チェンジオブペース
「なんなんですかアイツ」
タイムをとりマウンドに向かうと、グラブ越しに開口一番、さっき目で訴えてきた内容と同じようなことを言ってきた。
「んなもん、俺が知りたいわ」
俺もさっきと同じように返す。
「そういやお前はまだあいつとは初対戦か」
短いイニングしか投げないリリーフピッチャーは先発投手と違い、何度も対戦したチームのレギュラー選手であっても対戦経験がない、ということがありえる。意図して避けている場合もあれば巡り合わせによる偶然の場合もあるが、片崎の場合はおそらく後者だろう。
「世の中にはああいうバケモンがごろついてるってことだよ。いい勉強になっただろ?」
「今すぐ利子付けて返したいんですけど」
「次の打席まで我慢しろ。とにかく、あいつにストライクはいらない。バットが届く範囲はあいつにとって全部ストライクだ。際どい球さえ危ない」
「それ、振らなきゃ出塁率10割じゃないですか」
「それができるならあいつはいまだにメジャーでやってるよ。たとえ守備がボロ穴でもな」
もともとバッティングだけならいまだに現役のメジャー級だ。
「とにかく、ホームランにならなかっただけでもラッキーだ。次の打者を全力で抑えることだけ考えろ」
「了解です」
伝えることは伝えた。だからキャッチャースボックスに戻ったのはいいのだが正直、片崎の心理状態はどうにも心配だった。何せ一軍に上がってからあいつは、あそこまでのクリーンヒットを打たれたのは初めてなのだから。
だからつい考えてしまう。表には出ていなかったが案外、ショックを受けているんじゃないかとか。頭に血が上ったままなんじゃないか、とか。
だがその心配は杞憂で、片崎は次の四番バッターを三振に仕留めベンチに戻っていった。
二回裏、三回裏とテンポ良く三者凡退に打ち取っていたが四回裏、先頭の二番打者が放ったフライが内野と外野の絶妙な間に落ち、不運なポテンヒットとなった。
ノーアウト一塁。迎えるのは三番のバンデラス。
一打席目、こいつはインコースの後のアウトコースに対し、あわやホームランの打球を飛ばした。
内と外の左右での揺さぶりだけでは抑えられない。だったら、高低と奥行きを使うだけだ。
初球、インハイにストレートを。
(一打席目で分かっただろ? こいつ相手に手加減なんかするな、一球目から全力で来い)
心配しなくても片崎もそのつもりでいたらしい。ストライクゾーンの高めギリギリから、さらにボール二個も三個も吹き上がるような、本気のストレート。
さすがのバンデラスも、このボールを初球からは捉えられずに空振る。
だがそのスイングスピードはやはり、えげつないほどに速い。
(見え見えの配球だろうが構いやしない。次、チェンジアップだ)
片崎のチェンジアップはボールの変化量こそあってないようなものだが、速球との体感速度の差が凄まじい。そんなボールが途中までストレートと同じような軌道で来るのだ。仮に読んでいても初球で捉えるのはほぼ不可能に近い。
(とはいえ甘いところには投げるなよ。低め低め、だ。ワンバンになって見逃されたっていい)
手振りでそう伝えるが、片崎は特に頷きはしなかった。納得していないのか、言われるまでもないと思っているのか、どっちだ?
投じたボールが答えだった。コースとしては外角低めだが、真ん中に近い。
バンデラスの打席での反応は絶好球に対するそれだ。当たれば場外にまで飛んでいくであろうフルスイング。
投じた球がストレートだったならばそれが現実になったかもしれないが、実際に来たのはそれより20キロ近く遅いボールだ。いくらなんでも当たらない。
バットが空を切り、タイミングを崩されたバンデラスの体がぐらつく。
バンデラスが空振ることは珍しい。
バンデラスといえどボールの変化やタイミングの違いに体勢を崩されることはある。だがそれでもボールに喰らいつき、ファールやヒット、ときにはホームランにさえしてしまう。
ゆえにこれだけ強振を繰り返し、ホームランを量産しながらも三振の数は異様に少ない。そのバンデラスから二球連続で空振りを取れたのだ。
遊び球はいらない、三球勝負だ。
最高出力のストレートを、初球と同じインハイへ。
片崎が頷く。
投じられた、サイン通りの最高のボールに、それでもバンデラスのスイングのタイミングはほぼ合っていた。チェンジアップの後だというのに、バンデラスの体内速度計は狂わない。
だがそれでもボールはバットの上、バンデラスの予測をボール一個分上回った。
綺麗な空振り、なんてものがあるのかはわからないが、フルスイングされたバットはボールに触れることなく振り切られた。
ただの観客だったならば目に焼き付き、歓喜や落胆をしたかもしれないが、相手チームのキャッチャーである今は、その暴力じみたスイングが快音に繋がらないことを祈るだけだ。
続く四番と五番を打ち取ってもなお、バンデラスに見せられたスイングへの恐怖は脳裏にこびりついていた。
あと一、二打席、頼むから黙っていてくれ。