第13話:遺品
山田の内部に発生した僅かな違和感。
三浦は再び床の染みと一斗缶へ視線を落とした。
この執務室で昨夜遂行されたのは佐藤の排除。しかしその事実は三浦の脳内で、山田の持つ堅実性と、目の前の粗雑な現実を衝突させる。
緊急に呼び出された清掃業者、悲惨な痕跡を残す雑な証拠の抹消。場当たりで、短絡的な後始末は計画性を欠如している。盤面に適当に駒を放り投げるような悪手を、山田が選択したとは考えにくい。
三浦は泥の中から這い上がるように身を起こし、床に転がった灰皿を拾い上げた。震えの止まった手で、それを机上の定位置に戻す。その音に呼応するように山田がピクりと眉を動かした。
山田は、いつもの挙動として口角を緩ませ、煙草を一本咥える。
取り出された安っぽいオイルライター。
指先でフリントホイールをシャッ、シャッと弾き、軽い金属の摩擦音を執務室に響かせる。
二度、三度と空回りを繰り返し、火種を煙草の先に供給する。
普段はオイルライターを使わない男が、なぜか所持し、愛用している。しかもその安っぽい作りを気に入っているようにも見える。
山田はその炎をじっと見つめ、煙草の先端を燃焼させる。吸い込まれる空気が火種を赤く輝かせ、静かに、だが確実に、白い煙が山田の顔貌を覆い隠していく。
佐藤という一人の人間を処理しながら、何食わぬ顔で紫煙を吐き出す。山田のその平然とした佇まいに、ドス黒い嫌悪感と、笑うしかないような呆れが混濁し湧き上がった。
だが、いつもの口角を緩ませる仕草を見た瞬間、これが通常通りの山田なのだと、三浦は納得を強制されてしまう。当たり前になっている呪いみたいなものである。
せめて、頬に爪痕、破損した調度品の存在、そのような突発的な闘争の傷跡の形跡があれば、偶発的に起きた殺害として、まだ理解の範疇に収めることができる。
しかし、山田の顔貌にもこの空間にも、人が絶命に至る痕跡がない。闘争に伴う「生の執着」といった残留成分が微塵も観測されない。
美味そうに紫煙で肺を満たす、この男のポーカーフェイスをどれほど凝視しても、そこから得られるのは佐藤が死亡したという事実のみ。短絡的に排除を実行したことが掴めないのだ。
三浦の眉間に、深い皺が刻まれた。
完璧に塗り込められた漆黒の壁。そこに、たった一点だけ、針の先ほどの極小で鋭利な白い突起が存在しているかのような、耐え難い不快感。
その突起の正体は不明ながら、確実に引っかかる違和感として存在している。
三浦は、その不快な違和感の正体を突き止めようと、再び山田を見据えていた。
先ほどまで、小動物のようにガタガタと震え、死の恐怖に支配されていた男の面影が消え失せていることに、草津は目を丸くした。三浦の面構えが直前の状態と乖離しているのだ。
死線を踏破し、底から浮上してきたような、個体としての格を上げた男の顔貌。それはあの会議室で体験した田中の変容を、鮮烈に想起させた。
草津は反射的に、視線を執務室の四隅へと走らせた。
床面、壁面、天井へと、田中の事象のように、世界の構造を書き換えていくような動作と音の乖離を伴う現象を探す。しかし、空間を埋めているのは山田の吐き出す紫煙と秒針の刻音のみであった。
ふぅと、安堵が草津の喉から漏れる。その挙動にハっと今自分が安堵を自覚したと気づいた。しかし、なぜ安堵を覚えたのか、その理由は草津自身もわからない。
先ほど点けたばかりの煙草を唇から引き抜く。
あんなに求めていたはずの煙には、もう苦味も風味も、一切の味がしなかった。草津は嫌悪感を剥き出しにして、まだ長い残骸を灰皿の底へ、グリグリと力任せに押し付けた。吸い殻を徹底的に破壊し、火種を完全に圧殺しなければ気が済まなかった。見えない底から意識を引っ張る焦燥感。一体何に追い詰められているのか。ただ衝動が迫るのみであった。
三浦は山田から視線を外し、俯きながら煙草を咥える。立ち上がる紫煙を燻らせながら、事態の再構成を揺らめく煙に投射する。
まず、動かしようのない事実がある。権威の檻を粉砕し、佐々木は外へと解き放たれる。そのトリガーは山田が漏らした田中の話。
しかし、ここでも致命的な不一致が三浦を苛む。完璧主義である山田が、なぜあのような迂闊さを見せたのか。
佐々木を権威の檻に閉じ込め拘束していたのは、山田自身ではないか。共生関係にある山田が意図的に解放するとは考えにくい。檻を自ら破壊するメリットはどこにある。佐々木という暴威の解放は、事後処理にかかるコストもリスクも多大であり、あまりにも理にかなわない。
ふと、机の端に視線を落とした。
煙草は、完全にフィルターまで炭化し、ポツンと灰皿に置かれている。
思考がドツボにハマりかけていると、三浦は自身が解のない迷宮を彷徨い始めたことを自覚した。
一人でこの違和感を抱え続けることは、精神的な負担が大きい。これは共有すべきである。隣で煙草を押し付けていた草津へと視線を投げた。
この執務室で行われた佐藤の処理と、山田に発生している、悍ましいまでの機能不全の正体を草津れ問うのだ。
草津は三浦の早口な分析の話を黙って聞き終えると、下顎に手を当て沈思した。だが、返ってきたのは、期待を裏切るような素っ気ない応答であった。
草津にとって、佐々木という怪物は理屈の及ばぬ天災だった。あの魔神を至近距離で浴びれば、いかに冷静沈着な山田といえど、機能低下に陥るのは必然。
メッキが剥がれ、顎先から一滴の汗を滴らせていた、あの瞬間が、草津には山田という男の限界に見えたのだ。イレギュラーな事態に、山田もまた人間として動揺しただけなのだと。
しかし、三浦の視線は依然として鋭く、床の染みから離れない。
草津はまた沈黙し、佐藤の件は、明日の葬儀への同行により様子を見ることで、何か得られる可能性を示唆した。
この提案は、草津なりの妥協であり、深掘りする意思がない拒否でもあった。
山田が本当に壊れているのか、あるいはすべてが計算された狂気なのか。それを問うつもりはなかった。




