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1ボール1ストライク

 スコアボードの緑色の光が1つ、点灯する。

 緑が1つ、黄色が1つ。だからこれで、1ボール1ストライク。


(ああもう、振ってないの? 今の)


 あたしは未だに球種の違いがちゃんとは分かってないし、ここからだとなおさら分かりづらいけど、あの子が今投げたボールはたぶん、スプリットってやつだと思う。少し落ちたように見えたから。


 それをバッターの人が途中でバットを止めたから、ストライクにならなかったらしい。

 このバットを途中で止めてもストライクになったりボールになったりするのも、あたしにはよく分かんないんだけど。


(あとストライク2つ……)


 あとストライク2つ。それを取ることができたら、あの子はノーヒットノーランとかいうのを達成するらしくて、それは本当にすごいことらしい。


 そんなすごいことをやってのけそうな娘を観客席から見守りながらふと、以前、渚から聞かれたことを思い出す。


『母さんは野球、嫌いなの?』


 別に好きでも嫌いでもない、あのときはそう答えたけど、嘘だ。


 昔は本当に好きでも嫌いでもなかった。興味自体があんまりなかった。

 でもそのことを聞かれたとき、渚が中学生になって、野球部に入れなかったと知らされたそのときにはもう、すでに嫌いになっていた。

 あんたが、その野球のせいで笑わなくなっていたから。


 もともと、そんなに笑う子でもなかったけどさ。むしろ野球を始めてから、少しずつ表情を見せるようになって、だからそのときはむしろ好きにさえなっていたかもしれない。少なくとも感謝はしていた。安心できたんだ、あんたにもちゃんと楽しいと思えるものがあるんだって。


 昔から大人しい子だった。

 手がかからない、なんて言えば聞こえはいいけれど、笑うことも滅多にしなかったから心配だった。いっそわんぱく盛りな方が気は楽なんだ。何を考えてるのか分かりやすいから。


 けどそんなあんたが、なんでそんなものが部屋にあったのかなんて忘れてしまったけど、おもちゃの野球ボールみたいのを見つけて、それを握ったその瞬間に、目をきらきらさせてたのを見てびっくりした。なんだ、そんな顔もできるんだって。


 そのあと部屋の中でそれを投げ出したもんだから、そんなもの部屋の中で投げるんじゃない!って怒鳴ってしまったけど。


 そのときあんたが珍しく泣き出した、正確には目を赤くして潤ませてただけで泣きはしなかったかもしれないけど、泣きそうになった。あたしをきつい目で睨んだのもそのときが初めてで、驚いた。


 そうだ、そのときにあたしが言ったんだ。そんなにボールが投げたいなら、野球でもやればいいじゃない、って。


 せめてソフトボールとか言ってやればよかったんだ。そしたら中学でも高校でも、普通に部活でそれができたのに。そのとき握ってるのが野球のボールだったからって、深く考えもせずに野球を勧めたんだ。

 それが女子にはほとんど門戸の開かれていないスポーツなんだってことを大して知りもせずに。考えもせずに。


 そうでなくても、中学のときならリトルシニアとかの野球クラブに入れてあげることもできないわけじゃなかった。


 あたしも夫も共働きで、休日出勤もないわけじゃなかったから、送り迎えが難しかったのは事実だ。金銭的に厳しいのも嘘ではない。野球ってかなりお金がかかる。硬式野球クラブなんかなおさらだ。


 それでもお金のことならなんとかなった。だてに夫婦揃って働いているわけじゃない。


 送り迎えに関しては、確かに厳しかった。

 それでもあたしか夫の両親に頼み込んで送迎してもらうか、それが難しくても渚なら、自分でクラブや遠征先に行くと言ったかもしれない。だけどそれも不安だった。


 渚は昔から、わりとしっかりした子だったと思う。県外への遠征だって、心配せずとも一人で行かせてよかったかもしれない。

 けれどさすがに、中学に上がったばかりの女の子に一人で移動させるのは怖かった。これは別に、あたしや夫が特別過保護ってわけじゃないと思う。チームメイトの子が一緒に移動してくれれば少しは安心だけど、県外への移動となれば、他の子の親だって車で送ってあげるんじゃないか。


 そもそも、一緒に遠征先へ行ってくれるようなチームメイトが、クラブの中で見つかるのか、という話だ。

 ただでさえ男の子しかいない、いや女の子もいるクラブチームだってあるかもしれないけど、そんなチームがあたしらの選べる選択肢の中にいるかは分からなかったし、いたから絶対にチームに馴染めるというわけでもないだろう。いないよりはいてくれた方が安心はするけれど。


 だいたい、あの子はそれが原因で、女の子だからって理由で、中学のときは野球部に入れなかった。だから本当は、渚を野球クラブに入れさせなかった、入れさせたくなかった一番の理由はそれなんだ。


 もし入ろうとした野球クラブで、また女の子だって理由で入団を断られたら、渚がまた目の前で野球を取り上げられたら、そのことを考えるのが怖かった。



 渚が中学校に入学して二日目、帰ってきたあの子の表情は明らかに暗くて、怒っていて、だから困惑した。


 そりゃご機嫌な顔をして帰ってきたことなんか一度もない。だけど不機嫌な顔をして帰ってきたことも、あたしの記憶している限りでは一度もなかった。

 子どもなんてちょっとした嫌なことにすぐ苛立って、それを隠せずにいたり隠そうとも思わなかったりして顔や態度にいくらでも出るもんだろうに、あの子はいつも、特になんもなかったって表情を顔に貼り付けて、淡々と帰ってきていた。


 小学生のときからそうだった渚が、苛立ちを隠しきれずにいることに、情けないことにこちらの方が戸惑ってしまった。


「おかえり」


「うん……」


 いつもなら怒った。おかえりって言ったんだからちゃんとした返事をしろって。そもそも帰ってきた時点でただいまって言えって。

 でも、さすがにこのときは言えなかった。


「渚? なんかあった?」


「…………」


 渚はすぐには答えなかった。言葉がすぐには出てこなかったのか、そもそも答えたくなかったのか、あたしには分からない。

 でも、答えてはくれた。


「野球部、入るのやめた」


「え?」


 言われて一瞬、頭が止まった。

 

「なんで?」

 

「女子は選手として入れないってさ」


「は?」

 

 苛立ちや悲しみを抱えているのは渚の方だろうに、そのときはあたしの方が動揺してしまった。


「母さん、野球のことは分かんないけどさ、そういうもんなの? 他のスポーツみたいに男女分かれていて、一緒にはできない、みたいな?」

 

「中学は高校とは違って、女子は男子と一緒にプレイできないって決まりはない。でも、ダメだって」

 

「なん、で」

 

「知らない」


 渚はそう言って、あたしの横をすり抜けようとする。

 

「ごめん、なんか疲れちゃって、ちょっと部屋で寝てくる」


「ちょっと、渚……」

 

 そのまま2階へと上がっていくあの子の背中に、あたしはそれ以上何も言えなかった。  

 


 ……なんて、そんなことがあったのに結局、プロ野球選手にまでなっちゃうんだからさ、すごいよ、あんたは。


 男の子でも、早ければ幼稚園くらいの頃から夢見て、本気の子だったら実際にそのための努力をして、し続けて、それでも滅多になれないものに、あんたはなったんだ。


(本当にすごいよ。すごすぎて、いまだに現実感ないくらいだもん。目の前で投げてる姿を見てもさ)


 本当は心配だった。野球にばかり夢中になって、でもその野球ではどこかのチームに入ることさえできなくて、それなのにいつの間にか、プロ野球のスカウトにまで注目されていて、ドラフトで指名されて。


(あたしがなんも知らない間にそうなってるんだもんな)


 だからプロ野球選手になると言い出して、さらには入団テストも受けてきた、それを勧めてきた球団職員の人が話をしたいって言っているから今度会って欲しい、なんて、新しい情報がどんどん渚の口から出てきたあの日は本当に困惑した。


 後日、球団スカウトを名乗る二人組が本当にやってきたときも、どこか現実感がなかった。事前に来ると聞いていたとはいえ、娘さんを我が球団にください!とか言い出されて驚かない親なんかいる? いないでしょ。


 あたしは初め、反対だった。

 というか、話がとんでもなさすぎて頭の中が処理できなかった。たちの悪い冗談ならまだ良いほうで、新手の詐欺なんじゃないかとさえ思った。


 だけど旦那が、


『いいじゃないか、行かせてみたら』


『大学に通わせるぐらいの気持ちで、四年だけでもやらせてみるといい』


 なんて言い出して、その言葉であたしも、不思議と反対する気持ちが薄れ始めていた。


 隣で一緒に、娘の登板を観戦しているうちの夫の横顔を眺める。


(……こんなことになったの、あんたの……)


 せい、じゃないな。おかげ、でいいんだと思う。


「えっ? なんか言った?」


 いつの間にか、旦那の顔がこちらに向いていた。

 あ、口に出ちゃってたのか。


「なんでもない。頼りになる旦那で助かったって思っただけだよ」


「? えっと、それはどうも……?」


 困惑した様子の旦那に苦笑しながら、あらためてマウンドに立つ娘に視線を合わせる。


(ここまで来たんだから、ノーヒットノーランでもなんでも、達成してみせてよね、渚)

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