第10話:侵食される日常
安アパートの鉄骨外階段をカツン、カツンと登る金属音が室内に侵入する。時刻はちょうど18時。甲高い金属音でありながら、地を這う重低音のように、床を、壁を、天井を突き抜け、メトロノームのような正確さで迫り来る。
靴音に似せた、耳の奥に直接打ち込まれる無機質な信号。
女房はか細く、ひび割れた指先で腹を押さえ、窒息せぬよう口を覆った。
ガチャリと、安っぽいドアに似つかわしくない重厚な音が居間に響く。
ドアから差し込む西陽が部屋を焼き、夫の輪郭を黒く塗りつぶす。逆光の中に立つその姿は、あまりにも直立不動で、重力の影響を無視した彫像のようだった。
高度経済成長の時代、田中はこの時代の男としては珍しく女を殴らない男であった。冴えない風貌通りの気の小さい男。
どこかで学習した「男の威厳」に憧れ、汗でテカテカさせた手を震わせながら上げたことがある。叩くのか問えば、「そのつもりだけど」と答え、困惑と緊張を同居させた顔で困り果て、引っ込めた。
呆れた女房の視線に炙られ、身を丸くしながら、今にも泣きそうであった。
田中なりに、それは一般的な家庭生活に必要不可欠な要素だと、結婚生活を模索した結果であった。
側には週刊誌が転がっていた。
男の苦悩を肉体で受け止めるのは女の嗜みであり、男の出世と女の体の損傷に明確な相関関係が成立する。女達は鏡を見るたび、サングラスの奥で黄色く変色していく頬の熱を、男の出世への供物として数えていた。
伸ばした髪でアザを隠すのは、トレンドである。
こんな記事を間に受けた夫に心底女房は呆れたのだ。
夫はそんな気の弱い、流されやすい平凡な男。周囲も、女房自身も、何より本人がそのように評価していた。
平凡な自分に見合うような量産型の夫。
自分を選んでくれた男は絶対にそうなのだ。
田中の家でビールの栓を開けるのは、田中の定位置であった。冷やしたビールとグラス、ツマミの用意は、田中の女房が滞りなく調え、夕飯までの間を埋める。大袈裟に喉を鳴らしてビールを飲む音が聞こえる。机に顎を乗せるような猫背で、飲んだ側から汗をかいている。
夫はそのようなだらしなく、穏やかな男であり、愛すべき日常の風景なのだ。
頭に怪我をして帰ってきた、あの日までは。
始めに、玄関の外から聞こえる足音から変わってしまった。ドアの開け方も、靴の脱ぎ方も、部屋に入るなり緩めるネクタイの仕草も。どれも録音された音を再生しているかのよう。
動作から音が発生しているというより、頭の中に無理やり響かせているような、二重の世界に放り込まれたような感覚。
最初は疲れや体調の悪さ由来の、自身の感覚のズレだと女房は考えた。しかし、違和感では収まらない異物感が日常を侵食し始めたのだ。
全てが夫の動きでありながら、夫を正確に模した精緻な挙動のようでもあった。
靴を脱ぐ角度が毎回ピタリと同じであったり、洗練された舞のような品格が、その動作の端々から漏れ出ている。
汗の臭いを振り撒くように脱いでいたシャツは、臭いもしなければ皺すらなかった。
まるで割れた鏡に写る同じ風景の別世界のような、違う日常に迷い込んだ感覚が決定的に後戻りできない喪失感をもたらしてくる。
今している仕草が正しいのか確認するかのように、挙動に妙な間があり、背筋を伸ばしたままビールを注ぐ。毎回泡の立ち方まで同じに揃える。
喉を鳴らすことなくビールを飲みながら「責任のある仕事をこなしているのだ」と、夫は夫によく似た笑顔で女房に語った。その声は夫の声なのに、どこか遠くで鳴っているようにも聞こえた。
ゴミ捨て場の噂話では、「えらい怖い方と鎬を削るような業務だとか――」。
田中の女房は困惑を隠せなくなっていた。
己を選んでくれた男は、平々凡々たる社会の価値観に己の価値観を合わせる、破綻のない量産型の男であった筈だ。
命運を分ける 一線に参加するような、非凡な人物では決してなかった。
輝きもしなければ、くすみもしない男。それが、彼女が安堵する日常の夫であった。
夫であって全く違う夫。
今した足音の主は、西陽で顔が見えない相手は、一体何者なのか?確かめようとすれば、何かが決定的になってしまうような得体の知れない不安。
それを抱えた矢先に、腹の中で種が芽吹いたのだ。
今目の前にいるのは、それを望んだ人なのか。寄越された機械的な笑顔が女房の胸を締め付けた。
ただ、この不穏な日常からこの子だけは守らなければと、腹に手を当てた。




