていた「無価値な自分」は、今やこの超常の奔流と一体化している。
敗北した魂は再燃し、全能感という名の劇薬が彼を突き動かした。
極限の風圧に晒されながら、草津の唇は愉悦の歪みを描き、吹雪をも切り裂く声にならない雄叫びが、漆黒の宇宙へと突き抜けた。
しかし、その刹那、世界は停止した。
風が死に、音が消え、流れる景色は静止画へと成り果てる。高揚感は一瞬で霧散し、代わりに毛穴から噴き出す制御不能な発汗が、生物としての本能的なアラートを鳴らした。
混乱の中、草津が頭上を仰ぎ見た瞬間、眩い光が彼の頭頂部を貫いた。
そこにいたのは、彼が「全能」と信じて跨っていた龍を見下ろす、更なる巨大な龍であった。
光り輝くその鱗は世界の解像度を塗り替え、圧倒的な質量で上空を駆け抜けていく。草津が掴んでいた「理」は、より巨大な「理」によって、その存在価値を無慈悲に上書きされた。
光り輝く龍の頭上。そこには、田中が立っていた。
会議室で見せた「漏れ出すような超常」ではない。世界そのものを再定義するような、神秘を伴う燐光を全身から溢れさせ、田中は当然のようにより巨大な龍を御していた。その光に晒された草津は、自らの自我が溶かされ、剥がされていくような、絶対的な絶望感に包まれた。
絶望を自覚した瞬間、草津の身体は龍の背から振り落とされた。
眼下に広がるのは、かつて佐々木が作り出し、山田が蔑んだ黒いドブ川。龍の放つ燐光が、どす黒い水面を皮肉なほど美しく反射させている。
落下の重力に抗う中、歪む視界の先、霊峰伊吹の頂上へと視線が吸い寄せられる。
そこに立ち、行く先を指し示していたのは、若き日の佐々木ではない。
田中であった。
山頂に遍在し、龍の背に君臨する。過去と未来、聖域と俗世。その全てに同時に存在する田中の超常の前に、草津は再び、元の「拾い集める者」つまり、ドブ川へと叩き落とされた。




