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アカシック・ロード  作者: Janpon
本編
19/31

第19話:草津と超常


 


 昼間でも日が差すことはない路地裏。ポケットに手を突っ込んだまま、草津は煙草を咥え、革靴を響かせる。路上にいる者たちの敵意の混ざった視線に、長身から放たれる一瞥で応え、進行方向を確保する。

 雨に打たれ判別不能な手書きの看板、客引きの老婆。干上がったドブ川みたいな空間は独特の秩序と危うさで満たされていた。

 窓という窓には、商売女たちのそれ用の衣装が死体のように吊るされ、時折顔を出した客らしき男が、体裁悪そうに煙を吐き出している。そこにあるのは閑静とは別の静寂さ。誰もが見て見ぬふりを選択するであろう沈黙の裏道。

 

 まとわりつく老婆を突き放すように払い、滲んだ看板を頼りに、草津は目的地、田中のいる事務所へと踏み込んだ。

 呼び鈴などというものは存在しない。草津は挑発の意も込め、ニヤリと口角を歪ませながら、錆びついたドアを、周りなどお構いなしに、ガンガンと殴り響かせる。

 ドスドスと威嚇するような足音が聞こえ、草津は煽るようにさらにドアを叩いた。

 ガチャガチャガチャと苛立ちの震えまで伝わりそうな開錠音が響き、そのストレスを吹き飛ばすように扉は勢いよく開け放たれた。

 中から粗暴さを煮詰めたような目つきの男が、歯茎まで剥き出しにしながら顔を出した。その鼻息は荒く、草津に血走った眼を向け怒鳴り散らす。

 草津はポケット中で拳を固めたまま、しばしその男の怒りを観察するように見据える。

 相手を身構えさせてやろうと、顔を突き出し、一歩前に出る。そして、侮辱を込めた視線飛ばしながら、真っ正直に自らの所属と名を名乗った。

 その瞬間、怒号が路地裏を切り裂いた。

 事務所から飛び出た構成員らが、即座に草津を包囲する。付きまとっていた老婆は既に消え、商売女の窓が重苦しい音を立てながら固く閉ざされた。路上は瞬時に空っぽになり、残ったのは血の匂いを孕んだ暴力の予感のみであった。


 形式上の和解が成立した直後とはいえ、敵対陣営の心臓部へ、無名の若造が単独で乗り込む。それは、極めて無謀である。自殺志願と呼ぶにもあまりにも傲慢な行為。山田が以前仕掛けた「注意喚起」に対する報復として、草津が血祭りに上げられる状況はすでに整っている。

 草津自身の喪失だけでは済まない。それは山田に対する「致命的な注意喚起」つまり逆警告として機能する可能性が高い。若く青い過ちだけでは説明不能な、判断力を欠如させた破滅に向かう軽率さである。


 ただ、絶対的な包囲下にありながら、草津はメンソールに火をつけた。手の痙攣も、唇の震えもなく品さえ漂う所作で、フーと軽く吐き出す。

 咥えた煙草から紫煙を立ち上らせ、挑発的に両脚を開くその佇まいは、場にそぐわないほどの静謐さが宿っている。怒号を浴びせ、拳を握る構成員たちを冷ややかに見据えながら口角を緩ませ、煙草を親指でピンと弾いた。

 草津の内側で絶対的な確信が形成されていた。それはこの場を無傷で通過し得るという、根拠を超越した圧倒的な自信。


 草津にとって、眼前の男たちが発する威圧など、立ち上げた紫煙を揺らす程度の風にもならない。魔人佐々木が放射する黒い重圧に比べれば、考慮に値しない低次なもの。

 己が威圧できるのは逆らう術を持たない女房だけではない。己をそんな矮小な人間だと定義するわけにはいかないのだ。


 威厳と尊厳、それは草津という男を作る自己像の根幹。

 敵陣の真っ只中においても、その芯が一切のブレを見せることはなかった。草津は、佐々木の後継者という看板ではなく、ただ一人の男の存在価値をもって、この包囲を精神的に無効化しようと試みる。


 草津がポケットの中の拳を硬くさせ、顎を引き、威圧を高めようとした。

 その時だ、ドスを誇示し、野犬のような攻撃的な表情を呈していた人間が、突如として不審な挙動を発現させた。

 その動きは、糸の切れた人形のように滑らかさを欠き、意思決定能力を喪失したまま、まるでその場を譲るように横へと退いた。


 一触即発の熱を帯びた空気が、瞬時に張り詰めた冷気に変わる。肌を撫で回す悪寒。これは自らの威圧が及ぼした結果ではない。相手の意思が折れる中間過程を飛ばし、結果だけが訪れている。

 知っている、この不可視の力。


 草津はこの超常的な個人の制御崩壊が、田中の力による仕業であることを、即座に判断した。


 玄関を抜け、さらにその奥へ。

 無機質に整理された室内は、静謐というよりも真空に近似している。どことなく山田の執務室を想起させる冷徹さが漂う。

 開放されたドアを抜けると、広がっているのは深い闇の中に漂う僅かな間接照明の光。現実味を取り払ったかのような部屋で、田中は椅子に深く腰掛け、以前と変わらぬルーチンである書類に視線を落としている。

 入室した草津という存在を認識する挙動は一切見せず、静寂に包まれた空間には、田中の指先が紙を摩擦する物理音だけが残響として固定されていた。


 暗く漆黒の中に田中のみが浮かび上がっている部屋の中、一切の対人反応を示さない態度。それは草津という人間を交渉対象、あるいは脅威としてすらカウントしていないことを意味する。歯を食いしばり、拳に力を込める。存在を等閑視された草津は、沸き立つ情動を固めることで自己を保った。


 田中が頭を上げ、両者の視線が交差した刹那。


 草津の視界は現実と異なる映像が広がった。

 

 そこに存在したのは人間ではなく、「龍」。発光する眼球が草津の網膜を、そして内部の最果てを射貫いた。それは単なる威圧のような次元の視線ではない。

 草津が目撃しているの、田中という外殻を透過して露呈した、その内側に潜む巨大な脈動。まさに超常の光景。

 どれほど試行錯誤を繰り返してたとしても、決して到達し得ない、残酷なまでに美しい絶望的な本質。


 刹那の龍は霧散し、草津の弾けそうな毛細血管が浮き出た眼球の網膜に、地味さを極限まで深化させた田中が再度ゆらりと現れた。

 田中は目を逸さぬまま、人差し指で机上を一度、軽く叩いた。

 その打撃音は、閉鎖された部屋の音響特性を無視した幾重にも重なる多重残響をとなって、草津の脳幹へ直撃する。悪寒が駆け巡ぐり、草津の感覚は一斉にアラートを激しく鳴らした。

 

 そして、目の前では、田中が徐ろに胸元からナイフを取り出し、草津の眼前に誇示するようにユラユラと揺らす。

 その動作において、衣類の摩擦音を含む一切の物音が消失していた。音の空白の中、田中は机上にナイフを設置した。

 ナイフが机面に静止して数秒の後、遅延した物理現象としてゴトリという衝撃音が発生した。それは動作と音の因果律が、同一の時空間で共有されていない事実を突きつけていた。

 この一連の事象を目の当たりにした草津は、事実として受容せざるを得なかった。

 冷気が足に絡みつき、草津のすぐ喉元まで迫り来る。口を開けばその冷気が侵入し、臓腑の中まで侵される。それは精神的な過度な負荷の幻想なのか、別の何かなのか。観念すべきことを出すべくポケットを探る。


 草津は自らもナイフを取り出し、同様に机上へと置いた。見透かされているのだ。自身の精神の奥に存在する黒い領域を、不可視の触手で舐め回されているような強烈な被視感。

 草津がきな臭い事態への備えとしてナイフを保持していたという事実は、田中によって完全に透視されていた。


 丸腰での訪問を選択できない防衛本能。それは草津が、魔人佐々木の領域には到達し得ない、普通の人間であることの証左であった。

 田中という異質を前にして、草津は自らの人間的脆弱さを、武装の解除という形で強制的に曝け出すこととなったのだ。


 そのことを見透かされたのだ。


 田中は書類を取り出す。無機質な視線を紙面と草津の間で往復させた後、対象者の不在を確定させるように小さく首を振り、その紙面を提示した。

 提示された紙は、佐々木陣営の名簿であった。その挙動の意図は明白である。眼目前に存在する人間が、名簿上のどの氏名に該当するのかを確認する、純粋に事務的な照合作業であった。


 ついに、草津の胎には冷えた空気が滞留し始めた。「龍」としての圧倒的な存在感を放射する田中にとって、草津という人間は、敵対心や警戒の対象ですらない。視界には入っていても、その正体を認識するに及ばない、路傍の石以下の存在であることを臓腑に刻まれる。


 後継者という自負を抱き、接触を図った草津に対し、田中が返した回答は未知の人間であった。

佐々木との対比で己を定義しようとしていた草津の試行は、田中の「誰だお前」という無機質な問いによって、その根底から無価値化されたのである。

 絡みつく冷気はどのリアクションも受け付ける意思はない。求められているのはただ一つ、退席である。


 草津は存在論的な拒絶を完全に受理し、後ずさりという形でこの部屋からの脱出を余儀なくされた。その挙動は、捕食者の圏内から離脱を試みる鼠のそれである。


 再びドアへと手をかけようとした瞬間、コンコンという机面への打撃音が空間を穿った。草津がその音の方向へ振り返った刹那、草津の視覚は異常を検知し、眼球が最大まで開帳した。


 田中は草津の机上に置いていったナイフを、草津に向けて投げたのだ。

 それは武装の返却という形式を借りた、存在の不許可の最終通告である。初動から飛翔に至るまで、その挙動は草津の回避を大幅に凌駕し、不可避の閃光として空間を横断した。


 投擲されたナイフは、草津を逸れて壁面に深々と刺入した。その際、カンという、田中が引き起こす事象特有の、因果律を無視した反響音が空間に響き渡った。

 それは物理的な衝撃音であると同時に、草津の鼓膜に直接刻まれる終止符でもあった。

 

 ナイフの切先が深々と穿ったのは、壁面に提示された地図。利権の象徴であるバイパスの地図ではない。その遥か北東、非戦略的な空白地点。草津の意識はその座標へと、強制的に同期させられた。


 そこは霊峰伊吹。

 古来より神々の眠る地として定義され、俗世の権益争いとは次元を異にする聖域。

 田中の放った一撃は、この利権抗争の真の終着点なのか。あるいは更なる深淵が、人間の論理の外側に存在することを示すのか。


 田中は静謐な確信を持った顔を草津に向けた。


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