第23話:霊峰
ギュウ、ギュウとスパイクタイヤが雪を踏み固める音を鳴らし、タクシーは白煙を上げながら遠ざかっていく。それを見送りながら、箱から一本煙草を口に咥える。シュボっと火をつけた瞬間、焼けた氷の鉄槌が内部を蹂躙し、稲妻のように伝播した。吸い込むメンソールが恐るべき冷気を肺に運んできたのだ。
失踪を遂げた草津が辿り着いたのは、霊峰伊吹の麓。今の時期は滅多に人が来ない、静寂と孤独の世界である。
吐く白い息はこの地の厳しい環境を物語っている。世話になった宿の女将が品の良い声で告げたのは、人が試される土地だということ。それを思い返し、確かになとメンソールを吸い込んだ。
伊吹山を見上げる。太陽に照らされた圧倒的な白い壁。
宿の女将も運転手も、一人旅の草津を「思い留まらせる」ように説得してきた。酷く疲れた顔をしていたかもしれないと、自虐的に笑いながら、眩光に目を細める。
だが、これは、脆弱な精神による現実逃避ではない。むしろ、身動きを封じる利権の泥濘から足を引き抜き、思考を縛る蜘蛛の巣を断ち切るための、攻撃的な自己隔離である。
爪が食い込むほどに、拳を硬く握りしめる。草津を突き動かしているのは、既存の現実を乗り越え、その先にある力を掴み取ろうとする、焦熱の意思であった。
登山が趣味ということではない。
この地は古の神々が鎮座し、関ヶ原の合戦という日本の行く末を見届けた要衝である。
あの日、執務室の窓から目撃した立ち昇る龍。脳裏にあの息を呑む圧倒的な存在感が焼き付いて離れない。そして、田中の放ったナイフが地図上に刻んだ座標。引力によって導かれるように、それらはこの地で完全な符合を見せた。
草津は口角を上げ、歪な笑みを浮かべたまま視線を真っ直ぐ頂上へと射抜く。人ならざる超常を宿すための場所は、この断崖をおいて他にない。
痙攣を起こす眼球。その毛細血管を徐々に太くさせ、草津はその確信に狂気を纏わせる。
ネクタイが風に揺れる。ポケットに手を突っ込み、一歩踏み出すたびにジャリという不快な音が革靴の底から響く。
草津は、山嶺に挑むにはあまりにも不適合な、スーツと革靴という姿で立っていた。
客観的な常識に照らせば、それは自殺行為にも等しい愚挙である。しかし、草津にとってこれはレジャーの登山ではない。それは己がこれまで戦ってきた現実、「利権と暴力」の戦闘服を身に纏ったまま、この神域へと殴り込みをかける挑戦であった。
佐々木という魔人すら無力化した田中。あの超常と対峙するためには、もはや人間としての限界点に留まることは許されない。
草津は、この霊峰の深淵なる神性に身を投じることで、己ではない何者かへと昇華することを渇望していた。
革靴が凍土を踏みつけ、スーツが冷徹な風を切り裂く。錆びついた歯車が軋んだ音を上げながら回るように、草津の関節も悲鳴を上げながら駆動していく。
それは、旧い自分を供物として捧げるための儀式。人ならざる力を欲した孤独な戦いが開始された。
白い暴威の中、瞼に浮かぶのは会議室で目撃した佐々木の完全なる屈服。その凄惨な光景は、草津の網膜と精神に消えない火傷として刻まれている。
佐々木を崩壊へと誘ったのは、田中の眼。それは、もはや人間として視線ではなく、は龍そのものの権威。人知を超えた向こう側の理の顕現であった。
身震いする。冷気によるものではない。世界そのものの定義を書き換えていく力への畏怖。最強の魔人すら路傍の石へと変質させるその力。そんなものの前では、利権や暴力といった俗世の力は、何一つとして意味を成さない。
しかし、今の己は田中に挑むことすらできない矮小な存在。苦い液体が口の中に滲み出るような屈辱が蘇る。
理解している、そのことは、ナイフを投げられた時に決定されたのだ。いや、田中だけではない、山田や三浦からも一枚も二枚も劣る存在なのだ。随分と吐き出す息がドブ川の臭いを発してきた。
くれてやる、こんな己のすべて、何もかもを。未練なく、今ここで。
草津は、もはや既存の戦略をすべて放棄した。 田中に届くためには、田中の超常を凌駕する、さらに巨大な理を獲得しなくてはならない。
それは、論理の積み上げではなく、存在の位相そのものを転換させる飛躍を求めている。
人としての上限に達していたはずの佐々木。しかし、その到達点は田中という深淵には遠く及ばなかった。
ならば、人の枠組みを逸脱する必要がある。至らねばならない、指を掛けるのだ、超常の縁、人のさらに向こうの片鱗を、掴まなくてならない。
だからこそ、草津は神々の山脈、霊峰伊吹を選択した。
人の理が通用せず、古の神性が滞留するこの高地こそが、己を人以上の何かへと鋳造し直すための、唯一の溶鉱炉であると確信した。
霊峰伊吹は、その名の通り神の息吹を猛吹雪として噴出し、侵入者を拒絶する。
それは古来より「威不生」、すなわち、その絶大な威力を持って生を許さぬ絶対的な領域として定義されてきた。革靴の隙間から侵入する氷雪は、草津の末梢神経を凍結させ、体温と体力という生物的リソースを無慈悲に奪い去っていく。
草津の視界は白一色のホワイトアウトに塗り潰され、足先の感覚はとうに消失している。客観的な状況は「間違いのない遭難」であった。
泥濘にまみれ、片方の革靴を喪失し、引き裂かれたスーツの残骸を纏いながらも、草津は岩肌を這い上がった。
田中の超常を超えるという焦熱の渇望が、脳内の痛覚信号を完全に上書きし、肉体の悲鳴を沈黙させていた。それは快楽にすら似た、自己破壊的な昂ぶりであった。
その意識が混濁し、生と死の境界線が溶解しようとした瞬間。草津の瞼はピクリと僅かに跳ね上がった。捉えてしまった、白の中の黒い一点。
極限の吹雪の向こう側に、存在するはずのない存在が屹立していた。
佐々木である。




