5―風が吹いて
暗闇の中で少年の振るう鉈が、月の光に照らされ銀の線を描き、襲いかかってくるが、上体を反らしてそれを避ける。自分の体の勢いに負け、ふらついた少年の体に二撃三撃と落ち着いて僕は蹴りを加える。
時刻は二時、確かに少年は鉈と人を殺している経験を持っているけど、今は僕らの時間だ。僕の目には少年の動きは暗闇の中でも確認しやすく、ついでに鈍い。
少年は何回も地面に転がるが、何回も立ち上がり僕に襲いかかる。まるで、分からないかのように、暴力しかないことはないことを、分からないかのように。
少年が何度目になるか分からない鉈を振るう。その鉈を持ち手を僕は掴み、握りしめる。骨が軋む嫌な音が聞こえ、少年は痛みで鉈から手を離した。
「なあ、気づいてんだろ」「……何のこと?」
歯を食い縛る少年の目を見る。暗く暗く、深い黒の瞳に僕は潜る。分かる。少年が考えてることが、僕には分かる。少年の心を漁り、崩し、喰らう為の言葉を吐く。
「暴力しかないことなんて、それ以外にも方法があることを、君はもうすでに気づいてるはずだ」
「……知らない」
「いや、知ってる。君は人を殺していく内に気づいたはずだ。これしか方法がないのか? ってね。だけど、もう、人を殺してしまったから、殺すしかないと思ったんだよ。殺して殺して殺して殺して。殺してる間には考えることを忘れられるから」
少年は僕から目を反らし、唇を噛みしめる。そこから赤い液体が流れ、少年の頬を伝う。
「……違う」
「違わない」
空いてる方の手で少年の頬を挟み、力づくで僕と目を合わさせる。
「君は人を殺した。そして、その間違いに気づいた。けど、君は逃げた。人を殺すという方法で、他の人間を自分が犯した過ちを、忘れさせる、肯定させる道具として。でも、事実からは誰も逃げられないよ。君は、人を、殺した」
「……じゃあ、じゃあ! どうすれば良かったんだよ!? そうだ! あんたの言う通りだ! 気づいてたけど、どうすることもできないじゃないか! 気づいた時にはもう、俺は人を殺してたんだ! 俺は、俺はどうすれば良かったんだよ!」
涙を流し、唾を飛ばし、大口を開き、真っ赤な舌を懸命に動かしながら、少年は情けない程に泣き叫ぶ。そんな少年に、僕はそっと耳打ちした。
「知らないよ。そんなこと、お前が考えろ」
「なっ!?」
少年が何かを言おうとする前に少年の腹に拳を叩き込んだ。少年は僕にもたれ掛かると、ズルリと地面に落ちた。気を失った少年の横顔は、ただの少年が眠っているようだった。
後悔と言うか、虚無感と言うか、胸の真ん中に気持ち悪い不快感が漂う。それを振り払う為に僕は口を開く。
「こんなところで良かったの? サトリさん」
虚空に向かって放った言葉に反応し、公園の木の影からサトリさんは現れた。
「上出来……とまでは言わないが、期待通りって感じだ」
と言いながら、サトリさんは少年の傍に行き、少年の頭を撫でてやる。
サトリさんは立ち上がると、少し涙を浮かべながら僕らに向かって言った。
「ありがとう」
横を向くと、大して何もしてないキリコさんが満足そうに笑っていた。
サトリさんの方に向き直ると、少年を担ごうとでもしたのか、少年に手を伸ばしたサトリさんが、黒い何かに蹴り飛ばされた。凄い勢いでサトリさんは僕の視界から消え、代わりに黒い何か、いや、真っ黒な人が立っていた。
「よう、山田くん」
「……白宮さんじゃないですか」
それは、白宮聖だった。だけど、別にそんなことは関係ない、問題は、何で白宮さんが心を読めるはずのサトリさんを蹴り飛ばせたのかってことだ。白宮さんは僕が見る限り、人外の存在じゃない、普通の人間だ。けど、それじゃおかしい、人間程度の存在が人外の存在を、存在の格が上の存在を蹴り飛ばすなんて。そもそも何の目的で……
「おい、何ごちゃごちゃと考えてんだ」
耳元で声がした。
目を離したつもりなかったのに、気がつけば白宮さんは僕の肩に手を回し、横に立っていた。
「……別になにも」
「いーや、お前は絶対考えてるね。人の心を読める妖を何で俺が攻撃できたか、とか俺の目的は何だとか。お前の顔は行動より思考から動くタイプの顔だ」
「白宮さん、あなたは何者なんですか?」
「俺か俺は、そうだな……」
白宮さんは僕の肩から手を離すと、僕のTシャツの襟首を持ち、そのまま僕を強引に放り投げた。視界がぐるぐる回り、地面に到着する。
立ち上がり、前を見ると光る縄のような物で体を縛られたキリコさんと、光る縄の先の輪に手を通した白宮さんがいた。白宮さんは親指で自分の顔を差し、大声で言った。
「俺は、邪なる妖を葬り、滅して、消し飛ばす、月夜の戦闘担当、白打拳の開祖にして師範にして一番弟子にして修行中、用は俺一人の流派の看板を背負う、神対が一人、『黒の破壊者』白宮聖だ!」
「あの、こんな状況でなんですが……言ってて恥ずかしくないですか?」
「うるせえ! ……まあ、今回はまさかお前が本件に絡んでるとは思わなかったけどな」
「本件って?」
「この妖を捕まえることだ」
白宮さんは縄を引っ張り、キリコさんを前に立たせる。
「だから、契約を切れ」
「……えっ? 契約は僕かキリコさんが死なない限り消えないんじゃ」
「ハッ! それは山田くん、騙されてるよ。契約は契約を結ぶ際に決めた交換条件を満たしていれば、主側からはいつでも解除できる。例えばそうだな、毎日血液をある決められた量を与える契約だったら、今日の一日分を与えた時点でその日の内に解除できる」
「そんなこと、聞いてないけど、そもそも、キリコさんの交換条件って……」
キリコさんは俯いたまま何も答えない。
「それも教えて貰ってなかったのか、この女の交換条件はお前の気配に自分の気配を同化してもらうことだよ。だから、今尚、お前は交換条件を満たしているんだよ。さあ、だから契約を切れ」
「何で契約を切らないといけないんですか?」
「カーッ、そのことも知らないのか」
白宮さんは苦笑しながら後頭部を掻きむしる。
「契約すると、主と妖の同化が始まる。これは気配の同化とはまた別物で、存在の同化だ。だから、ただの人間が妖と契約すると、存在の格が上がるんだよ。だって妖と同じ存在になってるんだからな。んで、お前が契約を解かないといけない理由だけど、お前は存在だけじゃなく、気配も同化している。言い換えると、お前はこの女と同一人物だと思ってもいい。この女はこれから月夜の本部で裁判にかける、要するに死ねかもしれない。その場合、まだ完全に同化してないとはいえ、お前に何らかの影響が出るのは確かだ。まあ、三日待ってやるから考えろ。決めたらこの電話番号に電話しろ、契約の切り方を教えてやるついでに、別れの挨拶ぐらいはさしてやるよ」
白宮さんは胸ポケットから名刺を取り出す、僕に投げる。そこには名前と電話番号が書いてあった。
ずっと目を伏せたまま、僕の方を見ようとしないキリコさんを抱え上げ、立ち去ろうとする白宮さんの背中に、僕は声を投げかける。
「何で、キリコさんが……」
「まあ、なんつーか、アレだ。えーと……あぁ! めんどくせー! こいつは五十人いた村を壊滅させた張本人だからだよ!」
そう言って、白宮さんはキリコさんを連れ、消えて言った。
情報が多すぎる、妖に月夜に神対にキリコさんに白宮さんにそれと……。
「あいつらに……関わらない方がいい。……契約を早く切るんだ」
声のした方向を見ると、公園の茂みから左肩から下を失ったサトリさんがいた。僕はすぐにサトリさんに近づくと肩を貸し、近くのベンチに座らせた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、じっとしていればいづれ治る」
「あの人は何者なんですか?」
「あいつを説明すらなら、まず、月夜について説明しなきゃいけないな。さっき、あいつが言っていた『妖』というのは俺たちみたいな人外の存在を総称する言葉だ。そして月夜は人を殺したり、悪事を働く、人に害を及ぼすような妖を捕まえる、または、殺す為にある組織だ。この組織は指令部や諜報部が上にあり、諜報部や戦闘部が仕事を行うらしい。聞いた話だから詳しいことは知らないが。けど、あいつ、白宮聖は月夜に追われたことがない俺でも知ってるぐらい有名だ。あいつは世界で六人しかいない神をたった一人で殺れる人間、神対の一人だ。その権力は月夜の中でも特別扱いらしい」
「神って土地神とか?」
「君が知ってる土地神は小さな寺、神社や古ぼけた寺、神社、大して信仰を集めていない土地神のはずだ。そんな奴ら俺らでも殺れる。だけど、あいつらが相手どる神はもっと巨大な力を持ち神やそれに匹敵する力を持つ妖だ。本来はその月夜のエキスパート二十人を持ってしても倒せるか分からない相手だが、あいつらはたった一人で対等に戦うし、殺す」
「よく分からないですけど、凄い人なんですね」
「ああ、それぐらいの解釈で構わない。あいつらとは本来、合うことも会うことも逢うこともないはずの存在なんだ。そして、あの白宮は神対の中では一番有名だ。妖と人が戦うには妖と契約するのが基本だ、君みたいに。それは月夜の戦闘部にも、神対にも、当てはまる。妖と契約していない奴なんてほとんどいない。だけど、白宮は鍛え上げた霊能力と肉体で、妖と契約せずとも妖を葬る。神対の中ではただ一人妖と契約していないし、神対の中でも最強と言われている。その身一つで妖を次々に薙ぎ倒すその姿から、ついた異名は数知れず。『黒の破壊者』から始まり、『黒風』『殲滅者』『壊人』『黒白』等々、とりあえず、あいつに立ち向かうのだけは止めといた方がいい」
「……分かりました」
色んな事を知った夜だった。だけど、情報の波の中で一つ、何度も何度も繰り返される映像。昔、それこそ初めて会った時、自分のことを霧の精霊と言うより、霧の悪魔と言った時のキリコさんの悲しい顔が、繰り返される。