第15話:魔人の花道
極限の心理的負荷に起因するのか、ハイヤーの運転手が被る制帽の縁には、じっとりと脂じみた汗が滲み、乱れきったオシロスコープのような模様を形成していた。指は震え、しがみつくようにハンドル握る。バックミラーに映るその瞳は定まらず、開きっぱなしの瞳孔は絶え間なく泳いでは、後部座席の男と視線が合うのを恐れ、痙攣していた。
プロの基準を逸脱した、ぎこちない減速とともに車体は小刻み震える。雑なブレーキングにより車内は大きく揺れ、重苦しい沈黙の中、縁石にタイヤを擦りながら、会館正面の車寄せに侵入する。
完全に停車するよりも早く、車両のドアが乱暴に開かれた。エスコートを拒絶するかのように、一本の杖がアスファルトを叩く。ガンという杖らしからぬ重い音とともに露出された男の顔。その顔貌には一切の慈悲が存在しない笑みが張り付いていた。
男がギラギラとした革靴を車外へ踏み込ませた瞬間、周囲の空気は急速に重化し、澱みを発生させる。そして、その男の眼光がギロリと薙ぎ払った。
周りの人間の網膜へ到達された瞬間、順に肺機能が停止したかのように呼吸を圧迫させる。
耳に届くハイヤーのアイドリングの排気音は地を這う低い唸りへと変質し、生存本能がアラートを鳴らす。その歪な空間にて、後退りする人の群れが地獄のような花道を形成した。
開始予定の時刻から30分経過し、魔人佐々木は会場へと登場した。この空白時間は相手に待機を強いる為である。強固な生存階層における上位個体から下位個体への規定礼儀であり、受容の強要自体が目的である。
佐々木の鳴らす硬質な音に続き、三つの足音が背後に従った。追従する三名の顔貌には、それぞれの内面が投影されている。
山田は周囲に対して、張力を緩和させた口角を提示し、偽装的な余裕を維持していた。
草津は高負荷の緊張状態を表皮に滲出させながらも、精悍さを保持し、三浦は感情変位の少ない沈着な表情を構築し、周囲を伺っていた。
魔人が進むたび、廊下の空気は軋み、悲鳴を上げる。その破滅的なその余波を伴いながら、三名は不可逆な衝突が予期される会議室へと歩を進めた。
会議室の扉が左右に割れた直後、山田は一瞬、眉間の筋肉を収縮させた。
視界の中央、本来あるべき主が座る場所に、田中が当然のようにその椅子に深く腰掛けている。場違いな光景が脳内を疾走したが、山田は怪訝な感情を顔貌へ表出させぬまま、眼球のみを動かし、室内を切り取った。
配置された顔ぶれ、その視線の流れ。それらを瞬時に走査し、この異常な配置の裏にある意味を、網膜に映し出そうと僅かに目を細めた。
会議室を埋めた敵対陣営の視線が一斉に山田へと突き刺さった。それは沈黙を保った怒鳴り声である。
この場に佐々木が現れることは、計算外の致命的なエラー。むしろ山田との交渉における規定違反に近似した想定外。喉元に突きつけられた、抜き身の刃に等しい。
出るはずのないカードが、最悪のタイミングで盤上に投下されたのだ。
脂汗を浮かべる古参の利権関係者たちの顔から、血の気が引いていく。この場にいる者で魔人の存在を知らぬ者は皆無。佐々木の登場は理屈や交渉を根底から無に帰す、天災そのものである。
構造的に圧倒的優位な状況下で、なぜ魔人をこの場に引き摺り出したのか。
交渉という名目は詐欺的な偽装であり、もはや対話ではない。この場は自分達を骨ごと擦り潰すために仕掛けられた、処刑場ではないのか。
そんな疑念がドブ川の気泡のように充満し、場の空気は急激に冷却される。窒息に近い沈黙が会議室の隅々まで侵食していく。
通常通りのポーカーフェイスの裏側で、山田はニヤリと口角を吊り上げた。
肌を指すような拒絶の視線、凍りつく空気。
予測通りの反応に、山田は以前の会議で変質した利権関係者らに対する懸念を放棄した。敵対陣営の狼狽は、現時点において正常な反応である。
田中という異物。それは自己の調査過程における情報収集不足により生じた、単なる捕捉漏れに過ぎない。誤差の範疇だ。山田はポーカーフェイスの下で口角をさらに緩ませ、そう断定した。
状況が解析された以上、これからの行動指針の策定は容易である。
佐々木という強い毒を戦線投入させた代償は小さくないリスクであるが、周囲の狼狽した顔ぶれが答えを教えてくれた。混迷していた疑念は霧散し、確信が脳内にて組み上がっていく。
確信は理の構築を加速させる。制御不能と思われたカオスも、再び自己の支配下にある領域へと置換し、冷徹な勝利へのプロセスに向かう。次の一手、つまり佐々木の制御へと意識を遷移させた。
草津は神妙な顔貌を維持し、田中を網膜に固定している。
三浦は静止した状態で、全方向へと意識の触手を伸ばしていた。
その落ち着いた様子に、山田は三浦の顔貌から怯えという負の表出が消失していることに気づいた。その異様な凪に、臓腑の奥で微小な違和感が引っかかる。
だが、今はその違和感を取り除く時間はない。最優先すべきは、この会議の完遂である。暴威を撒き散らす魔人をいかにして檻に繋ぎ止めるか。
それは、いかなる精緻な工作よりも困難な綱渡りである。山田は無意識のうちに、剥き出しの左手首で顎先を拭った。自分自身が今、死線の真上に存在しているという事実。微細な嚥下と共にそれを自覚した。
その瞬間、山田の視覚は、魔人佐々木の前頭部から汗滴が滑落するのを見逃さなかった。
その汗滴は逃げるように頬を伝わり、顎先へ。
重厚な反射を繰り返す金無垢ロレックスが顎先に向かい、誤魔化すように拭い去る。
佐々木の眼目前に位置するのは、田中。
擦り潰す側の存在であった魔人の生体反応が、圧倒ではなく負荷を示唆している。会議室の空気密度は、未知の物理法則により再定義されようとしていた。




