第20話:独白
草津による報告を執務室の空気は静かに受け入れた。たが、その気体の密度は粘性を伴うほどに重く、物理的な重質量となって三人の肩にのしかかる。パトカーの赤色灯、車両のヘッドライト、野犬の遠吠え。外部から侵入する光と音だけが充満する沈黙の中を、透過していった。
視線を落とし、灰皿の中でただ燃え尽きるだけの煙草を眺めながら、山田は必死に思考の歯車を回し、構築と崩壊のサイクルを繰り返していた。
田中のもたらす異常事態を懸念し、最大限の警戒と対策を模索していた矢先、草津が単独で接触したという事実。
後手を踏んでいる、というより先回りして現れる事象に、血の気を引きながら後頭部に鋭い熱線が走り続ける。山田の思考は摩擦熱による焼き付けを起こす寸前である。
灰皿に放置された煙草が、ポロリと灰の保持を手放した。そのタイミングで山田はふぅと、天を仰ぎ小さく息を吐く。詰まりかけた呼吸を回復させながら、草津、そして三浦をぼんやり視界に入れる。左手で熱を持った後頭部を支え、吐き出す言葉がないか探し、結局沈黙せざるを得なかった。
田中という特異点の出現以降、事象は二転三転を繰り返し、既存の力学、利権や暴力といった山田の持つ定規では説明不能な領域へと突入している。
言語化は機能不全に陥り、何者も沈黙を破るための発話を選択できない。三名それぞれの胸中には、処理不能な情動と疑念が、高圧の渦となって滞留していた。
時計の秒針が刻む規則的な振動。
しかし、その音響は聴取者それぞれの内的精神状態に干渉され、異質な残響として受容されていた。山田にとっては積み上げた理屈崩壊のカウントダウン、三浦にとっては観測不能な領域への警鐘、そして草津にとっては「龍」の残影。
均一であるはずの時間軸が、田中という重力によって、各人ごとに異なる歪みを見せ始めていた。
左手首を握りながら、この膠着した事態から抜け出すため、山田は思考を再開させる。失われた左手首の勲章がもたらした正確な刻み。摩擦のない歯車の回転。浸っているのは感傷ではない、理のイメージ。山田は理屈の組み合わせをこの世の理として再構築していく。
因果律が崩壊したカオスの只中にありながら、情報を断片化し、一つずつ噛み合う歯車の動きへと再配置した。
山田は味を失いかけた煙草を咥える。頼りない着火は承知の上でフリントホイールを親指で弾いた。
歯茎を焦がすような、広がるタールの苦味。飲み込み、強制的にそれが肺胞へと流入させる。重く乾いた煙を再び体外へと排出される循環のプロセスが、思考に沈着という名の冷却水を供給する。
いつものように口角を緩ませながら、山田は草津の単独侵入という行動に対し、確定評価を下した。
組織運営の観点からは、「致命的な迂闊さ」として断罪されるべき挙動である。しかし、佐々木の登場によって尻込みする敵陣営の現状を鑑みれば、相手側が草津に対して即時的な実力行使に及べないという特殊な状況を突いたとも言える。
挑発と偵察を同時に遂行する高リスクな試行として、それは悪くない選択だった。現状無傷で帰還を果たしたのだ。
さらに山田は、この蛮勇を「未来への資産」として定義した。
将来、草津が次世代のトップに立った際、「かつて敵陣へ単独で乗り込んだ」というエピソードは組織統治において有用な武勇伝として機能する。
山田の冷徹な合理性は、眼前の異常事態を、権力構造における「申し分ない物語」へと強引に編み込んだ。
早口で捲し立てるように語った。静寂の中に響く声は湿り気がなく、脆さが滲み出ていた。構築された曲がりくねった一直線、しかし、事態を制御下に置くことは成功した。
取り敢えずの満足を得た山田の没入は、その指先に顕在化していた。通常では有り得ない根本までの燃焼。指を焼く熱に反射で反応し、灰皿へと破棄する動作には、山田本来の洗練が欠落している。オイルライターのフリントホイールが繰り返す空転の音響は、山田の精神的摩擦を体現するかのようであった。
しかし、摩耗しながらさらに理屈を構築させなければならない。
山田は矛盾する二つの事実を対置させる。
一つ、田中に関する情報は、不可視の障壁によって徹底的に秘匿されており、組織的調査をことごとく無効化している。
二つ、それほどの情報統制を敷きながら、草津という異分子の接触を、田中はあまりにも容易に許容した。
もし草津が、ヒットマンであったなら、田中はその瞬間に破滅していたはずである。
灰皿の上では消し損ないのフィルターが燻り、思考の中では理屈が燻りだした。歯車が軋んだ音を立てはじめる。
佐々木を追い込んだ田中の情報処理能力を前提とすれば、佐々木の後継者の一人である草津の存在を把握していないとは考えにくい。本来、佐々木を無効化するための人質として、草津は最優先確保対象となるべき存在である。
にもかかわらず、草津は無傷で帰還した。
先ほどまで早口に動いていた口は一文字になり、草津と三浦を置き去りに、山田は思考へとまた没入してしまう。
再び根本まで焼き尽くされた煙草。その火種の熱を感じながら、山田は「田中が草津を生かして帰した理由」という深淵な論理的陥穽へと沈潜していく。
理解と納得の解像度は著しく低いままであるが、山田は「現状は致命的ではない」という一点において確信を抽出した。
田中という特異点。その背景に超常的な力が介在しているとしても、構造上はワントップに過ぎない。佐々木という絶対的暴力が支配した旧時代とは異なり、現代の利権構造において、個人が保持できる影響力には必ず限界が存在する。そうであってほしい、という前提のもとの考えではあるが。
動揺というノイズを排し、山田は現状を「概ね問題なし」と祈りにも似た感情でラベリングした。合理主義者「山田」が無自覚に信仰に手を染めだしたのである。
敵陣営は田中の才覚のみに依存する脆弱な組織。脅威を田中一人という極小単位まで矮小化することで、山田は自らの思考を軽減させ、対抗策の立案を可能にした。それは、論理的袋小路から脱するための、極めて苦渋に満ちた結論であった。
山田はその結論を独白する。
今まで若年二人に、手段と対象者の動きのメソッドを説明するのに話をしたことはある。だが、今は自分の持つ考えを誰かに聞いて欲しいという悲鳴が動機である。ただ、その自覚は山田にはなかった。
その時、草津の唇からも「龍に挑む」という独白が漏れた。
それは、山田が構築した「矮小な一人」という評価を根本から覆す、本能的な畏怖に裏打ちされた言葉であった。
しかし、その微かな振動は、秒針の音と煙草の煙に巻かれ、誰の鼓膜に達することもなく、沈黙の中に霧散した。合理を信じようとする山田、静観する三浦、そして神話的恐怖に直面した草津。
陣営の足並みは、この瞬間、不可逆に解離した。




