第16話:魔人と超常
会議室のドアは開放され、その全景を対象に佐々木の眼光が瞬時に伝播する。会議室の生ぬるい空気は一瞬で硬直し、一様に反り返った「炙り」の反応を示す。一歩踏み出す、それだけで、魔人の老いた皮膚は対峙する者達の生気を吸い取っていた。
「小物揃いの有象無象」と佐々木に評価される相手陣営の面々は、赤裸々に山田へと非難の念を垂れ流した。
想定通りの事態を把握し、本日の目的へ。佐々木は擦り潰す対象を見据える。
田中は会議室中央の、最も視覚的に目立つ席に着座していた。かつて負ったという頭部の打撲は完治している。佐々木の眼光を浴びたにも関わらず、視軸はただ眼前の書類上の数字を追う。その外見的特徴は平凡かつ誠実。一介の組織人の模範である。
周囲を圧死させる魔人佐々木の暴威と、至近距離で事務作業に没入する田中の静止。両者の間に論理的な相互作用はない。そこには等間隔に整理された静寂だけが存在している。
革新性を標榜する若者を排除する。それは焦土から現行構造を築いた功労者たる己の聖域的責務である。ニヤリと口角を歪ませ、佐々木は眼光の出力を最大化すべく、眼球の毛細血管に力を込めた。
しかし、その老いた眼光が田中の視線と交差した刹那。佐々木は認識してしまう。
メガネの向こうの田中の眼球には既知の世界が存在していなかった。
突如血管内の血液が凍結し、生命維持の根幹を揺さぶる急警報が魔人の内側で鳴動した。動悸すら凍結する異常反応。
視界はネガフィルムのように色彩の反転が起こり、全ては静止した。いや、田中の指、そして捲る紙だけが動いている。その紙を捲る音が直接脳内に叩き込まれる。
異常事態。生存本能は眼球が弾けるほどに力を込める。しかし、静止した世界に取り残され、気づけば横隔膜すらもこの世界に固定されている。
紙を捲る音は泡立つ水音に変わり、佐々木は今自分がドブ川の中に漬け込まれていると自覚した。
窒息の最中、脳が灼けるような超低温の感覚が疾走する。
この世界の延長線上にはない音と光が溢れ、気がつけば元の世界、会議室の風景が戻っていた。
今しがた起きたことは錯覚か、佐々木の獰猛な闘争本能は屈辱を認識し、擦り潰す態勢に移行する。
が、不可能。
佐々木の暴威の歴史が刻まれた皺が、皮膚が、細胞が、泡立ち、明確なアラートを鳴らす。
この男は、違う。
倒すべき敵ではない、接触を禁忌とする対象である。
これまで擦り潰してきた、いかなる強者のカテゴリーにも該当しない。
自覚がないまま前頭部に滝のような汗をかき、無意識のまま顎先に垂れた汗滴を左手で、ロレックスごと拭う。
佐々木の深層心理は、目の前の男を敵ではなく、生存領域を無効化する異物として再定義した。山田から聞き及んでいた熱狂や覚醒といった動的なエネルギーとは無縁の性質。田中が纏うのは、静謐にして絶対的な冷気を伴う不可視の力である。
佐々木の歪な手から握りが解け、微かに震え始めた。金無垢ロレックスの冷たさが皮膚に食い込む。口腔は乾ききり、乾燥した空気が喉を締め付ける。
今、佐々木に可能な最大限の抵抗は、威厳のある表情を作り上げ、内部の崩壊を隠蔽することのみであった。
支配の歴史において佐々木が擦り潰せなかった人間はいない。だが田中は、擦り潰すという動詞そのものが適用されない、事象の地平線の向こう側に位置する個体であった。
佐々木は逃げるように視線を逸らし、周囲の参加者へ向けた。対立陣営の中核は、既に山田が配分した金と女によって汚染されている。周囲を利用して標的を陥落させるは定石。佐々木は内部の情動を燃料に、冷静な魔人の機能を再起動させ、「全員を奈落へ投下する」その算段を描いた。
が、アテは外れる。
其処にあったのは異なる光景である。敵対陣営の人間は例外なく、その眼球から光を消失させていた。口腔は弛緩し、粘性の高い汚濁の涎を垂らす者すらいる。田中が口を開けば、彼らは無機質に頷きを反復するのみであった。
佐々木の視線は、不可抗力的な磁力によって再び田中へと吸い寄せられる。
絶対零度の不可視の触手が、佐々木の心の臓に、そして認知機能を司る脳髄へ物理的に結合してきた。
視線を回避しようと抗う佐々木。
田中はただ、静止した状態で魔人を観測し続けていた。




