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選手交代

 息もつかせぬ、なんてできれば味わいたくない言葉の意味を、この世界にいれば何度も体感するはめになる。


 八回まで両先発とも1点も許さない投手戦で、キャッチャーの俺は文字通り息苦しい思いをしていた。

 俺自身ノーヒットという情けなさもそれに拍車をかける。もっとも、今はグラウンドにいるほとんどの人間が似たような心境だろうが。


 だから九回表、うちの四番打者である近藤が、甘く入ったストレートをスタンドに運ぶのを見て、歓喜より先に安堵がきた。こんなキリキリした痛みを、延長戦なんて形で長引かせたくない。


 だが入った点はそのソロホームラン一点だけで、油断を許さない状況に変わりはなかった。むしろ一番ひりつく状況かもしれない。良くも悪くも。


 そんな状況で迎えた九回裏、なんとしても先頭打者を塁に出したくなかった。

 けれど逆に相手からすればなんとしてでも先頭を塁に出したい状況で、悪いことに相手のその執念が勝った。


 先頭打者の一番、星川が打った。

 三遊間を転がる平凡なゴロ。けれど星川の足は非凡だった。

 ショートの送球と星川の足のスピード勝負は、星川に軍配が上がる。


 これがあるから、できれば星川にはゴロを打たせたくなかった。そう思って投げさせたフライ狙いの高めの速球を、星川は無理矢理上から叩きつけ、内野安打に持ち込んだ。


 ランナーを一塁に置いての続く二番、吉井は送りバントの構え。

 バントした打球が変な当たりになってランナーが2人、なんてのはあまりにも馬鹿らしくて、素直に速球をストライクゾーンに投げさせる。

 向こうもヒットエンドランみたいな無茶はしてこずに普通にバントをして、ワンナウト二塁。

 この場面で1つアウトをもらえたことを喜ぶべきか、ランナーが二塁に進んだことを嘆くべきか悩ましがった。


 少なくとも頭は痛くなってくる。ここで続くバッターは、三番のバンデラスなのだから。


 少し当たりの良いヒット一本で同点。ホームランで逆転負けだ。

 出し惜しみなどしていられない。前の打席で三振に仕留めたスプリット、こいつを初球に。


 だが俺のサインに片崎は首を横に振った。

 なんだ? じゃあ速球か? それともカーブ? だがどのサインを出しても片崎は首を縦に振らなかった。


 残りはチェンジアップしかない。だけどこいつにはもう何度もチェンジアップを見せている。その上でストレートのタイミングに対応した。

 緩急をつけるためのチェンジアップを、初球からこいつに投げるのはちょっと恐くないか?


 だが、まだチェンジアップをヒットゾーンに運ばれていないのも事実だ。

 バンデラス相手に安全なリードなんてない、そう割り切って出したチェンジアップのサインに片崎が頷いた。


(今度は甘いとこに投げてくれるなよ……)


 二打席目にあれだけ派手な空振りが取れたのはコースが甘く、打者に絶好球と思わせたこともあるかもしれないが、二度同じ手は通用しないだろう。

 だというのに。


(よりによって高めに抜けたボールなんか投げんじゃねえよ!)


 片崎らしくない失投。外角低めに構えた俺のミットとはまるで逆方向の、内角高め。それもストライクゾーンに入っている。


(やられる)


 鼓膜を叩き割るような、バンデラス特有の乱暴な打球音と、スタンドにいる観客の歓声、グリフィンズファンの悲鳴。

 頭を駆け巡ったそれらは一切、聞こえなかった。


 代わりに聞こえたのはボールがミットを叩く音。ほぼ無意識で、そのスローボールを捕まえていた。


 目の前には、どこまでもボールが飛んでいきそうなスイングを見せつけたバンデラスの、ぐらついたフォロースルー。


(あっっぶな……)


 完全に速球狙いのスイング。吹き上がるはずのボールを狙ったスイングは、手元で少しだけ垂れるスローボールの上を通ったらしい。


 片崎のチェンジアップがほとんど沈まないことが幸いした。速い球を待っていたバンデラスの目には、左右にも上下にも変化の少ない、高めの遅球がストレートに見えたらしい。


(二打席目、インハイにストレート、アウトローにチェンジアップを繰り返して抑えたもんな。その印象がまだ頭に刷り込まれてたのか)


 マウンド上の片崎の表情を見れば、唇が僅かに吊り上がっている。

 失投じゃない。アイツ、わざと高めに投げやがった。


 ボールを乱暴に投げ返す。空振りを取れたからいいものの、心臓に悪いんだよ、馬鹿。

 ボールを受け取った片崎が苦笑いとともに眉をひそめる。ストライクを取れたんだからいいじゃないですか、そう言っているようだった。


 お前、俺が上下関係に厳しいタイプだったら殴ってるからな? 俺の優しさに感謝してくれ、マジで。


 とはいえストライクのカウントを1つ稼げたのも事実だ。インハイへストレートに見えるチェンジアップを投げられて、バンデラスの頭はこんがらがっているだろう。


 同じところに、今度はストレート。ただし内に一個、高めに二個分外せ。


 打っても絶対にフェアゾーンに入らない、無理に入れようとすれば凡退になるコース。

 こいつ相手にそんなコースがあるかは分からないが、ここを打たれるのならもう手のつけようがない。


 片崎の指先から放たれたボールは、今度こそ素直に要求したコースへと向かってきた。ここから吹き上がってくればいくらバンデラスといえどまともに打てないはずだ。

 だが、


(ランナー走ってる⁉︎ マジかよ⁉︎)


 目の前で、バンデラスのバットが片崎のボールの下を通り過ぎていく。

 空振りこそ狙いどおりに奪えたが、それまでの間に、二塁にいたランナーが三塁へと迫っていた。

 急いでミットに入ったボールを右手に持ち替え送球の姿勢に移るが、右打席に立っているでかい図体と、そいつの豪快なスイングに邪魔され、三塁への送球が僅かに遅れる。審判の判定はセーフ。


(バンデラスの前で走んのかよっ……⁉)


 バンデラスはヒットの大部分が長打のスラッガーだ。そいつの前で、二塁まで進んでいるランナーがわざわざ三塁へ盗塁なんかしないだろうと正直、油断していた。


 これでワンナウト三塁。スクイズでも1点だ。


(スクイズあるか?)


 おそらく、ない。その証拠に相手ベンチからの動きがない。

 1点取ってもまだ同点の場面、チームで最も打撃成績に優れ、先発メンバーの中ではまだ片崎に合っているバッターに、1アウトを与えてまでスクイズをさせるとは思えない。


 とはいえ絶対ないと言い切れるような場面ではない。同点になって不利になるのはこちらだ。向こうの方がリリーフ陣も、打線も、一枚も二枚も上手なのだから。


 なるべくバットに当てさせたくない。ヒッティングでも、バントでも。


 そうなるとチェンジアップは論外だ。変化のない遅い球ならば、バントで当てるくらいはできるだろう。


 スプリットやカーブも怪しい。

 こいつがバントをした場面など見たことがないから上手いかどうかなどわからないが、反射神経は本物だ。変化してなお当てるくらいのことはしてみせる気がする。


(そうなるともう、答えは1つしかないよな)


 ストレートだ。高めに吹き上がる速球。

 もしバントしてきても転がさせないためには、このボールがベストだろう。

 コースは外角高め。まだカウントに余裕はあるから、はっきり外すくらいでいい。

 ……だと、いうのに。


(なんでインハイに投げんだよ!)


 失投か? ストライクゾーンギリギリ、入っているかどうかは審判次第のコース。

 バンデラスは……ヒッティングだ。インハイを狙い澄ましたスイング。

 ボールがピッチャーの指から離れてしまった後は、キャッチャーはもう祈ることしかできない。


 高さはストライクゾーンギリギリ。ただし片崎のストレートはそこから吹き上がる。ボール二個か三個分。


 そしてボールは横に動いた(・・・・・)。バンデラスの懐に食い込み、バットに食い込む。

 根本から砕けたバットの木片がスローモーションのようにゆっくりと、俺の目の前で降り注ぐ。


 ぼんやりしている暇はなかった。キャッチャーフライ。舞い上がったボールをほとんどその場から動かずキャッチする。


 審判のアウトの判定。一瞬の静寂の後に鳴り響く歓声。帽子の影に隠れて、うっすらと笑うマウンド上の女。


 殴ろう、アイツ。


 そう決心した。試合中で、グラウンド内で手を上げるわけにもいかない。ゴングが鳴るのは試合の後だ。性別もコンプライアンスも知るものか、少しは俺の心臓の痛みを知れ。


「選手の交代をお知らせします」


 だがそんな俺の怒りなんて、試合の流れには関係ない。ましてウグイス嬢が知るわけがない。アナウンスはただ淡々と球場内に流れた。


 なんだ、代走か? 俊足の星川相手に? それもツーアウト三塁で? それとも代打? 次は一応、四番だというのに?


 そう困惑したのも一瞬。そりゃそうだ。フェニックスの四番バッターは元々香田じゃない。本当の四番は、


「四番、香田に代わりまして、外矢場そとやば。背番号……」


「出やがったな……」


 口に出すつもりなんかなかったのに思わず呟いてしまった。

 外矢場誠二(せいじ)。フェニックスの本来の四番打者にして、片崎がリリーフで対戦して唯一、ヒットを打たれたバッター。


 今年はシーズン途中で足を故障してからはずっと二軍で調整中だったが、九月の途中で復帰した。

 まだ万全の状態ではないのかレギュラーとして出てはいないが、バッティングにはほとんど影響していないように見える。

 事実、代打で片崎と対戦して二打数二安打。復帰後の打率も三割を超えていたはずだ。


 俺は審判にタイムを要求してマウンドへと駆け寄った。

 けれどそれは片崎のためというよりは、俺自身が間を欲したせいかもしれない。


「おいおい、お前の天敵が出てきたぞ」


 なんて、思っていたことがそのまま口に出てしまったが、開口一番にわざわざ言うようなことでもなかったなと少し後悔した。そんなことは打たれている片崎が一番よく分かっている。


 ……分かっているはずだ、それなのに。


 あいつは、楽しそうに笑っていた。

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