娘さんをください
「ダメなんです」
阿郷さんの言葉をさえぎって、玄関での挨拶以降初めて、木庭さんが口を開いた。
「あなた方の娘さんでないと、片崎渚さんでないと、ダメなんです」
ずっと無言だった木庭さんが話し始めたことに不意を突かれたのか、母は二の句が継げずに沈黙する。
代わりに父が、困惑した様子で尋ねた。
「えっと、あなたは……」
「お二人のご息女を初めに見つけた、この世界に連れ出そうとしている犯人です」
犯人、なんてふざけた単語を使っているのに、木庭さんの表情はひたすらに真剣だった。
「娘でないとダメ、というのはどういう意味でしょうか?」
「ありきたりな、本当にどうしようもなくありきたりなことしか言えないのですが、渚さんには素質が、才能があります。野球の、ピッチャーの才能が」
「才能って、そんなの……」
「探せばある、もしかしたら通用するかもしれない、そんな程度の才能だったのなら、私もわざわざ彼女を、プロの世界に引きずり込もうだなんて思いません。ですが、間違いなく通用する、そんな確信を持てる原石を、私たちはやすやすと見逃すことはできません。男女差とか、経験とか、そんなものが入り込む余地がないほどのものを、渚さんはすでに持っています」
「……仮に」
木庭さんが話し始めてからは沈黙していたままだった母が、会話に割って入ってきた。
「仮に、娘に本当に才能があったとして、それが、娘が欲しいというのは、あなたたちの都合でしかないしょう。プロ野球なんてそんな、来年はおろか、明日も保障されていないような場所に、娘を送り出すなんて……。そもそも私たちは、娘があなたたちプロ野球関係者に注目されていただなんてこと自体、寝耳に水なんです。いきなり渚を欲しいと言われても、どう反応すればいいか……」
母の沈黙を待って、木庭さんが答える。
「お二人が不安になるのは、渚さんの心配をするのは当然だと思います。前例もない、親元を離れて、周りが男性しかいない環境で、自分の身ひとつで戦わないといけない。そんな場所でありながら、いつ首を切られるかも分からない。我が球団が一生面倒を見ます、なんて、口が裂けても言えない。でも」
木庭さんの目が一瞬、私へと向けられた。
でもそれは本当に一瞬で、すぐに母に、両親に向き直る。
「そんな世界に、渚さんは本気で入りたいと思っています。本気で野球をやりたいと。そのこと自体は、おそらくお二人もご存じなのではないでしょうか?」
木庭さんの視線が、母と父の間を一度、行き来する。
二人はなにも言わない。母は少し目を伏せて、父は木庭さんの顔を見つめたまま、動かなかった。
「プロ野球の世界に入ることが、渚さんにとって一番の幸せだと、そんなふうに軽々しく言うことは、私にはできません。ですが、それでも渚さんはそれを、プロの世界に進むことを望んでいます。その覚悟も十分にあると、私はそう確信しています」
そう言って、椅子から立ち上がる。
「お願いします」
立ち上がって、頭を下げた。
「娘さんを私に、我が球団にください」
母と父が顔を見合わせる。
母が困惑を隠せていない声で答えた。
「そんなこと、言われても……」
両親ともに、すぐには首を、縦にも横にも振らなかった。
「お願いします」
木庭さんが話し始めてからはずっと沈黙を貫いていた阿郷さんが、彼女に続いて頭を下げた。
「大切な、まだ高校生の娘さんのことです。無理に入ってくれとは、とても言えません。ご両親がそんなものは受け入れられないと言うのであれば、私たちは大人しくあきらめます。ですが」
頭を下げたまま、阿郷さんが言葉を続ける。
「ですが、渚さんの才能に惚れ込んだのは、なにも彼女の、木庭だけのことではありません。私たちだけのことでもありません。このことは、我が球団の総意です。どうか、どうかご一考ください」
『…………』
沈黙がしばらく続く。先にそれを破ったのは父だった。
「分かりました」
「ちょっと! なにを勝手に……」
「いいじゃないか」
母に向かって、父が笑いかける。
「行かせてあげようよ。渚もそれを望んでいるようだし。四年間大学に通うようなものとでも思えばいい。プロ野球の世界なんて、望んでもほとんどの人間は入ることさえできないんだから」
「…………分かった」
唸るようにそう言って、母が木庭さんと阿郷さんに向き直る。
「娘を、渚をよろしくお願いします」
後日、サンダードックスの使用しているグラウンドに、木庭さんがやってきた。
「ご両親、なんとか納得してくれたみたいでよかったね」
「納得はしてないと思いますよ。少なくとも母は」
それでも、反対はせずにいてくれたからよかったけれど。
いつの間にか私の横に並んでいた、木庭さんの顔を見る。いまさら疑ってはいないけど、念押しの意味も込めて確認した。
「本当に指名してくれるんですよね?」
「もちろん。これで指名されなかったら球団に直談判するか、そんな見る目のない球団なんか辞めてやるよ!」
「ならいいですけど」
いや、よくないな。この人がどうなろうと構わないが、指名自体はしてもらわないと困る。
「片崎さん」
振り向く。木庭さんは珍しく真面目な表情で、
「これから、だからね」
と、そう言った。
「分かってます」
でもそんなこと、言われるまでもなかった。
これからでないと、困る。
ドラフト会議当日、私はダイニングチェアに座って、斜め向かいにあるテレビを見ていた。
父と母は、テレビの向かいにあるソファに座っていた。
「わざわざそんな見にくいとこにいなくても、あんたがここに座ればいいのに。あたしたちが邪魔だったら、あたしが床にクッションでも敷いて座るよ?」
「いや、いいよ」
母の言葉にやんわりと首を横に振った。
家族が密集している場所で結果を見るのは、なんとなく気まずい。
「あっ、始まったよ」
ダイニングテーブル越しに私の向かいに座っている妹の沙凪が、そう言って私に笑いかける。
妹の顔は、私にあまり似ていない。家族の誰ともあまり似ていなかった。
強いて言えば、丸みを帯びた目の形は父に、顔の輪郭は母に、少し似ている。
スカウトの人たちが来ていたとき、沙凪は中学の委員会かなにかで家にいなかったけれど、事情は母や父と同じときに話していた。
各球団の指名選手が読み上げられていく間、私たちは無言だった。
『静濱グリフィンズ、7位……呉岡東高等学校、投手、片崎渚』
私の名が、学校名に続いて読み上げられた。
父は笑ってはくれたものの、表情は硬かった。
母は笑っていなかった。もしかしたら、いっそ指名漏れしてくれればと思っていたのかもしれない。私には、母の心情は分からないけれど。
沙凪だけが、
「おめでとう、姉さん」
そう言って、微笑んだ。
「うん、ありがと」
やっとだ。
一度、小さく息を吐く。
やっと、投げられる。