第22話:魔人の崩壊
執務室に無機質なベル音が、亀裂を入れるように鳴り響いた。発生元の黒電話は一斉に注目を集め、三浦が手を伸ばした。
受話器の向こうから耳に心地良さを運ぶ、品の良い受付嬢の声が流れる。極上の声で告げられたのは、山田がリペアに出していたロレックスの修理完了の報せであった。
高級店の受付は、その声の粒子まで高級に磨き上げられている。その響きは、きな臭い世界の三浦たちとはかけ離れた清浄な別世界の産物である。
かつて佐々木の手により、屈辱と共に焼酎に漬けられたロレックス。
暴力によって汚された勲章は、ようやく精緻な洗浄とリペアを終え、主の左手首へと帰還する。それは、止まっていた秩序が再び構築される合図のように見えた。
だが、その傍らで、山田が手にしているのは、佐藤の排除以来、歯の欠けたフリントホイールのオイルライター。
親指がなぞるたび、何度も空回りし、金属同士が虚しく擦れ合う不完全な試行。
指の腹に走る摩擦の熱と、火花の散らない冷たさ。ようやく煙草から立ち昇った紫煙は、修復されたロレックスの完璧な刻みとは対照的に、頼りない軌跡を空間に描く。
それは、山田の精緻な合理性に生じた、決して修復することのできない亀裂そのもの。
完璧に直ったはずのロレックスが刻む一秒ごとに、山田の構築した理は、紫煙の向こう側で、クラックを進展させていく。
穏やかな晴天は、一瞬にして鉛色の闇へと塗り潰された。
大気を激しく震わせる雷鳴が執務室に暴力的な音を反響させる。窓の外、アスファルトを蹴って走る人々。三浦の視線に入ったのは、昼飯を買いに出たのであろう電子部品工場の女性従業員たち。
突如彼女達の足が瞬時に止まり、天を見上げた。
東の空、そこは霊峰伊吹が鎮座している。その頂から天空へ垂直に立ち上がったのは、気象現象を逸脱した巨大な雷の柱であった。
「龍が立つ」という言葉がある。
龍は古来より天を切り裂く稲妻と同一視され、地底を流れる水脈を司る存在。山田、三浦、そして草津が目撃したのは、伊吹山から天を貫き、世界を繋ぎ直す巨大な龍の背骨そのものであった。
何かしらの兆しに龍は立つものである。
大気を震わせた激越な嵐は、龍の去り際を追うように、急激な静寂へと取って代わり、穏やかな晴天へと戻っていった。
三浦は山田から渡された名刺を片手にその洋装屋を訪ねた。
店主の愛想の良さと、淀みのない接客。山田が長年贔屓にしてきた、確かな信頼の残響を感じた。
提示された金額は、三浦が想像していた額を遥かに超え、背中に冷や汗が流れる。しかし、店主が告げた一言に三浦は言葉を失った。代金はすでに山田から受け取っていたのだ。
三浦の指先が、名刺の端を震わせていた。
バイパス利権の表面的な和解が成立し、本日も事務的な調整が粛々と進行していた。
書類が積み上がり、印章が押され、回避された抗争の残骸へと置換されていく。その静寂な流れの中で、佐々木は急激に老いた。
魔境の死線を潜り抜け、暴力の頂点に君臨したその強靭な肉体と精神。佐々木を守る歴史の積み重ねは、ボロボロと崩れていく。田中という「平々凡々たる男」がもたらす非条理な強制力は、静かに、しかし抗いようのない速度で、確実に不可逆に致命的に蝕んでいった。
呻き声に近似した喉の鳴り。かつての魔人は、もはや会議の場で言葉を発しない。
卓上に置かれたその掌は、常に微細な震えを刻み込んでいた。深く皺が刻まれた歪な手は、重力で机に縫い付けられたように動きを阻害され、震えと相まって、煙草を指先で保持するのが困難であった。
会議の場でありながら、眼前の書類を情報として処理できず、文字をただの無意味な記号の羅列として網膜に移すのみである。
佐々木の意識は、若き日の、喉を焼くような血の匂いと、足元を掬う泥の冷たさ。支配と闘争だけが全てであった過去の残像に囚われ、現実の風景と混濁している。
かつて多くの者を擦り潰してきた双眸は、干からび、遠い過去を映すばかりであった。
この男の精神は、もはやこの俗世に留まっていない。
時代は、強制的に魔人を排除した。
山田はその光景を、脊梁を凍らせながら、観測していた。佐々木に現れた変化。
こんなものは、老いではない。起きているのは崩壊である。
田中という超常は、佐々木という強大な障害を物理的に破壊するのではなく、その存在理由を剥奪した。戦うことすら許さない。田中が関わる舞台から強制的に排除したのだ。
山田と草津、そして三浦の脳裏にビチャビチャと腐敗した臭いの音が流れる。用済みとなった残骸の最終地点。
魔人は、黒いドブ川に流された。
会議室の静寂の中、突如、佐々木は力なく自らのシャツの胸元を掴んだ。そして、まるで肉体から魂が脱落したかのように、椅子から崩れ落ちる。
その挙動に人々を震え上がらせた、かつての威圧感は欠片も存在しない。
床に横たわる、老いた皮膚の塊。
家事使用人の女のか細い肩を縋りながら、掠れ、今にも霧散しそうな声を佐々木は絞り出す。
山田を含めた数人の関係者に、辛うじて、これからのことを告げた。
その日を境に、佐々木は全役職を辞した。
かつて畏怖された旧世代の権威は、一斗缶に当たった平凡な男の手によって、あまりにも静かに、あまりにも無惨にその幕を閉じた。
田中の超常は、魔人を虚無の彼方へと追いやったのだ。
山田の手首に巻かれたロレックス。
修復されたその黄金の歯車は再び精密な回転を開始し、非情なほど性格に新たな時を刻み始めた。
その新たな時を刻み始めた日、「龍」をその目に焼き付けた草津は、誰にも何も告げず、忽然と姿を消した。
失踪である。




