2―僕の日常
キリコさんと会った日のことを鼻を噛んだティッシュのごとく、記憶の片隅に放り投げて一週間。
僕はいつも通りの朝を迎え、いつも通り朝ご飯を食べ家を出た。
ドアを開けるとそろそろ学校や新しいクラス、新しい生活に慣れ始める頃の五月の風が頬を撫でる。
大きく深呼吸をしてぽかぽかとした空気を肺いっぱいに吸い込む。
何とも言えない五月の眠気が僕を襲い、半分眠った脳のままゆっくりと動き出した足に任せ、僕は学校に向け歩き出した。
後ろを振り返ると閑静な住宅街に建つ、僕が住んでいる普通の家が僕を見送る。
都会から近くも遠くもない場所、いわゆる郊外と言われる場所に立地するそれほど大きくないこの町が僕の生まれた町であり、育った町だ。
僕の通う高校は大きくも小さくもなく、僕が大好きな『普通』の高校に属する。
教室のドアを開くといつも通りの顔ぶれが、いつも通りのグループとつるんで、楽しそうに話をしたりしている。
自然とにやけそうになる口元を抑える。
最高だ、『普通』最高!
ひくつく口の端を静めながら、いつも通りの窓際に位置する自分の席に座り、ボーッと黒板を眺めていると、後ろからいきなり肩に手を置かれ、驚いて体が震えた。
が、まあ、大体誰がこんなことをするかは予想はつくんだけど。
「おっはよう! ビックリしたか?」
後ろからかけられた陽気な声で相手は簡単に判断出来た。
人とも余り話さず、部活にも入ってない僕にこんなに陽気に話しかける奴はこのクラスでただ一人、あいつだけだし。
「君の名前が加藤用心ってのほうがビックリだよ。僕の中の高校に入学してからのビックリランキング第三位に間違いなく位置してる」
「マジで!? 親父たちにお礼言わなきゃ! ちなみに一位は?」
「君が変態ってこと」
「会って一ヶ月の奴に失礼だな」
「事実だろ?」
「言ってみろ、俺のどこが変態だ! 五文字以内で!」
「ロリコン」
「おぉ、五文字以内どころか未満で返してくるとはやるな。だが、一言言っておこう! ロリコンは変態ではない!」
染めている金色の髪を揺らしながら胸をはって彼は答えた。
加藤とは高校に入学するちょっと前に、妹の見舞いで病院に行った時、彼が小学三年生ぐらいの子と話している(本人曰く、口説いていた)のを見かけ、それから知人となったわけで、一応ロリコンってことはまだ、クラスの皆にはバレてない。
ロリコンであることを除けば、中性的な顔立ちで身長もかなり高いからモテるのに……残念な奴。
「どうした? ため息ついて」
どうやら、僕はため息をついてたらしい。
「いや、神様のイタズラを嘆いただけだよ」
「ふーん、お前が160数センチしかないちびっこなこととか?」
「お前は言ってはならないことを二つ言った!」
「一つだけど」
「嘘つくな! ちびっこと……と……」
「一つだろ?」
……一つだった。
「…………冗談だよ」
「その間はなんだ」
「うるさいロリコン!」
「ありがとう」
「何で!?」
「俺は誇りに思ってるからだ」
「……一応聞いときたいんだけどさ、どこからどこまでがオッケーなの? 自分の歳より三歳ぐらい下の方もオッケーならまだなんとか」
「小五以下!」
目の前の犯罪者予備軍の高校男子が、爽やかな笑みで爽やかに言い切った。
もう逆に清々しい。
「……そ、そうか」
「おう!」
てか、逆に引いた。
「まあ、あれだ。敵は多いぞ」
「百も承知。恋には壁があるものだ」
「君の場合、断崖絶壁だけどね」
「好きだから仕方がない。好き過ぎで止まらない。愛らしすぎて抱き締めたい! そういう存在なんだよ彼女たちは」
「その言葉、同年代の奴に言ってあげなよ。ほら、例えば……山田さんとか」
と言って、友達と楽しそうに話している山田さんを指差す。
セミロングの黒髪が綺麗な娘で、いつも加藤のことをチラチラ見ている。
加藤が山田さんを見ていると目が合い、山田さんは顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「あの娘、多分、加藤のこと好きだよ」
この機会に加藤が正しい恋愛対象に向かうことを期待しながら、僕は加藤に尋ねた。
しかし、加藤はゆっくりと首を横に振る。
「中学生なら歳を取れば守備範囲に入りそうだけど、女子高生とか、ババアじゃん」
「謝れ! 全国の女子高生に謝れ!」
「しょうがないだろ? 何あの、柔らかそうな太ももの脂肪、何あの、包容力のありそうな胸の肉塊、俺はあんなもの要らない!」
「それがいいんだろ!」
加藤が僕と不毛な争いを続けていると、加藤に一人の女の子が近づいて来た。
「ねぇ、加藤くん」
「ん?」
「今日の放課後家庭科室来てくれない? クッキー作るんだけどさ、男子がいないと食べきれないと思うの」
「あー、ちょっと待って」
と言いつつ加藤は携帯のスケジュール表を開く。
そのスケジュール表を後ろから覗きこむと、今日の日付には何も書かれてないけど、明日の予定には『ゆみちゃん・小学校の近くの公園、四時』と書いてある。
こいつ、大丈夫か?
加藤は携帯を閉じると、女の子に笑顔を向ける。
「いいよ。行く行く」
「ホント!? 良かったありがと〜」
こういう笑顔とかが出来るからこいつはモテるんだよなー。
「あっ、秋白くんも来る?」
「え!? 僕!?」
「そうだよ。そんな驚かなくてもー」
いきなり名前を呼ばれたことにも少しビックリしたけど、何より自分の名前を知ってることにビックリした。
「……ごめん、悪いけど放課後はちょっと」
「ん、用事でもあるの?」「妹の見舞いに病院へ行くから」
「あー、逆にごめんね。誘って」
「いや、別に気にしてないよ」
「そっか、んじゃ、まあそれだけだから、加藤くん来てよ、秋白くんもまた作るとき誘うから」
去っていく彼女の背中を見ながら加藤は呟く。
「いい子だな、あの娘」
うん、初めて君と気が合ったよ。
でも、君や彼女みたいな人間の横にいると、自分の社交性の無さに少し嫌気が差す。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「どうしたの? ニヤニヤして」
「えっ、ニヤニヤしてた?」
僕はリンゴを剥いていた手を止め、ペタペタと頬を触り確かめる。
「うん、してたよ」
「そっか、多分あれだね、今日はいい子に出会ったから」
「?」
ベッドの中から上半身だけ出してる妹、千鶴が首を傾げる。
千鶴ちゃんは家族の贔屓目を抜きにしても可愛い顔をしており、ショートカットの髪型が良く似合う明るい妹だ。
しかし、入院している患者が着る薄い青色の衣服の襟元や袖から覗く細い首や細い手首、肌の異様な白さを見るたびに、千鶴ちゃんは病気にかかっているという事実が否応なしに理解させられる。
まあ、病院にいるんだからどこかしら悪いのは分かるのだけれど。
医者が言うには病気の原因は不明、ただ日々ゆっくりと体が衰弱していくという謎の病にかかっていることが判明し、それから三年間ずっと入院している。
「あーあ、万能薬が欲しいなー。ドラゴンの住む山に行って取って来てよ、お兄ちゃん」
「兄に対してどんな大冒険を期待してるんだ」
「お願い、お兄さま」
「言い方の問題じゃないよ」
妹の明るさは病気になってからも変わらず、この明るさに入院した最初の頃は僕ら家族の方が助けられたぐらいだ。
リンゴ剥き再開。
くるくるとリンゴを回すたびに、くるくると自分の記憶を廻す。
幼稚園の時から水泳、新体操、空手、剣道等々、両親が僕に趣味でも与えようと、そういう教室に入れる度に、妹は僕の後を追うように、しかし僕とは違って進んで教室に入っていた。
案の定三日坊主宜しくに、僕はすぐ辞めてしまったのだけれど、妹は全てをやり続けていた。
小学一年生にして、そこら社会人より忙しく、週に九つもの習い事をこなしていた。
そんな元気な妹が、ベッドの上で寝たきりなるとは。
リンゴを剥き終わると同時に回想終了。
フォークを一本、皿の上に切り分けたリンゴに刺し千鶴ちゃんに渡すと、窓を眺める。
もう外が暗くなってるのを確認すると、僕は鞄を背負い立ち上がる。
「じゃ、そろそろ兄ちゃん帰るから」
「むむ〜」
「リンゴ食いながら挨拶するなよ」
頬をリンゴでいっぱいにしながら千鶴ちゃんは手を振る。
手を振り返し、僕は家路に向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「ただいまー」
帰ると時計は八時を回っていた。
時間を数字で確認するとすごくお腹が減る。
適当に料理を作り晩ご飯を食べ終わった後、ソファーで寝転び、歯に挟まったキャベツを舌で取ろうとしながら、風呂が沸くのを待つ。
二年前からうちの両親は二人とも海外で仕事していて、妹が病院にいるので実質僕の独り暮らし。
しかも、妹が入院しているので結構な仕送りをしてくれるため、高校生としてはリッチな財布の中身になっている。
が、最初の頃はヒャッホーと脳内アドレナリンが大放出していたけど、掃除、洗濯、炊事など、家事全般を自分一人でいきなりやるのは大変だった。
今は慣れたけど。
風呂が沸いたのを知らせる機械音が耳に飛び込む。
沸いたみたいだな。
体を洗い、頭を洗った後、お湯に浸かる。
「はああぁぁぁああ」
この時間が一番幸せな時間だなー。
伸びをし、頭の後ろに手を組み枕にする。
自然と欠伸が出て、僕は自分の本能の赴くままに、この快楽に浸ろうと目を瞑ろうとした時、
「あんた、疲れてんのね〜、風呂場で眠ろうとするなんて」
聞き覚えのある声が耳に入った。
目を開けると僕の頭の中で捨てたはずの記憶が蘇り始める。
目の前でふわふわ浮いている綺麗な少女に、僕は何だが見覚えがあるぞ。
「キ……リコ……さん?」
「はぁーい」
「うわゎゎゎわわををわ」
半分眠っていた脳が完全に目覚めた。
何でいるんだよ! てか、僕、裸だし。
急いで大事な部分を手で隠し、キリコさんを見上げる。
キリコさんは僕の口の中を指差す。
「キャベツ挟まってるわよ」
……うるせえ。