第17話:魔人の綻び
会議は、荒れ狂うことなく静かに、落ち着きを維持したまま進行した。
それは山田が当初描いた青写真の通り、相手陣営との喧騒は発生せず、和解へと向かう流れである。
だが、この静寂は山田の目論見から致命的に乖離した変質を遂げ、似て非なる本質となっていた。
事態は山田の支配を離れ、特異点の引力によって歪んだ航路を傾きながら進行した。
カシュ、カシュと通常よりも親指の腹に力を入れ、音を鳴らす。ポーカーフェイスの下、苦虫を潰したような顔をしながら、山田はフリントホイールを執拗に摩擦する。いつも以上に着火機能が低下したオイルライターは儚げな火花しか出ない。
一つ朗報があるとすれば、カラカラに渇いた口内故に、もたつく点火であってもフィルターが湿気ないことである。さらに複数回、無機質に摩擦させ、ようやく煙草へ火種を供給する。
スーと、スムーズに煙草を喫む。肺に供給されるトップノートは重厚なコクとまろみがあった。だが、吐き出した煙が残した後味は、舌の根本を刺激する、酷く苦いタールの味であった。無意味に唾液が分泌する。灰皿に押し付ける指先には、煤けた灰がこびりついた。
前回の喧騒は、大規模な抗争の予感として申し分がなかった。何も知らぬ誰もが一触即発の覚悟を抱え、いつ抜き身の刃が飛び出すのか、不明の極致で迎えた今回の会議。
両陣営の和解などというものは、最大難易度の向こう側。関係者達の神経を摩耗させ、長期に渡る泥沼の抗争開始を身構えさせる。
盤石を支配する、山田が積み上げた布石である。山田は「詰み」へと誘うその事実を作り上げた。
そして、その予想とは裏腹に、和解への流れが作られる。抗争が回避される流れである。それもまた山田の目論見通り。
和解という名の隷属を成立させ、バイパス利権の総取りへ。その結末へ向かうレールは、完璧に敷かれているはずであった。
だが、魔人の舵取りが、口からも漏れ出したことが、流れを変える。
それは事態の収束を歓迎しつつも、予想を大幅に逸脱した結末に対する、処理不能な違和感の反映。それを、山田のみならず関係者に及ぼしたのだ。
胃に穿たれた穴から、どろりと熱い酸が漏れ出していく。その認識を持ちながら、溢れ出るそれを止める手立てが存在しない。内臓が自らを焼き溶かしていく感覚。内部で発生している終末への進行はそれを想起させる。
佐々木は金無垢の光を隠すように左手を机の影に隠し、散りそうな臓腑を震えながら押さえていた。
権威者の矜持、そして自己の威厳を崩れぬように抱え込み、それを維持するために佐々木が告げたのは「未来への構想」という耳触りの良い新規概念。
佐々木の告げた言葉が、鼓膜を揺らし、脳に伝播する。その瞬間、山田の脳髄にトルクフルな杭が打ち込まれ、喉は唾を溜めたまま固まった。それは身構えた困難とは全くの別角度からの飛来であったからだ。
佐々木が熟考の末に判断を下したということではない。追い詰められた魔人が、生存の為に選択することを余儀なくされベクトルである。
両陣営の一触即発の対立は、未来の発展という虚飾に満ちた共通目標を表面的に提示することで、有耶無耶になった。
舵を切ったのは他でもない魔人佐々木。その決定に異を唱える者はいない。当然、抵抗を試みる人間など存在し得ない。
天災に近い人災と称される佐々木の絶対的な権威という媒体を通して、不可解な和解は必然的な発展へと再定義される。困惑の最中、それは強制的に受理された。
会議の終わりを告げる事務的な音が室内に響く。椅子の引く音、書類が擦れる乾燥した響き。男達はそれぞれの荷をまとめ、この形容し難い不透明な空間から離脱準備を淡々と進めていく。
田中は視点を佐々木から離脱させた。それっきりだった。撤収が完了するまでの間、佐々木を見ることは一度もなかった。田中の関心は、再び眼目前の書類へと回帰していた。
佐々木もまた、田中と視線を合致させようとする試行は一切なかった。
両者の間には、物理的な距離を超えた絶対的な断絶が形成され、視覚の交差を完全に停止させた状態での終局となった。
佐々木は、椅子の肘掛けに置いた杖に体重を預け、ゆっくりと腰を浮かせた。その挙動は極めて緩慢な速度であった。その遅延した動作は、あたかも数十年という時間軸の集積が、重力のような質量を伴って佐々木の肉体へ過度な負荷をかけているように見えた。
杖が鈍い軋み音を立て、佐々木は気づく。杖が杖本来の用途で初めて使われた瞬間であることを。
絶対的な権威としての外殻を維持しつつも、内部では経年による損耗と、田中という特異点との対峙による急激な機能低下が、その挙動に、杖の悲鳴に投影されていた。
一連の事象の連続に、草津の胸の奥は制御の効かない脈動が激しく打ち鳴っていた。
絶対者として君臨してきた佐々木が、今、眼前で屈していることを理解してしまった。その事実は、草津がそれまで観念として捉えていた、世界の力学を根底から覆したのだ。
そして、人間を超えた胆力を保持する佐々木と正面から対峙し、微動だにせず座り続ける田中という同世代の男。
網膜に焼き付く田中の輪郭は、草津のアイデンティティを容赦なく擦り潰した。圧倒的な未知のエネルギーによる粉砕。
草津の内側がボロボロと崩壊していき、溢れ出すドス黒い粘性物質。喉元までせり上がる、絞め殺すような敗北感、そして毒々しい嫉妬。
それらの感情は、逃げ場を持たず、激しい熱量を帯び、草津の内側を炙り焼き焦がしていく。
努力や修練によって辿り着けない、圧倒的な存在の差。田中と草津、その両者を隔てる距離は、連続的な成長線の上にはない。どれほど手を伸ばそうとも、指先すら触れることのできない、修復不能な断絶。
空間そのものが物理的に切り離されたかのようなその深淵の溝は、冷徹な事実として二人の間に固定されていた。
草津の今回の結果は、一つの救いようのない結論に収束する。
田中という人間。それは既存の社会構造や倫理観に属する「まともな人間」という枠組みから完全に逸脱した存在。
それは知性の多寡や暴力の質という変数の差異ではなく、もっと根源的な、種としての前提が異質であるという、違和感の提示であった。
同じ言語を話し、同じ椅子に座りながら、その本質は決して交わらない。
草津は、田中という存在感の深層に、通常とは異なる超常的な背後があることを、半ば本能で確信した。それは論理的な推論の果てに得たのではなく、脊髄で直接受け取った絶対的な差異である。
この結論に至った刹那、草津の指先から血の気が一気に引いた。
視界が歪み、足元に侵食するものを感じる。それはピチャピチャと腐敗した臭いの黒い川の流れ。
逃げ場がないドブ川に飲み込まれかけている。その自覚が、草津の骨を軋ませた。今自分が立っている場所、そこが会議室の床なのか、泥濘のドブ川底なのか。
同日夜、草津の体内で蓄積された処理不能な情動は、逃げ場を失い、身近な生贄、つまり己の女房に対する過度な暴力へと転換されかけた。
内に溜まった破壊衝動を、誰かの肉体で代替する。それはこの時代の男達の一般的な所作である。
男が激情に駆られ、馬乗りになって殴打を加える。それは、現在とは異なる倫理的基準を持ち、男性の暴力性に対して広範な寛容度を保持していた。よくある家庭の風景ですらあった、この時の社会構造を反映している。
が、草津はそれを選択できない。女房の涙に、その瞳に写る自分のなんと情けないことか。
自身が持つ黒い影に飲まれる。それは己が矮小な人間であると認める行為。
メンソールの煙草を燻らせながら、深い息を吐いた。




