2―壊れる日常
翌日、朝のまどろみを吹き飛ばすように布団から飛び起きリビングに入った。
僕はソファーの上で惰眠を貪っているキリコさんを尻目に、弁当と朝食を作る。
部屋に漂い始めた料理の匂いにつられたのか、キリコさんはゆっくり起き上がると、長い髪を手ですきながら眠そうな目をこちらに向ける。
「おらよう」
「どこの国の挨拶だよ」
目覚めと同時にボケるキリコさんに構ってる暇もないので、朝食にさっさと手を出す。
ノロノロと席に着いたキリコさんを見て、朝食を食べるのかな? と思ったのだが、キリコさんは朝食には手をつけずに何か言いたそうな顔をしながら僕を見つめているので、先手を打つことにした。
「何か言いたいことでもあるの?」
「うーん、貴方って、変わってるわよね?」
「どこが?」
「冷たい、というか、自分に無関係な事に対しては本当に無関心になれるじゃない」
「そんなもんでしょ、人って」
「違うわよ。連続殺人事件が何処か遠くで起こってるんじゃなくて、この町で起こっているっていうのに、貴方は本当に何事もないように日々を過ごしてるじゃない。普通、少しは安全に気を配ったりするでしょ?」
「そういうものかな〜?」
テレビを点けると、昨日キリコさんと論議した連続殺人事件のニュースがやっていた。
どうやら六人目の被害者が出たらしい。
ふーん、六人目かー、大暴れだな。
食器を洗い置きに入れ、一旦二階の自室に戻り、制服に着替え、教科書を鞄に詰めて用意終了。
今日も元気に学校行くかー。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい」
◇◇◇◇◇◇◇◇
日々の日常は退屈で、平和ボケしているこのつまらない世界に嫌になって、よし、死のうって考えてる人が今まさに地球上にいるかもしれないけど、僕は退屈な日常もつまらない世界も大好きだ。
それはまるで、ゆらゆら揺れながらもバランスを取り続けるやじろべえのようで、悪意と善意がバランスよく整っている人間の如く、普通の日常と言うものはバランスよく成り立っている。
だからこそ、普通の人からしたらつまらないと思ってしまうんだ、自分と同じ性質を持つ者を嫌うように。普通の人は普通の生活からの脱却を大なり小なり望んでると思う。
だけど僕は普通が好きだ。ミロのヴィーナスは欠けてるから美しい、とかなんとか言った人が居た、よく言ったもんだ。僕はその人に尋ねたい。
じゃあ、最高級のリンゴがあったとしましょう。顔も知らない誰かがかじったそのリンゴを食べたいですか? 地震で半壊した家は好きですか? 首のない死体は好きですか?
まあ、僕の質問は的外れかもしれない、だけど僕は、ミロのヴィーナスに腕がないからこそ数多ものパターンがあり、それが美しいという意見には賛成できない。ミロのヴィーナスの気持ちを考えたことがあるのか? ミロのヴィーナスにも元の姿はあったわけだし、ミロのヴィーナスも元の姿に戻りたいと思ってるだろう。
つまり、何が言いたいかというと、バランスの取れた姿が一番美しく、普通が一番素晴らしく、学校に着くとクラスの空気が重く、女子は泣いていて、男子の何人かも泣いていて、僕の机の隣の机に花瓶が置いていて、僕の一番の友達、加藤用心の生涯は十五年で幕を閉じたということだ。
涙は出なかった。やっぱり僕は冷たいのかなと思う。
しばらくボーッとしていると、担任の先生が入って来て朝のホームルームが始まった。
先生は開口一番、「なぜ加藤が……」と言って、加藤が死んだ経緯を話してくれた。
どうやら加藤は連続殺人事件の六人目の被害者だったらしく、発見されたのは街中だったらしい。
先生が泣いていた。女子も泣いていた。男子も泣いていた。クラス全員が泣いていた。僕を除いて。
思考が上手く働かない、頭痛がする。視界がぼやける。自分の身体がゆっくりと傾いたのを感じた。意識が遠く離れて行く。
でも、何かが引っかかる。それを思い出せないまま僕は意識を手放した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
目覚めるとベッドの上だった。ここはどこだ? と考えていたけど、鼻に入って来た薬品の匂いですぐに保健室だと判断する。
ベッドの周りに張られたカーテンを開け、ベッドから抜け出す。
身体は快調、精神は多分好調。
保健室の先生は外出中のようで、保健室には僕一人しかいない。
時計を見れば五時間目が終わったぐらいの時刻だった。ここまで来たら授業はどうでもいいやと思い、僕は六時間目が終わるのを待ってから教室に戻った。
ドアを開け、中に入るとちょうど終学活をしてるところだったようで、皆が椅子に座ったまま僕に視線を向けてくる。哀れみ、同情、悲しみ、色々な気持ちがこもった目で僕を見る。ただ、皆に共通しているのは、加藤と仲の良かった僕が一番可哀想だと思ってることだ。
所在なさげに立っていた僕に、先生は席に座るように促した。
自分の席に座ると、横には空席の加藤の席があった。それを見ただけで、少し頭痛がした。
前髪を鷲掴みにし、何かを思い出す。何かが、何かが足りない。何かがおかしい、可笑しい、オカシイ。て言うか、オカシイのは僕の頭か? なんてことを考えていると、自然と口から笑みが溢れた。
先生の声が遠く微かに聞こえてくる。どうやら、今日は通夜があるらしく、明日は僕らのクラスは公欠して加藤の葬式に出ることになってるらしい。
身近な人が一人死ぬ。たったそれだけでは何も変わらないと思ってたが、日常は案外簡単に変化した。そりゃもう、殴打した粘土の如く。
皆が席を立つ音が聞こえた。いつの間にか終学活は終わっていたみたいだ。
僕の横を通り過ぎる生徒は、通り過ぎる際、僕に声をかけてくれるが、耳にノイズがかかったのように何を言っていたか聞こえなかった。
気づけば教室には僕一人しか居なかった。
ずっとここに居ても何も変わらないから、とりあえず学校を出ることにした。
まだ、六時といえど明るく、公園では小学校の高学年ぐらいの少年たちがサッカーに興じている。僕がベンチに座りながらそんな子供たちを見ていると、サッカーボールが足元に転がって来た。
「すいませーん。ボール取って下さーい」
まだ夏には入ってないが、もうすでに浅黒く焼けた肌の少年が仲間の輪から抜け出し僕にそんなことを言った。
僕が少年にボールを蹴り返すと、少年は快活そうな笑顔を僕に向け、頭を下げると少年たちの輪に戻って行った。
空を見上げると太陽の光が目に刺さり、思わず目を細める。狭まった視界と長い前髪が現実逃避したい僕の背中を押しているように感じた。
「なあなあ、そろそろ帰らないといけないんだけど、俺」
「ん? どしたん? いつも七時ぐらいまで遊んでるじゃん」
「いやー、今すげえ事件あるじゃん? あのせいで母ちゃんがうるさくて」
「そっか〜、じゃっ俺らも帰るか」
少年たちが公園を去る足音。僕の中で鳴った何かが嵌まる音。
何でだ。何で気づかなかったんだ。普通に考えていれば分かった。なのに今の今まで気づかなかったんだよ!
自分の頭の回転の悪さに嫌気が差して、頬を引っ掻く。染み出た血が僕の頭を冷やしてくれる。
もう三つ、気づいたことがある。
一つ目、近くの人間が死んだだけで気絶し、隣の席に花瓶が置いてあるだけで頭痛と吐き気を催す僕は普通の人に比べて脆すぎる。
二つ目、普通を望み、普通であろうとし、普通に生きようとする僕は普通じゃない。
三つ目、加藤が死んだだけで異常な僕の普通の日常は、めっきゃめっきゃのぐっちゃぐっちゃに壊れてしまった。そして、どうやったって僕の日常は元の普通の日常には戻れず、普通に戻りたいなら、違う形の普通の日常を作り上げなければならない。
大丈夫、今日は数え間違えてない。
僕は椅子から立ち上がりうんっと背伸びをした。ボキリボキリとあちらこちらの骨が鳴る。脊椎動物の証拠だ。
よし、絶望は済んだ。後悔も済んだ。反省も済んだ。思考の調整も済んだ。勇気はリンリン。お腹はヘリヘリ。鼓動はドクドク。心境はコワドキ。
覚悟は?
MAXだー!
動きますか、普通を取り戻す、いや、取り返すために。
◇◇◇◇◇◇◇◇
僕はその日、加藤の通夜には出なかった。理由は幾つかあるが、上げるとしたら、僕は人混みが苦手だし、加藤とはまとまった時間がある時にゆっくり話したいからだ。
だから、僕は公園を出るとすぐに家に直行した。確かめたいことがあったからだ。
家に帰るとキリコさんはいつも通りソファーに寝転んで、テレビを見ていた。
「ねえキリコさん。聞きたいことがあるんだけど」
「何よ、そんな必死の表情して」
「殺された人の死亡推定時刻は二時から二時半の間だったんだよね? 間違いないよね?」
「ええ、ずっと家に居るから何回も同じこと聞いてるのよ、私。確かに、二時から二時半の間よ」
「そうか、でも、それじゃおかしいんだよ」
「何が?」
「被害者の中には小学生の女の子もいた。そんな子が深夜に外を出歩くかな? 寝つけなくて、夜風に当たろうとしたかもしれない、それは大人なら考えられる。でも、小学生の女の子が深夜に外に出歩くことはおかしいんだよ」
キリコさんは少し驚いたような表情をする。
「確かに……そうね」
「で、僕は考えて、ある仮説を立てた。小さなノミのような脳ミソをフル活用して。犯人は、いや、響きは悪いけど犯人外と呼ぼう。犯人外は別に家の中で殺しても、どこで殺しても良かったんだと思う。だって、無差別にしかも色んな場所で殺してるんだから、殺人の対象も、殺人の場所も選り好みしてる節はない。じゃあなぜ、犯人外は被害者を外に呼び寄せた? 自由に動けるんだったら、殺人方法が粗雑で殺す場所にも特にこだわりを持たないような奴が、わざわざ被害者を呼び寄せるなんてことしないだろう。否、呼び寄せる必要があったんだよ。その場から動けない理由があったのかもしれない。ただ、これは僕の仮説だけど」
「……土地神」
「ん?」
「貴方の仮説が正しいとして考えると、犯人外はこの町に住む土地神よ。土地神はその土地に縛られていて移動制限があるの。自分が守る神社や寺院から遠くには行けないの、その土地の力を弱めることになるから」
「なるほどね。犯人外の目星は大体着いた。よし、キリコさん。明日から捜査に移ろう」
「……」
「どうかしたの?」
「いや、その、それは良いんだけど……」
キリコさんはモゴモゴと口を動かし、言葉を吟味をしながら目を泳がす。
「言いたいことがあったら言っていいよ」
「……その、昨日はあんなに事件に関わるのは嫌がってたのにな〜、と思って」
なんだ、そんなことか。
「パズルのピースが足りないんだよね」
「どういうこと?」
「今日、パズルを粉々にされたんだ。しかも、ピースまで取って行きやがったんだ。このままじゃ全てのピースを拾い集めても、いくつかのピースが取られてるからパズルが完成しないんだ。だから、ピースを取り返してパズルを完成させるんだ」
普通を取り返すんだ。