第6話:ひょっとしてこれが本当の重圧なのか?
無名の投手がネットでバズリまくって、その結果ドラフトの順位の押し上げるという過去に無い状況でプロ野球に入った橘周。それとともに大きな環境の変化で知らない間に・・・
前代未聞でのジャイアンツのドラフト1位指名 橘周は大注目の中で、プロ野球選手としての人生をスタートさせた。
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ここで少し過去に遡る。高校と大学で4年間ちょっとダンス部所属で主にストリートダンスをしていた橘周が何故プロ野球選手に成れたのか?それにはわけがある。高校進学時に野球部に入りたくないと宣言した際、父親に許可をもらう代わりに「1年間に20試合以上俺と一緒に草野球に出場する」という条件を飲まされた。当時父親は複数の草野球チームの中心人物で年間40試合以上草野球の試合に出る猛者だった。つまりほぼ毎週だ。
何故そんなに父親が野球漬けだったかというと、高校1年で野球を断念したことを取り戻したいから。
そもそも橘周の父親は、エリート球児として有名校に入学し、1年の夏にはショートのレギュラーと1番打者を任されるスター選手だった。右投げ右打ちの俊足の強打者で、守備も一流だった。秋からはピッチャーとしての練習を始め、2年の大会ではショートリリーフとしての登板も予定されていた。それだけ投手としての才能もあったのだ。
ところが、才能に自惚れてしまった。練習を一生懸命しなくても俺はできると錯覚し、時々練習をすっぽかして遊ぶようになった。そして冬のある日、バイクの後ろに乗ったまま事故にあい、右腕の複数個所を骨折する大怪我を負ってしまった。腕にボルトを入れる手術をしたため、強豪校でのショートもピッチャーも、いやレギュラー自体諦めることになった。それで退部したのだ。
大学ではスキーにはまり、あっと言う間に国体に選ばれそうになるぐらいであったが、結局商社に就職し、アメリカに渡った。でも野球を思う存分にできなかったとの強い後悔からアメリカで野球を少しずつするようになった。高校時代ほどの強肩ではなくなったが、素人としてはハイレベル。そこで日本に帰国した際に、昔の仲間がいる草野球チームに参加し、毎週末は試合に出るという生活になったのだ。
なので、橘周は高校、大学、サラリーマンの計7年半の間に100試合以上の試合経験があるし、それとは別に父親相手にピッチング練習も守備練習もしてきた。試合では全ポジションの経験がある。左利きのセカンド、ショート、サードは草野球でも滅多にいないが、いずれも無難にこなしてきた。
つまり、レベルが高く無いとはいえ、試合慣れという点では、他のドラフト選手に劣るわけではなかったのだ。
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さて、話を戻すが、プロ野球生活はどまどいの連続だった。草野球や大学で少しだけ所属した野球部に比べ圧倒的にレベルが高いことが一番である。しかしそれ以上に初の「親元離れたお堅い集団生活」に戸惑っていた。キャンプに入ると色々と勝手が分からなかったり、有名選手や大先輩のOB達に声を掛けられ、いったいどう接したら良いのか分からないままだった。帰国子女で元ダンサーの宿命なのか?
だから今ひとつストレートが伸びないし、コントロールもピリッとしなかった。「ヤバイ、ダサイな俺。シンデレラストーリーから一転ダメダメモードだ。クソ~ネットで叩かれ始めている」
しかし、でも今までも辛い時が無かったわけではない。中2で日本に戻ってきて勝手が分からなかったり、空気読めよってシラーっとしたりで「日本って難しいな」と落ち込んだことがある。足腰が成長痛で投球練習ができなかったこともある。
高校でダンス部に入った時もレベルが高くて青ざめる毎日。でもなんとか2ヶ月で追いついて、半年後にはエースと呼ばれるまで成長した。でも中学の時の辛さを思い出して決して調子に乗らなかった。
橘周は、こういう困った時のメンタルコントロールとして1つ技があった。それは困った自分を斜め上から眺めて、自分自身につっこむことだ。「おーい、お前。ひょっとしてストレスで身体が縮こまっているんじゃねーのか?真面目か!悩まずに笑っとけよ。後先輩にも堂々と質問したおせばいいじゃん。迷惑そうな顔されたら『すいません。また今度お願いします!』ってやり過ごせばいいんだよ」
自分の言葉なのに、「そりゃーそうだ。いいこと言うじゃん。なんか気が楽になったぜ」とつぶやいた(笑)。やはり、未経験に戸惑うのではなく、目新しいことを楽むべきなんだと。このもう一人の自分に突っ込まれて少しだけ吹っ切れた。
次の日先輩に「環境が激変して、なんか身体が縮こまって力がイマイチでないんですけど、先輩はそんなこと無かったですか?」と2年先輩の同じドラフト1位の選手に聞いてみた。「アンパンマンかよ!無名からスーパースターに
おなりになった橘周がそんなことになってたんか!あ、悪い悪い、俺もちょっとはあったよー。特に最初のブルペン投球の時にカメラや監督やOBがたくさんいてさ。でもこんなことで力だせないなんて恥ずかし過ぎるわと顔をぺしぺし叩いて、気合入れ直したんよ」
「え、それだけですか?」
「まあ後は毎晩鏡の前に立ってイメトレ散々したよ。100人に囲まれたブルペンや5万人の観衆の前で1アウト満塁とかね。別に開幕2軍でもお前の場合は素人同然なんだからまずプロに慣れて夏までに上がってくればいいぐらいでいいんでねえか!」
「そうすね。急に騒がれてサプライズ1位と言われたけど、まず慣れないといけないっすね」
どんな人間でもメンタルが弱い時は弱いし、メンタル弱いと身体に変調が出て、スポーツ選手の場合はパフォーマンスに影響が出るものだ。しかし次の日からギクシャクした感じを脱して、ストレートにキレが出て来た。
プレッシャーやストレスから解き放つためには、人の力を借りながら自分自身で切り替えることが重要だ。特に客観的に見るもう1人の自分の分身をいつでも登場させることができると、少なくともちょっとはいい効果が得られるもの。