ノーボール1ストライク
「いやあ、すごいことになりましたね古川さん!」
実況の糸重が興奮を抑えきれない様子でこちらに話を振ってくる。
俺もそれに頷いた。
「そうですね」
実際、糸重が興奮するのも無理はなかった。なにせ、
「リーグ優勝を決める本日の試合、九回裏ツーアウト、1対0のこの場面で、打席に向かうのは一番バッターの藤畑選手。彼はシーズン序盤こそ怪我で出遅れましたが、今日の試合ですでに規定打席に達しています! そして、この打席でヒットを打つことさえできれば、前人未到の打率4割を達成! しかし……」
そう。今彼が口にしたように、ブルファイティングスの一番打者である藤畑は、この打席でヒットさえ打てれば打率4割を達成する。この記録は日本プロ野球において前例のない、文句なしの歴代最高打率だ。
ただし、前例がないことをやってのけようとしているのは藤畑だけではない。
「グリフィンズのマウンドを任されているのは、今年で3年目のシーズンとなる、先発の片崎選手。ここまで八回と三分の二を投げきりヒット、フォアボールともにゼロ。許したランナーは初回の先頭打者、今相対している藤畑選手に対するエラーのみ。この藤畑選手を抑えることができれば、女性投手初のノーヒットノーラン達成です!」
「いやあ、贅沢な試合になりましたよねえ」
興奮冷めやらぬ糸重に対し、俺はのんびりと頷き返した。
別に冷静なわけでもなければ、この試合に興味がないわけでも、もちろんない。
たぶん、目下の光景が現実の出来事なのだと、脳がそう認識しきれていないだけなのだ。
その証拠に、先ほどからずっと、顔が笑いの形を作っているのが自分でも分かる。ただその笑顔がどういった感情から来るものなのかは自分でも分からない。驚嘆か感動か。現実感のなさからくる戸惑いのせいもあるかもしれない。
「まあ、女性選手自体が今のところ片崎選手しかいませんから、彼女自身が初めて達成する記録は全て史上初にはなってしまいますがね」
なんて、そんな軽口がこぼれてしまったのは、自分自身を落ち着かせるためだったのかもしれない。
だが口にしてすぐに後悔した。こんな場でわざわざ言うことではない。
何か取り繕う言葉を、と思ったところで、糸重が軽い笑い声を上げた。
「ははっ……とはいえノーヒットノーランともなると、なかなか次元が違ってくるのではないでしょうか? 過去の大投手であっても、必ず達成できている、という記録でもありませんし」
「それは間違いないですね」
頷きながら、糸重のフォローに内心感謝した。ジジイが迷惑をかけてすまんね。
その糸重が気を取り直した様子で実況を再開した。
「さあ藤畑選手への初球、ストレートがアウトロー、低めいっぱいに決まりました。審判の判定はストライクです!」
「あそこに決められたらまあ、無理に初球から手を出すわけにもいかないでしょうね」
藤畑はもともと初球に際どい球が来ても手を出さない選手だ。
それでいて甘いコースにくれば一球目であっても見逃さずに捉える。
言うのは簡単でそれが理想でもあるが、それをなかなか実行できないからこその理想なのだ。普通は初球から積極的に振りにいくバッターならばそれが際どいコースであっても手が出てしまうし、逆に慎重なタイプの打者は一球目に多少甘い球が来てもなかなか手が出ない。
だからこの一球目は、ある意味予想どおりだ。片崎はそうやすやすと甘いボールを投げないだろうし、藤畑も一球目までは際どいコースは見逃すだろうから。
問題は二球目以降だ。
(さて、次は何を投げる?)
うっかり目の前の光景に集中しすぎていると、解説の仕事を忘れてしまいそうだ。
そうならないように俺は一度ネクタイをきつく締め直し、あらためて目下の光景に視線を合わせた。




