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アカシック・ロード  作者: Janpon
本編
12/33

第12話:忍び寄る異変



 草津は剥き出しの黒い陰影を顔面に刻み、山田は椅子に深く腰を下し、指先を顎に固定したまま、視線は一点を貫いている。机の端、灰皿に置かれた煙草はフィルターまで炭化していた。焼き尽くされた無惨な成れの果て。熱は既に喪失している。


 空間を埋めているのは、電灯に照らされた、停滞する紫煙の残滓のみ。時計の秒針が刻む無機質な音が鼓膜を叩く。

 通り過ぎる車両の通過音が、振子のように近づいては遠ざかり、反復する。


 草津は静止した執務室の静寂の中で、己の意識をあの会議室の断片へと引き戻していた。

 隔離された思考の小部屋に、あの瞬間の田中が鮮烈に立ち上がる。

 地味で、背景に過ぎなかった男が、一瞬にして存在を変えたあの変貌。周囲の空気を一気に引き寄せ、草津の意識諸共、自身へ引きずり込んだあの得意な磁場。息が詰まるような存在感が草津の臓腑を鷲掴みにする。


 だが、その不可思議な輝きを佐々木は排除すべき対象として目をつけてしまった。

 

 世界を塗り替えていくような、あの燐光。それが、理不尽に擦り潰され、消されてしまう。

 草津はスーツの下で、止まらない身震いを感じていた。

 佐々木の眼光に晒された敵対者の中で、人としての形を保ったままの人間など、草津の知る限り一人も存在しない。


 田中もまた、あの魔人の前では壁の黒い染みにへと変容してしまうのだろう。

 圧倒的な不条理と、問答無用の蹂躙。

 泥の底に人の頭を押し付け、呼吸を奪い、残骸を拾い集める光景。

 そんなものはガキの頃から、いつでも…。


 ハっと、草津はいつの間にか燃え尽きた煙草に気づき、意識を現実に引き戻した。指先に残る僅かな重みが、虚脱感を自覚させる。思考の泥濘から這い出すように、新たな一本を咥え、視線を室内へと泳がせた。

 視線の先で、固まっていた山田が僅かに動いた。草津の視線を察したのか、いつものように口角を緩ませる。だが、それは古い写真のようにどこか色褪せて見えた。それは本日蓄積された疲労のせいか、あるいは魔人の放った圧にやられ、内側を摩耗してしまったせいか。


 そして、草津の視界の端に、三浦の姿が入り込んだ。


 そこにいたのは、天災を前にして、ただ震えることしかできない小動物だった。

 言葉を発することなく、身体の節々を小刻みに痙攣させている。強張った肩、指先まで伝播する腕の震え、血の気の失せた弱々しく動く唇。

 限界が近い挙動。もはや抗うことは不可能に見える。草津は重く淀んだ同情を、紫煙と共に吐き出すしかなかった。


 秒針の刻音が、静まり返った執務室で拡大していく。その響きは三浦の脳、そして背骨の中に乱反射し、神経を乱雑に掻き回す。

 脳裏にあの禍々しい恐怖がフラッシュバックする。

 カランと、ロレックスがグラスに滑り込み、トクトクと焼酎をそこに注ぐ佐々木。その底知れぬ狂気。三浦の精神は摩耗と腐食を繰り返していた。そして本日の佐々木の変容。そのことが致命的な杭となり、摩耗と腐食で脆くなった部位を縫い付けるように打ち付けた。


 直後、ビクっと、三浦の四肢に電気ショックのような痙攣が走った。

 硬直し、制御を喪失した手が机上の灰皿を薙ぎ払う。

 静寂を切り裂くカラン、カランという乾いた硬質な音を響かせ、灰皿は床を転がる。

 三浦の絶望を象徴するかのように、撒き散らされた吸い殻と灰が薄汚れた床に飛散した。

 無機質な執務室はその無様な失態の光景を冷徹に受け止めていた。


 顔をさらに引き攣らせ、顎の震えを抱えながら慌てて片付けようと、三浦は床に這いつくばった。震える指で灰を掻き集めようとした、その時だ。三浦の視線に二つの違和感が飛び込み、網膜を膠着させた。


 歪み変形した一斗缶、そして不自然な床の染みである。


 脳内で点と点が繋がり交差する。

 今朝方見た鼠の死骸、昨夜訪れた鼠のような男、佐藤。


 逃げ場のない暗く、冷たい水の底に抵抗する術もないまま、ゆっくりと沈み込んでいく。窒息が、三浦の頬から一気に血の気を引かせる。浮上する溺死体のように、かろうじて顔を出し、三浦は震える首を山田へと向けた。


 三浦の認識を感知した山田はゆっくり首を左右に振り、再現性が無かったことを伝えた。

 突如、執務室に配置された直線が全て捻じ曲がり、空間そのものが歪みはじめる。自分の鼓動も山田の声も全てが遠くに鳴っている。毛穴から水滴が湧き出て床に溢れるのが実感できるほどのスローモーション。その中で気づいてしまった。


 胃の内容物を全て吐き出すような悪寒。察してしまったのは、この空間で遂行された惨劇である。

 早朝に見慣れぬ清掃業者が存在したが、この事後処理のためであった。


 精神の負荷が限界を迎える。三浦は今、床に窒息するまで見えない何かで押さえつけられている。いや、床ではない。水の音、腐敗した臭い、不規則な気泡の揺れ。床はいつしかドブ川の底に変わっていた。

 三浦の衝動は逃走から「生き延びたい」という強烈な生存の願望に変わっていく。

 汗なのか涎なのか液体の全てが噴出し擦り潰され、絶望がピークを迎える。その時、突き刺す異物、違和感。それは三浦の内部に冷静さを誘導する流れ。

 押さえつけられていた底を、足が踏み抜く。


 用意周到で完璧主義の山田に不適合な行動。

 衝動に駆られる男ではない。

 迂闊に余計な話をする男ではない。



 三浦は足元から視線を上昇させる。床面の染み、変形した一斗缶、山田の顔貌。

 チクタクチクタクと時計の秒針が三浦の頭頂部から共鳴する。その共鳴が足元に広がるドブ川の幻想を溶かしていく。


 口角を緩めた山田のいつもの顔はどこか機械じみていた。


 異変は今、山田に発生している。


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