第11話:金無垢の暴力
家事使用人の女から渡された背広に袖を通す。シャッと、細部まで上質に作られたスーツは秩序を最高級に高め、摩擦ゼロの腕の抜けを可能にする。
その袖口からは、歪な拳、人を殴り過ぎて変形した手が禍々しく露出した。クレーターのような質感を伴う皺に刻まれた、「物理的に擦り潰してきた歴史」にジャラリと、重厚な光を放つ金無垢ロレックスを王冠のように装着する。パチィンと、留め金の音は支配者の鐘の音の如き威圧を放った。
この左手首の輝きは焼酎に浸かった紛い物には出せぬ本物。手首を回し、その光を佐々木は確認する。反射する黄金の輝きは、嫌がらせのように家事使用人の女を照らした。何気ない日常の圧力により、年齢の割には白い頭髪がその光を受け止める。彼女は今は亡き佐々木の部下の妻。義理と意地がプライドを形成し、古参の家事使用人として佐々木への対応にも慣れがある。
だが、磨き上げられた革靴の硬質な音の威圧も相まり、ベテランプロ家事使用人の意識は容赦なく削られ、業務遂行不可手前である。
本日、佐々木の放出する波動は通常ではない。
佐々木という男の正体、それは略奪の歴史そのものであった。
かつて煙と瓦礫に埋もれた焼け野原で、何もかも根こそぎ奪われた。そして、何もかも奪うことで己を満たしてきた。佐々木にとって生存とは呼吸することではない。他者を侵略し、その尊厳を支配下に置くことである。
足元に捨てられた煙草の吸い殻を、狂気じみた執拗さで靴底に擦りつけた。完全に消滅するまで繰り返されるその挙動。それとともに、老いた皮膚の裏側からドス黒い怒りの顔貌が浮き彫りになっていく。
佐々木が放出する気配はもはや個人の出せるものではない。天災に近い人災が空気を波立たせていた。
金無垢の光を放ち、歪な節くれの指が、虚空を掴むように僅かに動く。
久しく味わっていない支配欲の実感。
牙を剥くべき敵を、その喉元を食い破る実感を求め、闘争衝動が黒いシミのような産声を上げていた。
服従か崩壊か。
交渉のテーブルに三度目の機会は存在しない。「交渉事は三度会うべからず」という佐々木の鉄則は、慈悲を省いた剥き出しの侵略原理である。
初見で意思を示し、二度目に膝を折らせる。良き返事が得られないのなら、相手を闇に屠る。擦り潰しながら勢力を広めていく、焼け野原で辿り着いた魔人の流儀。
しかし、飲み込み拡大していった利権、そして組織はいつしか魔人の首を締めだす。法と秩序と体裁。時代の潮流が魔人を奥へ奥へと追い立てていく。窒息にも似た息苦しさを覚えた頃には、佐々木は「権威の檻」へと閉じ込められていた。
佐々木の流儀を守りながら唯一生き残った、山田は「権威の檻」に相応しいか、後継者として草津というガラス細工を寄越した。擦り潰さずにいられるか?後継者を使った理性のリトマス試験紙。
草津が無傷でいるうちは、まだ佐々木は話の通じる相手だと判断できる。
その目論見は佐々木には見抜かれ、小賢しい真似をと、鼻で笑う。
だが、沈黙は破られた。あの小物の山田が漏らした田中という若造。数々の人間を擦り潰してきた眼光に圧力が集中する。
佐々木の節くれ立った指先が、獲物の喉笛を探り当てるように疼きだした。
長く、あまりに長く抑圧され続けてきた魔人の暴力性が、ついに制御の限界を突き破り、どす黒い噴煙を上げて溢れ出したのだ。
佐々木にとって、この高度経済成長期は己の血と汗で塗り固めた成果物。
かつて見渡す限りの焼け野原から、泥を啜り、他者を踏みつけ、「努力すれば報われる」という神話を現実のものへと変えてきた。その自負こそが、彼の骨髄を支える芯棒である。
しかし、今の世代は、かつての功労者が築き上げた土台の上に安住し、血の味も知らぬまま、形ばかりの敬意を払うばかり。若造共にとって佐々木は、もはや敬うべき支配者ではなく、時代の隅に放置された巨大な遺物に過ぎない。
己を不要とするこの時代の世代に喝を入れるのは当然のこと、なぜなら、己はこの時代の功労者であり支配者なのだからだ。
家事使用人の女がプロのプライドに賭けて、ドス黒い圧の中で、辛うじて意識を繋ぎ止ながら佐々木に杖を渡した。
佐々木はそれを指先で摘むと、ハイヤーが待つ車止めまで歩を進める。体が悪いから杖を使用するのではない。貫禄、威圧、人を叩きつけるのにうってつけだからである。「しばく」という名に相応しい紳士の嗜みと正装。
辛うじてプロの矜持を守った女の口は泡を噛んでいた。
田中は敵対勢力の若僧。擦り潰しても問題はない久しぶり現れた極上の生贄。山田の報告を聞きながら、佐々木の脳裏にはかつての焼け野原の光景が、鮮烈な血の匂いとともに蘇っていた
あのように、馴染めぬ危険領域において、絶望に打ちのめされ、泥濘の底へと顔面を幾度も擦り付けられ、息絶えていくだけの個体がいる。しかし、ごく稀に、その極限の重圧の中で何かが「覚醒」する個体がいる。泥の底を力強く蹴り上げ、地獄の淵から覚醒とともに浮上し、生まれ変わってくる異形の強者。
焼け野原の中で、闇市の闇の中で、何度かそんな個体が周囲を圧倒し、己の生存領域を広げてきたのが散見された。
生まれ変わった者達は新しい時代を切り拓いていく。
佐々木はそんな存在を擦り潰して生きてきた。
覚醒を果たした今の若造を擦り潰す渇望。
それは抑圧された魔人の忍耐の限界を突破してしまった。




