鏡の前のアタシ
以前、"Serial Experiments Lain"というアニメを見たときに、ヒントを得て作成した短編です。今じゃベターな展開ですが、よかったらお付き合いください。
放課後の図書室は、日が傾くと独特の静けさに包まれる。
その日はとくに風が強く、窓の外の木々がざわめいていた。
図書室には場違いな鏡がある。そして、陽が差す鏡の前に、ひとりの女子生徒が立っていた。
彼女の名前はナミ。控えめで、教室ではあまり目立たない存在だった。
だが、その裏で彼女は、もう一つの顔を持っていた。
鏡の中のナミは、ほんのわずかに――口元を歪めて、笑ったように見えた。
「……なんか、変」
彼女は小さくつぶやき、曇った鏡に自分の顔を映した。
だが次の瞬間、背筋にぞくりとした冷気が走り、彼女はその場から一歩退いた。
“気のせいにしよう”――そう思った。
ナミには、誰にも明かしていない裏アカウントがあった。
本名も顔も出していない。パスワードをかけ、決して誰からもフォローされず、ただ本音だけを呟く場所。そして、自分以外は決して見ることがないアカウント。
《みんな、うわべだけのバカ。私のことなんて誰も気にしてない》
《笑ってるけど、全部作り物》
《本当の私は、ここにだけなの》
《あたしなんて消えちゃえばいい》
SNSの中だけが、ナミの“本当の自分”だった。
けれどある夜、その隔離されたはずの裏アカに、ひとつの通知が届く。
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@mirr0r.me
『ナミの本音、見えてるよ。』
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その言葉に、ナミはスマホを持つ手を強く握った。知られるはずのない“名前”がそこに書かれていた。
彼女は動揺しながらも、偶然だろうと自分に言い聞かせた。
しかし、すぐに二通目の通知が届く。
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@mirr0r.me
『今日は鏡、ちゃんと見た?』
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その時、ナミははっきりと感じた。
この“誰か”は、彼女の心の奥にあるものを見ている。
――それは、きっと図書室の鏡越しで見てるのだ。
次の日から、ナミは図書室を避けるようになった。
その行動には自分でも説明できない理由があった。
教室から図書室までの短い距離が、なぜか遠く感じられた。
途中にある廊下の鏡やトイレの鏡にも、目を合わせることはしなかった。
なぜ見たくないのか。言葉にすれば、胸の奥で何かがざわめき始める。
恐怖とも、記憶ともつかぬ不確かな感覚が彼女を覆った。
「気のせい」――何度もそう繰り返してみせる理性はあった。
だが本心は違った。
ナミの心の奥底で、確かな声が囁く。
(鏡には、近づかないほうがいい)
それは漠然としているのに、なぜか現実よりも鮮明だった。
理性が否定しても、身体は素直に反応し、目をそらし、足を止めて回避しようとした。
やがて、ナミは図書室の扉の前さえ通り過ぎるようになっていった。
そのほうが、何かが壊れてしまう予感から身を守れる気がしたのだ。
だが、それが誰の予感なのか――彼女にはまだわからなかった。
数日後、意を決してナミは図書室の扉を開けた。薄暗く埃をかぶった部屋の奥に鏡があった。いつもと変わらず、彼女の姿を映している――ように見えた。
だが鏡の中の“ナミ”は、わずかにまばたきをした。それも、ナミ本人がまばたきをするより先に。
空気が凍りついた瞬間、鏡の中の彼女が唇を動かす。声はなかったが、動きははっきりと見てとれた。
「かわってあげようか」
ナミは反射的に背を向け、逃げるように部屋を出た。身体は震え、握りしめたスマホの画面が震えているのがわかった。
図書室から逃げ出したナミは、その日からますます孤立を深めていった。誰にも話せない秘密の恐怖が、彼女の心をじわじわと蝕んでいた。
スマホには、相変わらずあの見知らぬアカウントからのメッセージが届き続けている。
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@mirr0r.me
『鏡の中で待っているよ』
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@mirr0r.me
『本当の君に会いたい』
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彼女は誰にも見せない裏アカウントを、もう開くことすら怖かった。
ある雨の日、ナミは学校を早退した。
自宅の小さな部屋に閉じこもり、スマホの画面を見つめていた。
画面の向こう側には、あの不気味なメッセージと、ひとつの動画が送られてきていた。
再生すると、図書室の鏡の映像が映し出されている。
だが鏡の中のナミは、こちらをじっと見つめ、微笑みかけていた。
それは、彼女が知らない、もう一人のナミだった。
動けなくなった彼女の背後に、ふと冷たい気配が忍び寄る。
振り返ると、部屋の隅に自分の影とは違う黒いシルエットがぼんやりと立っていた。
その存在は、じっとナミの目を覗き込む。
無言のまま、両手を伸ばし、ゆっくりと近づいてくる。
恐怖に声も出せず、ナミはただ息を呑んだ。
次に気がついた時、ナミは自分の部屋のベッドに倒れこんでいた。
スマホはテーブルの上で光を失い、画面は真っ暗だった。
体は重く、頭はぼんやりとしている。
窓の外はいつの間にか朝焼けに染まっていた。
ナミはゆっくりと目を開けた。だが、周囲の空気がどこか違うことに気づく。
部屋の鏡が、以前よりも鮮明に自分の姿を映しているのだ。
だが、その鏡の中の彼女の目が、わずかに違って見えた。
まるで、生きているか死んでいるかの境界を漂う者のように。
ナミはそっと鏡を見つめた。
鏡の中の自分が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
その瞬間、彼女の心は闇に飲み込まれた。
鏡の向こう側で何かが囁く。
「もう、戻れないよ」
------------------------エピローグ------------------------
それから数日、ナミは学校に来なかった。
担任教師は体調不良とだけ説明したが、クラスメイトの誰もがその名を話題にするのを避けていた。
それでもひとり、ナミと親しかったクラスメイト――アオイだけは、何かがおかしいと感じていた。
「最後に話したとき、なんか……変だったんだよね」
アオイは学校帰りにナミの家を訪ねる決心をした。
夕暮れ時、学校帰りにナミの家に寄ったアオイは、ナミの部屋の窓からうっすらと光が漏れているのを見た。
インターホンを押してみるが応答はない。だが、玄関の鍵はなぜか開いていた。
「おじゃまします」
家の中は静まり返っていた。
玄関で靴を脱ぎ、2階のナミの部屋まで上がっていく。
「ナミ? 入るよ……?」
アオイは覗き込むように部屋に入る。
ふと奥の鏡台の前に、人影があるのに気づく。
「ナミ……?」
振り返った“彼女”は、たしかにナミの顔をしていた。
けれど目元が少し違って見えた――深く沈んだ、どこか空虚なまなざし。
「……アオイ」
名前を呼ぶ声も、どこか奥から響くようだった。
「大丈夫……? ほんとにナミ?」
アオイがそう問うと、鏡の中の“もう一人のナミ”が、ゆっくりと笑った。
「私はね、こっちの方が楽だったんだよ」
そして鏡の中のナミが、鏡の外のナミに手を重ねる。
――まるで、境界がないかのように。
気がつくと、アオイは鏡の前にひとり立っていた。
部屋には誰もいない。鏡台の椅子には埃がたまり、ナミがいた形跡すら見つからなかった。
「……さっきまで、確かに……」
アオイが鏡を見ると、そこには“自分”の姿があった。
けれどその背後に、誰かが立っている――その気配だけが、はっきりと伝わる。
でも、振り返っても、そこには何もない。
なのに鏡の中では、“それ”が確かに微笑んでいた。
アオイは恐怖に怯えた……
その夜、アオイのスマホに通知が届いた。
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@mirr0r.me
『はやく、おいで』
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