なんなんですか、こいつ
ブルペンのマウンド、そこから投じられた片崎のボールを立ったまま受け取る。
まだ肩慣らしの段階だからスピードはない。
それにもかかわらず片崎のボールは、ぴんと張った糸みたいに真っ直ぐな軌道で、俺のミットを叩きつけている。
キャッチボールを続けながら俺は、片崎の初先発を知った昨日のことを思い返していた。
打球をもろに左手首に受けてしまった水島だが、症状はそこまで深刻なものではなく、打撲程度で済んだようだった。
ただし重症でないとは言っても次のローテーションで先発できるような状態ではなく、少なくとも一週間は絶対安静にしなければならない、とのことらしい。
そうなると必然的に、先発投手の数が一枚足りなくなる。
だから当然、二軍なり一軍のリリーフ投手なりから先発投手を選ばなければならなくなるのだが……。
「その結果、お前にお鉢が回ってきたわけね」
「ええ、ありがたいことに」
監督が片崎を監督室に呼んだ要件はやはりそれだった。
1年目の一軍初先発投手をこんな大事な場面でリードしなければいけないと思うと、今から胃が痛くなってくる。
「お前、先発の経験は?」
「二軍でなら何度かありますよ。完投も何回か」
無失点でも途中で下ろされたことも何回かありますけどね、不満気にそう付け加えていた。
「ふうん、ならまあ大丈夫か」
「ずいぶん信用してくれますね?」
「完投できるほど球数が放れるんなら、スタミナはそこまで心配しなくてもいいかなって。お前の場合、ストライクの取れる球種も複数あるし緩急も使えるから、二巡目以降になって急に捕まるってこともないだろ、たぶん」
リリーフ投手ならばストレートを含めた威力のある1、2球種だけでも力で抑えこめるが、同じバッターと何度も対戦する先発投手だとそれも難しい。
長いイニングを投げ切らなければならず、常に全力投球できないためになおさらだ。
その点、片崎はチェンジアップ、カーブともに充分実戦で使える上、速球にもバリエーションがある。バッターに慣れさせないという点に関してはその辺の先発投手よりむしろ上だろう。
とはいえ油断はできないが。一軍と二軍ではレベルの差が段違いだ。二軍で完投できたからといって一軍でも同じことができるわけでは決してない。
リリーフでは一軍でも結果を残した片崎だが、先発でも通用するかどうかはやはり未知数だ。
「緊張してるか?」
「みんなそれ聞いてきますよね」
片崎が苦笑じみた笑みを浮かべる。たとえ苦笑いでも、こいつが笑みを浮かべるのは珍しい。
「してますよ、緊張。当たり前じゃないですか」
「その割には余裕そうじゃねえか。顔、笑ってんぞ」
あれ、本当ですか?なんて、とぼけているのかどうかも判然としない薄ら笑いのまま、そう返してくる。
「ったく、本当に緊張してんのかよ」
「してますよ。嘘つく意味、ないでしょう?」
「俺からしたらこんな場面で笑ってられる神経が信じられねえんだけど」
「だって、楽しいでしょう? 緊張するの」
退屈するよりずっといいです、片崎はそう言って笑っていた。
(最近の若い奴がわかんねえよ、俺は)
「伊森さん」
なんて考えてるタイミングで自分の名前を呼ばれたものだから、少しドキリとしてしまった。
やべ、口に出てたかな。そう思ったけど違った。
片崎がグラブをはめた右手を下ろす仕草を見せる。座れと言っているのだ。
その顔にはやはり、緊張した面持ちは感じられない。こっちは何年やっても気が気じゃないってのに。
やっぱり投手向きだよ、お前は。
試合が始まった。
一回表のこちらの攻撃は無失点に終わってしまったが、裏に登板した片崎の滑り出しも順調だった。
相手チーム、フェニックスの一番、星川をファーストフライ、二番、吉井をセカンドゴロに打ち取りツーアウト。
ただし問題はここだ。
『三番、ファースト、バンデラス』
場内アナウンスが告げるスラッガーの名に、球場が沸いた。
チーム内で最強のバッターを何番に置くかは、人によって意見が分かれる。
四番であったり三番であったり、少しでも多く打席に回すために二番に置くケースもある。
その最強バッターを、このチームでは三番に置いていた。
2メートル近くある身長に、俺の腕を二本束ねても一本分にもならなそうな極太の二の腕。俺だって鍛えてるのに。
毎年当たり前のように30本以上ホームランを打ってきたメジャーリーガーが今年、海を渡ってやってきた。
元々は俊足強肩の外野手でもあったこいつも、度重なる故障で外野手としてはほぼ使い物にならなくなっていた。ただしバッティングはいまだに衰えていない。
現に去年もメジャーでホームラン35本、打率も0.293と三割近く打っており、DHのあるリーグの球団からならばいくつもオファーが来ていた。
だが本人は打撃だけのDHではリズムが狂うと嫌がり、メジャーでの高額オファーを蹴ってまで日本に来た。
結局日本でも本職の外野手として使われることはほとんどないようだが、打撃成績はここまで打率0.302のホームラン42本。現在ホームラン数トップで打率もリーグ3位につけているなど期待通りの成績を上げている。
その元メジャーリーガーが右打席で構える。
右肘を高く掲げる、日本人選手ではあまり見ない構え。ここから暴力じみた速度で、バットが振り下ろされる。
初球、俺はインコースへのボール球を要求した。
こいつは多少ボール気味だろうが構わず振ってくる。
それだけを聞くと楽なバッターだが、そのボールゾーンの球をヒットや、ときにはホームランにさえしてしまう。それができるから振ってくるのだ。
だからといってストライクゾーンの方が打率が悪い、というわけでももちろんない。結局はボール気味の球で勝負するしかないのだ。
片崎のコントロールなら甘く入ることも、ぶつけることもそうそうないはずだ。見せられるうちにインコースを見せておく。
片崎が頷き、投球モーションに入る。
その手から放たれた速球が、要求通りに懐を抉る。
カット気味に僅かに食い込んだボールを、バンデラスは強振した。
ボールとバットが衝突する。打球はレフト側ファールゾーンのフェンスにぶち当たった。
その打球の速さに気圧されてか、周辺の観客が静まり返る。
こいつのためにわざわざ今年からスタンドに用意されたネットがあるから、そうそう観客に大事故は起こらないだろうが、ライナー性の打球は凶器以外の何物でもない。
マウンドにいる片崎の表情を窺う。
この打球にはさすがに驚きを隠せないようでしばらく打球の方向を見つめていたが、こちらに向き直る顔に萎縮の色は見えなかった。心配は不要そうだ。
できればここで打たせて取ってしまいたい。
次は外角低めに、シュート気味に逃げてボールになる速球を。
ストライクゾーンには投げるなよ。なんだったらはっきりボールでもいい。こいつは始めから歩かせるつもりくらいでちょうどいい。
片崎の投じた球は、俺の要求の範囲内ではあった。ストライクゾーンを掠めるようなコースから、さらにボール半個ほど外に逃げていく速球。
並のバッターが手を出せばファールか凡退以外ありえないボール。
だがこいつのストライクゾーンは、こいつ自身によって無理矢理広く歪められている。こいつの腕の長さならば、このコースでさえもバットが届く。
どでかい音がグラウンドに響いた。快音だなんてとても言えない、耳が痛くなるような轟音。
打球は一瞬でグラウンド内を駆け抜け、ライナーで左中間のフェンスにぶち当たる。
比較的フェンスの高い球場だったことが幸いした。フェンスがあと数センチ低ければホームランだった。
さすがにショックを受けているだろうかとマウンドへと目を向ける。
片崎は二塁まで回るバンデラスを視線だけで追った後、こちらに顔を向け、今にもバンデラスを指差しそうな様子で目だけで問いかけてきた。
『なんなんですか、こいつ?』
んなもん、俺が聞きたいわ。




