決め球
全身を蝕む疲労と、左腕にまとわりつく張り。
さすがに八回まで投げ切ると、疲れは隠しきれなくなっていた。
それでも九回も打者二人を打ち取り、残るアウトは1つ。次の四番を打ち取ればゲームセットだ。
その四番打者に、代打が送られた。
外谷場、その名前が球場内に響き渡った瞬間、自分の身体がピクリと、跳ねるように反応したことを自覚する。
打った人だ。私のボールを、二度も。
脳裏をよぎる苛立たしい記憶。それに反するように、身体の内側からぐつぐつとした得体の知れない高揚が駆け巡る。
そんな私の様子を心配したのかどうかは分からないけれど、外谷場さんが打席に入る前に伊森さんが審判にタイムを訴え、こちらに走り寄ってくる。
「おいおい、お前の天敵が出てきたぞ」
マウンドに着くと同時にわざわざそう言ってきた伊森さんの声には笑い声が混じっていた。
もう笑うしかない、そう言いたげな疲労感も滲ませながら。
「しかもランナー三塁、シングルヒット一本で同点だぞ」
分かっている。そんなこと、言われるまでもない。
残るアウトは一つ。ただ抑えるだけだ。
天敵と言われた相手との過去の対戦を、頭の中で巻き戻す。どんなバッターだったか、どんな特徴があってどう打たれたか。
「あの人、かなり早打ちですよね」
私の言葉に伊森さんは、お前がなにを言いたいのか分からないと言いたげに怪訝な表情を浮かべていたけれど、すぐに私の意図が読めたようで、ああなるほど、とひとり呟いていた。
「とはいえ追い込む前に打たれたら意味ないぞ。しかもあの人なら、お前のベストボールを投げても打たれるかもしれん。スタミナもつきかけてるだろ、お前」
「あの人で最後でしょう? それぐらいの体力は余ってますよ」
「一応聞くけど、歩かせるつもりは?」
「ないです」
「まあ、そりゃそうだよなぁ」
伊森さんが頭の後ろを乱暴に掻く。吹っ切れたような声で私に言った。
「好きにしろよ。ここまできたら付き合ってやる。最後までな」
「付き合ってやるもなにも、キャッチャーはそれが仕事でしょう?」
「お前はほんっとに……」
打たれたら承知しねえからな!伊森さんがそう言い放ち、ホームベースの方へと駆けていく。
打たれませんよ、誰にも。
伝えるべき相手はすでに、大声でも出さない限り声が届かない場所まで遠ざかっている。わざわざ口にするほどのことではないから構わないけれど。打たれるつもりでマウンドに上がるピッチャーなんていない。
すでに伊森さんはキャッチャースボックスに座り込んでいた。
代打に送られた相手バッター、外矢場さんは二度素振りを繰り返し、右バッターボックスへと入ってくる。
さて、どう追い込もうか。
伊森さんからのサインを覗き込み、少しの逡巡の後、首を縦に振った。
初球、外角低めにストライクからボールになるスプリットを投げ込む。
このボールに対して外矢場さんは、スイングになる寸前のところでバットを止めた。
このコースに投げたスプリットに対してバットを途中で止められたのは初めてで、苛立ちに舌打ちしそうになる。伊森さんからのスプリットのサインに首を横に振ろうかと迷っていたから、なおさらに。
このボールだと打ち取れない、見逃される。そう思ったわけじゃない。懸念は相手バッターではなく私自身にあった。
握力が落ちている。僅かにだがその実感があった。
外矢場さんの反応を見る限り、変化が緩すぎて使えない、というほどではなさそうだけれど、多少なりともボールの落ち方が悪くなっているのは分かる。
それでも今の一球でスプリットを警戒させる、その程度の効果は見込めるはずだ。
その予測通り、二球目に投げた外角低めの速球がライト方向へのファールになった。
明らかにスプリットを警戒しての振り遅れ。それでも速球を振りにいったのは速いボールに狙いを絞っているのか。
伊森さんも同じことを考えていたのかもしれない。三球目に要求されたボールはチェンジアップだった。
外角の、とにかく低め。伊森さんのジェスチャーに今回は素直に頷く。
外矢場さんならばスイングを途中でワンテンポ遅らせて対応しかねない。過去の対戦でそのことは理解できた。
だから投じた三球目が真ん中付近に浮いたのは、意図してではなく失投。
甲高い打球音と、視界の横を過ぎ去るライナーに、心臓が痛いほどに跳ねた。
今の打球がヒットなら同点、もしホームランだったならば逆転負け。
打球の勢いはスタンドを超えるには十分。けれどボールはレフトポールの僅かに外側を通ってファールになった。
安堵と苛立ちが同時に胸中で渦巻く。
投じたボールは失投で、打球は完全に捉えられたものだった。確信ではなく、ファールになることを祈るしかなかった状況に、自分に怒りを覚える。
正直に言えば、チームの勝ち負けにはそこまで関心が持てない。
けれど自分の力が及ばずに誰かに、何かに負けるのは嫌だった。
こちらの様子を窺うような伊森さんの視線を感じた気がして、少し気分が悪くなる。
別に心配されるほどに、我を失ってはいない。マウンドまで駆け寄られたわけでもないし、そこまで苛立つことでもないのは分かっているのだけれど、苛立ちそのものがなくなるわけでもない。
打たれた当たりがあと一歩でホームランだったとしても、ファールはファール。カウントは2ストライク1ボールで、残り1つのストライクを奪えばこのゲームは終わりだ。
そして、最後に投げるボールは決まっていた。
ミットが高めの、打者寄りの位置に構えられる。
インハイへのストレート。球速も回転も、今投げられる最高のボールをそこに。
疲労はある。けれど動き出せば自動的に、今まで何度も繰り返してきた動きが再現される。
足を上げて溜め込んだ力は体重移動を経て、最終的には指先の一点に集まる。その一点に意識を集中させ、ボールを放つ。
真っ直ぐに突き進む私のボールに、外矢場さんは反応した。鋭く踏み込み、その場で回転するようにスイングを開始する。
外矢場さんは私のストレートがホップすることを分かっている。だからスイング軌道もそれに合わせたものへと修正する。
でも、それだけじゃ足りない。
私の一番のボールは、まだあなたに投げたことがない。だって使う機会がなかった。追い込むことさえさせてくれなかったのだから。
だから当然、そのスイングの先にボールはない。
もっと上、もっと先。振り切られるバットにボールは触れることさえなくて、代わりにミットが大きく音を鳴らす。ボールはここにあると主張するように。
バッターアウト、ゲームセット。その判定を聞いた私はそれだけで満足で。
観客の歓声も、マウンドへと駆け寄ってくるチームメイトの歓喜も賞賛も高揚も、残りはただただどうでもよくなった。
それでもこの場で倒れるわけにもいかなくて、今すぐにでも倒れそうになる身体を支えることだけに神経を使いながら、その場になすがままになっていた。