スプリット
「次の回からこのボール、投げていいですか?」
正捕手の伊森さんに、スプリットの握りを見せながらそう聞いたら、珍しく怒りを露わにして怒鳴られた。試合中だからか、さほど大声ではなかったけれど。
別に、そんなに怒ることでもないと思うんだけど。必要になった今、ちゃんと伝えたのだから。
ああでも、初見で確実に捕球できるかということは、事前に確認しておいた方がよかったのかな。
プロならスプリットのような落ちる球を投げるピッチャーはたくさんいるだろうし、伊森さんもそういうボールをいくつも受けてきただろうから、心配ないとは思うけれど。
今まで投げなかった理由は大きく二つある。
一つ目の理由は、それなりに握力を使うからだ。
フォークボールほど深く握ってはいないから、そこまで握力を使うわけではないし、他の球種と比べて極端に腕や身体に負担がかかるという感覚はない。
けれど他の球種よりは握力やスタミナを使うのは事実で、多投したいボールではない。
1イニングで使うのは多くても五球、連続では三球以内に収めたい球種ではある。
もう一つの理由は、すぐに使うのはなんだかつまらないと思ってしまったから。
フォークボールを投げても思うような変化をしなかった自分が、一番しっくりくる握りを探した結果たどり着いたこのボールは、浅めに握れば打球のほとんどがゴロになり、少し深めに握れば空振りが取れた。
落ち幅はそこまで大きくないが、浮き上がって見えるストレートを警戒していると低めの球はボール気味の高さでも易々と見逃せないらしく、低めからさらに落ちるボールに打者のバットは次々と空を切った。空振りを奪うことが出来るだけの落ち幅は十分あるようだった。
ある意味簡単にアウトの取れるボールだった。少なくともバッティングピッチャーをしていた頃は。
別に、このボールを使えばプロのバッター相手でも簡単に打ち取れるなんて、そこまで思い上がっているわけじゃない。
けれど、まずはこのボールなしでどこまでいけるのか確認したかった。
リリーフのときは使わなくても問題なかったけれど、先発として登板し、打順も三巡目以降になると私のボールに慣れ始めるバッターも出てくる。
たとえ慣れきっていなくとも、長打を諦めて当てることに集中するバッター、完全に球種を絞って一発にかけるバッターと、各打者が対策を立ててきているのも分かる。
その上でもなお、スプリットなしでもなんとか各バッターを抑えることはできると思う。少ない手札で相手を抑える手段を考えるのも、楽しいといえば、楽しい。
けれどせっかく覚えたボールだ。プロ相手に使わないのもなんだかもったいない。
球数も増え始めているし、プロのバッターに対するこのボールの反応も見たかった。
そしてそのスプリットを使う場面は、すぐに訪れた。
七回裏、先頭バッターは三番のバンデラス。
そのバンデラス相手に初球、スプリットのサインが出た。
いきなりこいつ相手に投げるのかと、苦笑がこぼれそうになった。
でもまあ、ちょうどいいかもしれない。前情報なしでこのボールに対応するのは、どんな打者だって簡単ではないだろうから。
握りが浅い方のスプリットでいいかな。
変化の大小まではサインを決めていなかったから、勝手にそう判断した。
一球でアウトが取れたら一番楽だ。バットに当てさせて、内野ゴロに仕留めたい。
そう思って投じたこのボールに、バンデラスは手を出した。
フルスイングされたバットは投じられたボールの上っ面を叩いた。ボテボテのゴロが三塁線を切れていく。ファールだ。
これがフェアゾーンに入ってさえいれば、たったの一球でこのモンスターを葬れたのにな、残念。
でもまあ、なんで打ち損じたんだ?って顔で不可解そうにバットを見つめるバンデラスの顔が愉快だから、気分は悪くないけれど。
外角低めの、なんだか分からないけど球速的にはストレートっぽい低めのボールを打ち損じてファールにしました。
じゃあ、次は?
答え合わせをするように、伊森さんのサインをのぞき込む。……うん、正解。
思惑どおりのサインに満足して頷く。
一球目と同じ外角低めの、ただしストレート。
さっきはここから沈んだ。でも今度は、むしろ浮き上がる。
バンデラスのバットがボールの下を素通りし、空振った本人は苛立たしげに顔をしかめていた。
これでツーストライク。三球目は……まあ、そうですよね。
伊森さんのサインに頷き、投球モーションに入る。
投じたコースは三球連続のアウトロー。
球種は一球目と同じ、ただし少しだけ深く握ったスプリット。
バンデラスはたぶん、スイングの途中でスプリットだと気づいていた。
だけどその変化に対応することまではできなかった。
バットが空を切り、三振に切って取られたバンデラスは一度、後ろを振り向いた。
そしてミットの中に収まった白球を確認すると顔に血管を浮かばせ、その場でバットを叩き割りベンチへと戻っていった。
その一部始終を見届けながら私は、自分の顔がにやけているんじゃないかと少し不安になった。
楽しくて、可笑しくて、やっぱり、愉しい。
九回までこの回含めてあと3イニング。
それまではスタジアムにいる人間全員に、この遊びに付き合ってもらうから。