第21話:露呈
草津の「龍に挑む」という宣言が、モノクロ写真のような静止した空間の中に置き去りにされ、冷たく精密に響く秒針の音だけが三名の間を通り過ぎた。色彩が抜け落ちた室内に外を通り過ぎる車両の音とヘッドライトの光が侵入する。それがこの空間の持つ、儚げな現実との接点のようであった。
侵入する光に揺れる三名の影。その内の一つが粘度を増した空気を裂くように、身を乗り出した。緩慢なその挙動に山田と草津は眼球だけを向ける。左手で軽くネクタイを緩ませながら、三浦はゆっくりと口を開いた。
以前見られた辿々しい態度は消え失せ、しっかりと主張のある輪郭が二人に息を呑ませ、聞く体勢を強制する。
三浦は山田を見据えた。
弱みを握り、退路を遮断し、選択肢を徹底的に剥奪する。それは、これまで山田自身が編んできた手口。今まさに田中によって、それをそのままこちらに返されている。
自由意志の剥奪。その本質的な部分は山田の手口と相違がない。いや、剥奪されているという表現すら生ぬるい、考えられる手立てが選択肢にまで昇格できない。盤上で「詰み」を作る対称性のある存在ではない。田中という特異点は「選択肢を持つ」そのことさえ許さないのだ。
震えるでもなく、落ち着きを持った声で三浦は山田の田中への評価及び、既存の力学へと無理矢理押し込めた欺瞞を告発した。
草津は煙草に火を着けず咥えたままであった。フィルターを通過して、メンソールの刺激が口に広がり、喉は唾を飲み込んでいた。
落ち着き払いながらも、山田への否定とも取れる話を出せるのはなぜなのか。三浦の吐いた言葉はあまりにも図星なのだ。
スカ、スカと空回りを続けるフリントホイールはもはや偶然に頼った点火しか期待できない。
オイルライターで煙草に火をつけようとしていた山田は手を止め、表情を消した。視線は煙草の先から三浦の顔貌へ。網膜に三浦を捉えながら唇から煙草を離す。口角を緩め、一瞬、柔らかい空気を作ると、弱みとは?と短く疑問を口に出した。
その問い対して三浦は唇を噛む。二名に戸惑いを隠すこともなく、俯き、首を振る。眉間に皺が寄り、前髪を手でかきあげる。秒針の刻音がカチと鳴り、意を決して息を呑み、顔を上げた。
その時、山田は手を前に出し、三浦を制止した。三浦の額には汗が滲み出て、双眸はハッキリと目の前のものを捉える。それは、初めて見る山田の絶対零度の顔貌であった。
山田は横目で草津を一瞬だけ見た。三浦は草津を「生きたまま帰す、注意喚起」として田中が使ったと言いたいのだろう。
かつて自身が使った恐怖のメタファー。
思考の逃げを潰すように叩きつけられたなと、山田は三浦の意図を認めざるを得なかった。
改めて山田は煙草に火をつけると、ため息のように煙を吐き出した。そして、危うく草津の前で三浦が漏らしてしまいそうな場面に、内心苦笑いをした。
三浦は初めて空気を震わす山田に、全身の毛穴を開いて冷や汗を放出させていた。口の中は乾ききり、呼吸が荒くなるのを自覚する。
山田はいつものように口角を緩め、引き出しから一枚の名刺を取り出し、机の上を滑らせた。三浦の袖口を指差しながら、そのスーツはもう似合わないと一瞬で緊張の走る空気を仕舞い込む。
安堵の空気を吸いながら、三浦が袖口に視線を送ると、確かに擦り切れ、ほつれていた。
体裁悪く名刺を手にすれば、それは山田が使っている洋装屋、オーダーメイドのスーツ屋であった。もっと良いものを買えということなのだろう。
しかし、三浦はその名刺と自分の視線の延長線上に見てしまう。電灯を鈍く反射させた一斗缶。
心臓がド、ド、ド、と重く脈打ち始める。銀の光が引力を発するように、別の符合を呼び寄せる。それは、この田中との膠着した戦局を打破し得る人物。
情報収集能力に特化した、組織の枠外を野良犬のように徘徊する男。摩耗した革靴とチープなスーツ。
佐藤。
消耗品としての運用を前提としても、佐藤の殺害という決断は、この田中の出現という最悪のタイミングにおいて、あまりにも非効率である。
佐藤殺害の事実を社会的に抹殺するため、山田が費やした政治的、経済的コストは安いものではない。
負債を抱え、弱みを握られた医師を囲い込み、その医師が「死亡診断書」という公的文書の偽造をする。この工作だけでもハイリスクでハイコストだ。
山田は、貴重なカードを数枚消費してまで、「佐藤という手札」を自ら破棄してしまった。三浦は、山田をそこまで追い込んだ当時の状況的圧力があったとは考えにくかった。むしろ、それは既に田中という巨大な力学の一部であったのではないかという、戦慄すべき疑念に到達した。
新たな疑念が三浦を侵食していたその時、草津の体内にはドブ川のような黒い二種の液体がその器を満たしていった。
三浦への嫉妬と、山田が一瞬見せた哀れみの視線である。




