10 吸血鬼の王
下弦の月が浮かぶころ。
火の熾されていない暖炉の前には、上質な革張りのソファーが2脚あった。鏡面仕上げの遊戯テーブルを挟んで対面する1脚には、優雅に脚を組み、気だるげな表情で片肘を突く男がいる。
男の手には、黒のビショップ。視線はテーブルの上にあるチェス盤に向いていた。
長い指で駒を弄びながら、
「コイツの使いどころが……いつも難しい」
赤髪の青年が眉をひそめて呟いたとき、城の2階にある遊戯室の窓が音もなく開いた。
夜風といっしょに入り込んできた黒い霧が、ボルドー色の絨毯の上で渦巻きはじめて数秒後、金の髪と瞳を持つ、世にも美しい青年へと姿をかえた。
金の瞳で盤上を見つめた青年があざ笑い、向かいのソファーに腰をおろす。
「ウォーレン、貴様は相変わらず聖職者の扱いが苦手そうだな。さて、この局面、どうする?」
「たしかに、毎回、頭を悩ませている。たいした力もないくせに、デカイ顔ばかりしているからな」
ウォーレンと呼ばれた赤髪の青年は顔をあげると、左手にある黒駒を「では、ここに」と盤のマス目に置きながら、金の青年シルヴィーへと不満を漏らした。
「ようやく戻ってきた我が主君は、ずいぶんと隣人に御執心のようだ。古き良き同胞のことなど忘れてしまったのかと思いましたよ」
それに応えることなく器用に片眉をあげたシルヴィーは、白のルークを手にとった。
「バット・ビショップだ。下手くそめ」
ウォーレンが指した黒のビショップが、白のルークに弾き飛ばされる。黒駒が遊戯テーブルの下に転がり落ちていくのを見ながら、ソファーに深く座り直したシルヴィーは、冷めた瞳を側近に向ける。
「同胞? それがどうした? そんなもの、今も昔も必要ない」
「それはまた、ずいぶんと邪魔にされたものだ」
「そうだ。邪魔なんだ。わかったなら、二度と邪魔しにくるな」
「けっこう、けっこう。金の魔性ドラクル公にも、ようやく春が訪れたのですから、側近としては喜ばしい限りです」
笑みを浮かべたウォーレンだったが、ルビーのように赤い瞳を光らせると、
「――そう、じつに喜ばしい」
人差し指と中指をそろえた指先を、スッと左に動かした。
盤上に置かれていた白のルークが、勢いよく吹っ飛んでいき、遊戯室の壁に突き刺さった。シルヴィーの瞳が、わずらわしそうに細められる。
「やれやれ、気の短いヤツだな」
それを合図に白と黒、合わせて32個の駒が室内を乱れ飛ぶ。
「このワガママ主君がっ! さっさと魔界に戻ってこいっ! いきなり飛び出しやがって、どこもかしも領地は大騒ぎだ! 自分が何者であるかを忘れたのかっ! 金の魔性・ドラクル公ともあろう者が、眷属、同胞を見捨てる気かっ!」
「ギャンギャン、うるさいなっ! おまえ、耳が聞こえないのか? 戻らないって云っているだろう。おまえも眷属たちも、魔界で好き勝手にすればいい。なんなら、ウォーレン、貴様が新しい主君となって眷属を率いればいいだろう。そうだ、そうしろ、新たな吸血鬼の王の誕生だ。めでたいなっ!」
「馬鹿いってんじゃねえっ! 吸血鬼を統べるのは、始祖であるヴァンキュリア王の血を引く、ドラクル家の直系って、魔暦元年から決まってんだ! わかったら、さっさと帰るぞ。きっかい村には、また遊びにくればいいだろ。そうでなくても、しょっちゅう抜け出して覗き見してたんだから」
「覗き見はもう絶対にできない! 始祖の血に誓った。それから、きっかい村役場のデータベースにも侵入できないからな。おまえも絶対にするなよ! 朕れと盟約を交わしている貴様は、血の制裁の対象になるからな!」
喧々囂々つづいていた主君と側近のやり取りは、シルヴィーの「血の制裁」という言葉で、それこそ重大な局面をむかえることになる。
元々青白い吸血鬼の顔を、さらに蒼白したウォーレンは「嘘だろ……」と震えだす。
始祖の血に誓う『血の誓約』は、吸血鬼にとって最大級の誓約である。それゆえ約束を違えときの制裁もまた最大級に恐ろしい。
ある違約者は、首を落とされ、自分の首を探して魔界や人間界を首無しのまま、永遠に彷徨い歩くという。またある者は、永遠に醒めることない悪夢の檻に囚われ、地底を掘りつづけているという。
この誓約の恐ろしいところは、誓約を交わした者のみならず、一族のごく近い者たちもまた制裁の対象になるというところだ。連帯責任、一連托生である。
主君と生死を共にする『主従の盟約』を交わしているウォーレンは、まぎれもなく制裁の対象となるので、その恐ろしさに慄いた。
主君シルヴィーは断言する。
「きっかい村でハルカさんの『お隣さん』になれたからこそ、血の誓いをしたのだ。今、魔界に連れ戻されたら、ものの数秒でハルカさんの姿をみたくなり、確実に覗き見するだろうなっ! さあ、どうする? それでも、魔界に戻れと云うのか」
下弦の月が暗雲に隠れたとき。ウォーレンはがっくりと膝から崩れ落ちた。