四隅
バッティングセンターに行ったのはただの気分転換、気まぐれだった。
選手として引退し、新たな仕事を探していた自分に、独立リーグの監督へ、というお誘いがあった。
こちらとしては願ってもない話で、喜んで引き受けたはいいのだが、慣れない指導者としての仕事、それもいきなりの監督業に一年目は苦労の連続で、正直ストレスも溜まっていた。
ただその発散方法にバッティングセンターを選んだ自分に苦笑もするが。
こんなときぐらい野球から離れればいいのにと自分でも思うが、野球のほかにろくに趣味と言えるものもなかった。
目的のバッティングセンターは最近建てられたらしく、それなりに大きく真新しい。
なかに入ってみると、バーチャル映像の投手が画面越しに何人も並んでいた。その投球フォームに合わせて、穴からボールが飛び出してくる。
さらに奥には投球練習場もあった。ストラックアウトというのだろうか、マウンドの先にはストライクゾーンを模した、9分割の的が設置されている。
せっかくだし、少し投げてみようかと思った。
怪我が決め手で引退したとはいえ、軽く十球程度投げる分には支障がない。その程度には回復していた。
しかしゲージの中を覗いてみるとすでに先客がいた。
高校生か、中学生か、10代の少年が投げ込んでいる最中だった。
(いいフォームだな……)
その投球を思わず食い入るように見つめてしまった。
淀みのない、綺麗なフォームだった。こんなフォームで投げられれば、過度な投げ込みさえ避ければ故障とは無縁だろう。
投じられたボールは的には当たらず、その枠を直撃した。
(ははっ、惜しかったな)
そこでふと、的の少し上に数字が表示されていることに気づく。
(スピードガンか。球速は……128キロか)
もし彼がまだ中学生か、高校生だとしても一年生ならば決して遅くない数字だ。
的を外した少年は特に悔しがる様子もなく、淡々と次のボールを投げ込んだ。また枠に当たる。
三球目、四球目と全てが的でなく枠に、それも枠の四隅に当てているのを目の当たりにしてさすがにおかしいと気づく。
この子は的を狙っていない。その枠を、ストライクゾーン四隅の角を狙っている。
正直、目の前の光景が信じられなかった。
プロの現役投手でも同じことのできる人間が果たして何人いるか。
少なくとも自分に同じことができるかというと、少し怪しい。調子のいいときならば七〜八割は当てられるかもしれないが、百発百中とはいかないはずだ。
たとえ現役時代の、球速は並でもコントロールと投球術を武器に、一応はプロの野球選手として先発投手の一角を任せられていたあの頃に戻ったとしても、だ。
「あの」
圧倒され、少しの間放心していたらしい。先ほどまで投球をしていた少年が俺の目の前にいたことに、声をかけられるまで気づかなかった。
「終わりましたけど。次、投げますか?」
「え?」
「ずっとそこにいましたよね? 待っていたわけではないんですか?」
怪訝そうな視線に、こちらも身の置き所がなくなってしまう。
確かに長々と見つめ過ぎていたかもしれない。良い言い訳も思いつかず、こちらとしては正直に答えるしかなかった。
「いや、すまない。待っていたわけではない……いや、始めはただ待っていたんだが、君が全球あの枠の四隅に当ててみせたものだがら、圧倒されてしまって。つい見入ってしまった」
「それはどうも」
褒められても少年の表情から変化は読み取れなかった。わずかに首を傾げただけだ。
「君、高校生かな? 野球経験者だよね?」
「そうですね、一応は」
「どこの高校の野球部に入っているのかな? ……っと、すまない。個人的なことを聞いてしまって。もちろん答えたくなければ答えなくていいから」
「別にいいですけど。なんだかスカウトみたいですね」
少年の言葉に苦笑する。スカウトか、それも監督の重要な仕事かもしれない。
「ある意味そんなようなものかな。いや別に、本当に選手を探しているわけじゃないけど」
「はあ」
曖昧な反応をされるが仕方がない。こちらも曖昧な言い方をしてしまったのだから。
「質問に答えると、別にどこの野球部にも入ってないです」
「えっ⁉︎」
驚き、思わず声を上げてしまった。明らかに未経験者の動きではなかった。
中学で野球を辞めてしまったのだろうか。あのフォームとコントロールを見た後だと、それはあまりにももったいなく思えたが、俺の予想は続く言葉に直ぐに否定された。
「そもそも女子野球部がないですしね、うちの学校」
女子、野球部?
もしかして、この子、
「私、女ですよ?」
「いやすまない! 突然捕まえておいて失礼なことばかり……」
焦った勢いのまま頭を下げた。いや謝ることなのかは分からないし、謝るのも逆に失礼なのかもしれないが、このときはそこまで頭が回らなかった。
「別に謝る必要はないと思いますけど。なんだかさっきから謝ってばっかりですね」
まったくだ。適当な返答も思いつかず、苦笑いで誤魔化してしまう。
「こちらばかり質問されていますし、謝る代わりに教えてください。あなたは何をされている人なんですか?」
彼女の視線がすっと、なにかを確認するかのように俺の全身を撫でた。
「ずいぶん鍛えられていますよね? 野球経験者ですか? もしかして、野球関係のお仕事をされていたりしますか?」
彼女が妙に饒舌になったことを不思議に思った。
相変わらず声に温度は感じられないが、こちらを覗き込まれているような、そんな感覚に襲われる。
なにかを、期待されている?
もしそうだとしてもそれに応えられるとは思えないが、嘘をつく理由もない。
「独立リーグの、サンダードッグスというチームの監督をさせてもらっている」
彼女が小さく、ふうんと呟くのが聞こえた。下を向いていた視線が再び俺の目を捉える。
「でしたら、私を雇ってもらえませんか?」
「えっ?」
突然の申し出に戸惑う。反射的に、断るための言葉を並べた。
「年齢制限とかがあるから、それは難しいかな」
嘘だ。15歳以上ならばすでに入団資格はある。性別に関する規定もなかったはずだ。
少なくとも、書類上は。
「そうですか」
しかし彼女の方も断られるのは織り込み済みだったのか、すんなりと引き下がった。
……かと思えばすぐに続けて、
「でしたら、バッティングピッチャーならどうですか?」
そう問いかけてきた。
「お金もいりません。マウンドから投げさせてもらうだけでいいです。コントロールはいい方だと思うので、いい練習台になると思いますよ?」
あなたがご覧になったとおり。わずかに細められた目が、そう言いたげにこちらを見つめていた。