第18話:山田と三浦
グシャリ
静寂の執務室、山田はポケットの中で誰にも気づかれることなく、煙草を握りつぶした。ポケットの中の拳は僅かに震え、煙草は窒息しそうである。
誤算、いや予測不可能という事態。
山田は佐々木の暴威を前提とした段取りを緊急に構築し、会議に臨んでいた。唯一の懸念は佐々木の制御にあり、敵対陣営の擦り潰しすらも規定の範囲内であった。
その段取りに微小な対策漏れが生じることへの憂慮はあったものの、警戒を維持すれば収束可能な範囲であると算段をつけていたのだ。
折れ曲がった煙草の煙はいつものコクとまろみを失い、灰皿の溜水のようなアクの強い刳味を伴い肺に落ちる。
目の前で起きた現実は、予測していたものと完全に矛盾していた。佐々木は擦り潰すどころか、一歩二歩と後退を余儀なくされ、威厳のある顔を作り込むことに必死になる窮状であった。
さらに、田中の周りの人間は佐々木という脅威への反応とは異質な、意思を抜かれた人形のような状態。
山田は田中への警戒レベルを据え置いたことが、己の戦略の落ち度であると認めざるを得ない。
この予測不可能な現実を前にして、自らの敗北を冷徹に受け入れた。
アクの強い煙は強引な理の再構築によって、かつてのコクとまろみを取り戻し、山田の体内を循環する。それは、崩れかけた支配構造を維持するための儀式であった。
三浦は、山田の動態を観察していた。煙草の吸う頻度は増え、思考の断面が微細な表情筋の動きとして漏れ出ている。会議室の結果を実態と捉え焦りがノイズを生んでいる。
佐々木の擦り潰しという予測に対して生じた真逆の帰結。それは山田の理の処理限界を超えたのだろう。煙草を挟む指、その根本の痩せた左手首が無造作に露出している。
山田を観測しながら、ゆっくりと紫煙を三浦は吐き出した。
田中が超常的な力を行使していると仮定する方が現状の非論理的な事態と整合性が確保される。
三浦は立ち上がる紫煙の中に記憶を反映させた。
田中が佐々木と対峙した時、その眼鏡レンズは光学的な反射を拒絶し、既存の世界とは異なる、位相のズレた光景を投影させていた。
その田中の視線の延長線上に位置する佐々木は、あたかも存在の質量を剥奪されたかのように、消失寸前まで薄く引き延ばされていたのだ。
田中は人なのか?
三浦の内面で、田中という対象に対する人間の定義が揺らぎを始めた。それは、観察という行為そのものが、観測対象によって侵食されつつあることの証左。
記憶を反映させた紫煙は前触れなく僅かに揺れる。不規則ではなく、規則正しい揺れを発現させていた。その時、カシュ、カシュという不規則な音が目の前から聞こえた。
山田は折れた煙草を吸いながら事態の再評価を深めていた。フリントホイールは相変わらず空回りが多く、よく見れば歯車の部分のいくつかは歯が欠けていた。
田中という存在は、本来、相手陣営が秘匿していた隠し球ではないのか。利権屋が集う組織において、若年でありながらトップに君臨し得る才覚を保持するならば、そこは必ず顕在化した実績があるはずだ。
その必須情報が、自分の構築した情報網を素通りで通過したという事実に対し、山田は強烈な違和感を抱く。
わからない。
不明という結論。
合理を標榜する山田にとって、不可解な対象を放置することはリスクに直結する。解明不明であるならば、手段を尽くして調査し、その正体を曝露させねばならない。
山田は田中に対する警戒レベルを最大へと引き上げ、その正体を捕捉するために緻密な調査計画の策定へと移行した。
数日後、山田は再定義不可能な思考の迷宮に埋没していた。田中という人間の背景が、一切捕捉不可能であるためだ。
田中に関する情報を抽出しようと試みるたび、対象者は例外なく特定の領域で停止し、あの会議室で見られた意思を剥奪された状態へと遷移する。その変質は、他の局面では正常的な機能を保持しているのだが、田中の話題に接触した刹那にのみ発動する。
これは薄寒いという次元を超越した理の崩壊である。山田は仮説として催眠術を想定する。しかし、不特定多数を即時に支配する技術など、現実的に存在しない。
仮にそのような絶対的支配能力を保持しているならば、利権構造という卑小なシステムを利用せずとも、あらゆる欲望は即座に成就されるはずである。
視点を変えれば見えるという汎用的な解決策が通用しない、そんな生やさしいものではない異常事態であった。
山田の思考が混乱の極致に達したその時、血の気がなくなりそうな顔貌の草津が、執務室に入室した。
執務室の空気が変わりはじめる。
後継者として選別されながら田中へのコンプレックスを抱えるこの男が、この停滞した空間に新たな変数として加わった。




