92. 北の果ての君へ
北の果ての君へ
障子一枚を隔てた向こうから、しとしとと雨の音が聞こえる。山の温泉宿は静寂に包まれ、部屋の中には俺たちの吐息だけが満ちていた。 「……きれいだ」 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。 目の前には、糊のきいた清潔な浴衣を身にまとったユキがいる。しっとりと濡れた黒髪、上気した白い頬、潤んだ瞳。その全てが、まるで絵画のように完璧だった。
北海道の旅先で出会った、奇跡のような女性。 数々のハプニングを乗り越え、俺たちは今、ここにいる。キスはもう、済ませた。彼女の唇は驚くほど柔らかく、甘い味がした。 もう、ためらう理由なんてない。 俺はゆっくりと手を伸ばし、彼女の浴衣の帯に指をかける。ユキの肩が、ぴくりと小さく震えた。
「ユキ……」 名前を呼ぶ。彼女の瞳が不安げに揺れる。大丈夫、怖がらせたりしない。優しく、大切に、お前を俺のものにするから。 高鳴る鼓動がうるさい。これは、恋だ。紛れもない、本物の恋だ。この感情の奔流に従って、俺は帯を解き、しなやかな素肌へと指を這わせる。 そう、この瞬間まで、俺は世界で一番の幸せ者だった。 この後、天地がひっくり返るほどの悲鳴を上げることになるとは、夢にも思わずに――。
ことの始まりは、一週間前。三十路を記念した、というわけでもないが、長めの休みを取って北海道へのツーリング旅行に出た。相棒はカワサキのW800。クラシカルなフォルムが自慢の愛馬だ。日々の仕事のストレスも、三日前にフラれた彼女のことも、北の大地の風が全て忘れさせてくれるはずだった。
稚内からオロロンラインを南下し、最北端の宗谷岬へ。定番の記念撮影を終え、間宮林蔵の像をぼんやり眺めていると、一台のバイクが隣に滑り込んできた。 思わず、息を呑んだ。 見たこともない、美しいバイクだった。古き良き英国車の香りがする、トライアンフのボンネビルだろうか。手入れの行き届いたクロームメッキのパーツが、北国の弱い日差しを反射してきらきらと輝いている。
そして、そのバイクから降り立ったライダーを見て、俺は二度目の衝撃を受けた。 すらりとした長身に、黒のライダースーツ。フルフェイスのヘルメットを外すと、艶やかな黒髪がふわりと風に舞った。現れたのは、驚くほど整った顔立ちの、涼しげな目元が印象的な女性だった。
「いいバイクですね。W800、渋いチョイス」 彼女は俺の愛馬に目を細め、そう言った。その声は、鈴が鳴るように心地よかった。 「あ、ありがとうございます……。そちらこそ、ボンネビルですか?めちゃくちゃ綺麗ですね」 「ふふ、ありがとう。この子、ちょっと気難しくて手がかかるんですけど、そこがまた可愛くて」 そう言ってバイクのタンクを優しく撫でる彼女の横顔は、神々しいまでに美しかった。これが、ユキとの出会いだった。
バイクという共通の趣味は、人と人の距離をあっという間に縮める。俺たちは自然と打ち解け、しばらくバイク談義に花を咲かせた。彼女が同じように一人で旅をしていると聞き、俺は勇気を振り絞って誘った。 「もし、行き先が同じ方向なら……一緒に走りませんか?」
ユキは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。 「本当?嬉しい。一人旅もいいけど、少し寂しかったの」 こうして、俺の孤独な旅は、最高のパートナーを得て、二人旅へと変わった。ユキとのツーリングは、夢のように楽しかった。どこまでも続く直線道路を並んで走り、美しい景色を見つけてはバイクを停め、くだらない話で笑い合った。彼女のライディングフォームは驚くほどスムーズで、見ているだけで惚れ惚れした。
事件が起きたのは、知床へ向かう山道でのことだった。 カーブを抜けた先、道路の真ん中に、黒い塊が鎮座していた。 「うわっ!?」 思わず急ブレーキをかける。それは、ヒグマだった。しかも、二頭の子熊を連れた、巨大な母熊。映画やドキュメンタリーでしか見たことのない、野生の王者が、俺たちをじっと見据えている。
「やばい、やばいやばい!どうするんだよこれ!」 俺は完全にパニックだった。頭の中では「死んだふり?いや、バイクだから無理だろ!」「クラクション鳴らす?刺激したら終わりだ!」などと、無意味なシミュレーションが高速で繰り返される。
その時、隣にいたユキが、静かにエンジンを切った。 「大丈夫。騒がないで」 彼女の声は、不思議なほど落ち着いていた。 「熊は、こっちが何もしなければ、何もしないから。ただ、通りたいだけ」 ユキはそう言うと、バイクに跨ったまま、ゆっくりと息を吸い、そして、信じられない行動に出た。
「こんにちは。ちょっと、そこ通らせてもらえるかな?」 なんと、ヒグマに話しかけたのだ。優しい、語りかけるような声で。母熊は、まるでその言葉を理解したかのように、しばらく俺たちを見つめた後、ゆっくりと立ち上がり、子熊たちを促して森の奥へと消えていった。 呆然とする俺の隣で、ユキが「ふぅ」と小さな息をつく。
「……ユキさん、あんた、何者?」 「昔、少しだけ動物の勉強してたから。でも、さすがに肝が冷えたな」 そう言って笑う彼女は、とてつもなく格好良かった。この時、俺の中でユキへの感情が、ただの「綺麗な旅仲間」から、特別な「憧れの女性」へと変わったのをはっきりと自覚した。 笑い話だが、この日から俺はユキのことを心の中で「ヒグマ使いのユキ」と呼ぶようになった。
次なるハプニングは、美幌峠を越えようとしていた時に訪れた。季節は初夏だというのに、空がにわかにかき曇り、白いものがちらつき始めたのだ。 「嘘だろ……雪?」 最初はただの風花だったものが、あっという間に吹雪に変わった。気温が急激に下がり、路面がシャーベット状になっていく。ノーマルタイヤのバイクでは、これ以上進むのは危険すぎる。
「近くに、避難小屋があったはず!」 ユキの言葉を頼りに、俺たちはなんとか近くの無人の山小屋に転がり込んだ。小屋の中はひんやりとしていたが、幸いにも薪ストーブと少しばかりの薪が残されていた。
火を起こすと、パチパチという音と共に、暖かい光が俺たちを包み込む。ずぶ濡れになったライダースーツを脱ぎ、備え付けの毛布に二人でくるまった。ストーブの前に並んで座り、冷え切った手を火にかざす。 沈黙が、気まずいようで、心地よかった。 「ごめんね、無理させちゃって」 ユキが申し訳なさそうに呟く。 「いや、俺の方こそ。ユキがいなかったら、今頃どうなってたか」 本当にそう思う。ヒグマの時も、今も、彼女の冷静な判断に救われた。
「私、一人だったらきっと泣いてたよ」 「まさか。ヒグマに話しかける人が?」 「あれは、虚勢。本当は、足がガクガクだったんだから」 そう言って、はにかむように笑う。ストーブの炎が、彼女の横顔を赤く照らしていた。そのあまりの美しさに、俺は言葉を失った。 どれくらいの時間が経っただろう。雪は止む気配を見せず、外はすっかり暗くなっていた。俺たちは、他愛もない話をした。好きな音楽、好きな映画、子供の頃の夢。ユキは俺の話を、どれも楽しそうに聞いてくれた。
ふと、会話が途切れた。ストーブの燃える音だけが、やけに大きく聞こえる。 視線が絡み合う。ユキの瞳が、潤んでいるように見えた。 吸い寄せられるように、顔が近づいていく。どちらからともなく、俺たちは唇を重ねた。 雪山の山小屋、二人きり。シチュエーションとしては完璧すぎた。キスは、甘くて、少しだけ薪の匂いがした。 これが、俺たちのファーストキス。この時はまだ、最高にロマンチックな思い出になるはずだった。
そして、運命の夜がやってきた。 雪が止んだ翌日、俺たちは峠を降り、温泉街に宿を取った。もちろん、部屋は二つ……ではなく、一つの部屋を予約した。昨日のキスで、俺たちの関係はもう、そういう段階に進んだのだと、俺は確信していた。 温泉で旅の疲れを癒し、部屋でささやかな宴会を開く。ビールを飲みながら、これまでの旅を振り返る。 「ヒグマ、マジでビビったよな」 「あの時のあなたの顔、最高に面白かったよ」 「うるせえな!雪もすごかったし……でも、楽しかったな」 「うん、すごく、楽しかった」
ユキはそう言うと、ふっと寂しそうな顔をした。その表情が、少しだけ気になったが、アルコールのせいだろうと深くは考えなかった。 そして、冒頭のシーンへと至るわけだ。 浴衣姿のユキは、湯上がりのせいか、それまでより何倍も艶っぽく見えた。俺の理性を飛ばすには、十分すぎるほどの破壊力。
キスをして、雰囲気は最高潮。俺は彼女の帯を解き、その柔らかな肌に触れようとした。 だが、その時。 「……ごめん」 ユキが、震える声で言った。 「私、言わなきゃいけないことがあるの」 その表情は、今までに見たことがないほど真剣で、深刻だった。 え?なんだ?なんだこのシリアスな空気は。 俺の脳内は、瞬時にパニックに陥った。
『まさか……既婚者でした、とか!?いや、指輪はしてない!』 『借金が何千万もあります、とか?俺に保証人になれと!?』 『実は、指名手配中の凶悪犯で……?だからヒグマにも動じなかったのか!』
様々な妄想が頭を駆け巡るが、どれもしっくりこない。 「どうしたんだよ、改まって」 できるだけ優しく問いかける。ユキは何かを言いかけたが、結局、首を横に振って、俺の胸に顔をうずめた。 「……なんでもない。今は、あなたのことだけ考えていたい」
その言葉に、俺の最後の理性は粉々に砕け散った。もうどうにでもなれ、だ。 俺はユキをそっと押し倒し、彼女の浴衣の前をはだけさせた。白い肌が露わになり、くらりとする。俺は衝動のままに彼女の体に手を伸ばし……その中心へと指を滑らせた。
その、瞬間だった。 俺の指先に、ありえない感触が伝わった。 (……むにっ)
え? なんだ、今の。柔らかくて、弾力があって、でも、明らかに、そこにあるべきではない、何かが……。
俺は混乱した。何かの間違いだ。そうに決まってる。しかし、指先は正直だった。それは紛れもなく、俺がよく知っている、男の、それだった。 血の気が引くのが分かった。ゆっくりと、恐る恐る、視線を下げる。 そして、見てしまった。 ユキの、いや、彼の股間に、鎮座する、立派なイチモツを。
時が止まった。 数秒後、俺の口から、自分のものではないような、甲高い絶叫がほとばしった。 「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
俺の悲鳴に驚いたユキが、びくりと体を震わせる。そして、全てを悟ったように顔を覆い、わっと泣き出した。 温泉宿の静かな夜は、男の悲鳴と、もう一人の男(?)の泣き声によって、地獄絵図と化した。
それからの記憶は、正直言って曖昧だ。 俺は部屋の隅で体育座りをし、ユキは布団の上で泣きじゃくっていた。気まずいなんてレベルじゃない。異次元空間に放り込まれたような感覚だった。
どれくらいそうしていただろうか。しゃくりあげながら、ユキがぽつりぽつりと話し始めた。 彼の名前は、本当はユキヒロということ。 物心ついた時から、自分の性に違和感があったこと。 心は、ずっと女性だったこと。 家族にも、友人にも言えず、ずっと一人で悩んできたこと。 そして、必死でお金を貯めて、来月、タイで性転換手術を受ける予定であることを。
「北海道に来たのは、男としての自分との、最後の決別の旅だったんだ……」 そこで、俺に出会ってしまった、と。
「君といると、本当に楽しくて……女として見られていることが、嬉しくて……。日に日に惹かれていくのがわかった。でも、本当のことを言ったら、君はきっと離れていってしまう。それが怖くて、言えなかった……ごめんなさい……ごめんなさい……」 嗚咽を漏らしながら謝るユキを見て、俺は何も言えなかった。 頭の中はぐちゃぐちゃだった。「騙された」という怒り。「でも、あんなに綺麗なのに」「楽しかった時間は嘘だったのか?」「いや、嘘じゃない」「でも、男だぞ?」「俺は男とキスを……」「ぎゃああああ!」 思考がループする。
俺は耐え切れなくなり、部屋を飛び出した。 深夜の旅館のロビーは、がらんとしていた。自販機で缶コーヒーを買い、ソファに深く沈み込む。 何が何だか、わからなかった。 俺が好きになったのは、あの美しいユキだ。ヒグマにも動じない、格好いいユキだ。雪山で優しく微笑んでくれた、可愛いユキだ。 そのユキが、男? でも、彼女の、いや彼の苦しみは本物だ。ずっと一人で闘ってきたんだ。それを思うと、胸が締め付けられるようだった。
缶コーヒーを飲みながら、旅の思い出を一つ一つ、反芻する。 宗谷岬での出会い。並んで走ったオロロンライン。知床のヒグマ。美幌峠の雪。山小屋でのキス。
その全てが、キラキラと輝いていた。そこに、嘘はなかった。俺が感じた胸の高鳴りも、ドキドキも、全部本物だった。 性別って、なんだ? 男とか、女とか、そんなものはただの記号じゃないのか? 俺が好きになったのは、「ユキ」という一人の人間だ。その魂に、惹かれたんじゃないのか? 身体が男だって?それがなんだ。来月には、女になるんだろう? いや、たとえならなくたって……。 俺は……。 答えは、もう出ているような気がした。 ごちゃごちゃに絡まっていた思考が、すっと一本の線になる。 俺は、ユキが好きだ。 ただ、それだけだった。
早朝、俺は覚悟を決めて部屋に戻った。 部屋のドアを開けると、ユキはすでに荷物をまとめ、出ていくところだった。その目は、泣き腫らして真っ赤だった。 「……ユキ」 俺が声をかけると、ユキはびくりと肩を震わせ、俯いてしまった。
「昨日は……ごめん。もう、行くから。全部忘れて」 「待てよ」 俺はユキの腕を掴んだ。 「忘れるわけ、ないだろ。あんなに楽しかったのに」 「でも……僕は、男なんだよ!君を騙してたんだ!」 「騙されたなんて思ってねえよ」 俺は、真っ直ぐにユキの目を見た。
「俺は、お前が好きだ。男とか女とか、そんなのどうでもいい。俺は、ユキ、お前自身が好きなんだ」 ユキの瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 「……いいの?こんな、僕で」 「お前がいいんだよ」 俺はユキを強く抱きしめた。腕の中の体は、少し骨張っていて、確かに男のそれだった。でも、そんなことは、もうどうでもよかった。 温かくて、愛おしい、俺の好きな人。ただ、それだけだった。
それから、一ヶ月後。 俺は、成田空港の到着ロビーにいた。少し緊張した面持ちで、タイからの便の到着を待っている。 やがて、到着ゲートが開き、人々がぞろぞろと出てくる。俺はその中に、必死で愛しい人の姿を探した。
そして、見つけた。 少し痩せたけれど、晴れやかな顔をしたユキが、少し照れくさそうに、でも、まっすぐに俺の方へ歩いてくる。 俺は大きく手を振った。 彼女は、俺の前で立ち止まると、はにかんで微笑んだ。今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。
「おかえり、ユキ」 「……ただいま」
俺たちの、新しい旅が始まる。 北の果てで見つけた、たった一つの、本物の愛。この手を、もう二度と離すものか。 俺は彼女の手を固く握りしめ、新しい世界へと、一歩を踏み出した。