答え合わせ
「GM?」
試合後、呆然と立ち尽くしていたところに声をかけられた。
聞き馴染みのある野太い声。振り向くと、大柄で小太りの男が目の前にいた。
「阿郷さん」
うちの球団のスカウト部長である彼は、少し驚いたような表情を顔に浮かべていた。
「わざわざ観に来られていたのですか」
「ええ、少し時間がつくれたものですから。……それにしても、驚きました」
「片崎、ですか?」
「ええ」
頷く。今日の試合で驚くところといえば、それしかないだろう。
「不思議な投手ですね。球速は決して速くないのに、投球内容はまるで剛速球投手のようでした。それも超一流の。さすが、あなたが推すだけのことはありますね」
事前に片崎という選手がこの入団テストに参加することは知っていた。そしてその情報を私に伝えたのは、他でもないこの男だった。
ちょっと面白い投手がいる。実績らしい実績はない。しかし持っている技術、能力には確かなものがある。そしてプロ野球では異例の女子選手であるとも。
正直、その内容は話半分で聞いていたし、彼自身も頭の片隅にでも置いてもらえれば、としか言わなかった。
しかし実際に彼女が見せてくれた投球は、決して無視できるものではなかった。
だというのに阿郷さんの表情は優れなかった。いや、優れないというよりは困惑している、そんな様子だ。
阿郷さん自身の口から出てきた言葉もそれを裏付けるものだった。
「いや、むしろ俺も驚いている側の人間ですよ。あいつがここまでやるとは思わなかった。上手くいけば無失点に抑えるかな?程度の期待はしていましたがね。推していたのも正確には俺じゃなくてコイツです」
そう言って阿郷さんは隣にいた女性に顔を向ける。
「君は確か去年スカウト部に配属された……」
「木庭結芽です」
そうだ、覚えている。以前に阿郷さんが推薦してきた、この球団では初の女性スカウト。
そうか、彼女が。
「君だったんだね、あの投手を見つけたのは」
「はい」
「そうか、君が……」
何から言えばいいのだろう。何から聞けばいいのだろう。聞きたいことは多々あるが、どうにもそれが整理しきれない。
私は素直に今感じていることをそのまま彼女に伝えた。
「正直、驚いたよ。それどころかいまだに困惑が抜けきっていない。彼女は、彼女のあのピッチングは、なんだ?」
「なんだ、と言われましても」
おい木庭、阿郷さんが小声でそうたしなめる様子に苦笑しそうになる。
「いやすまない、これは私の聞き方が悪いな。あまりに漠然としている。聞き直すよ。……なぜ彼女は、140キロにも満たないストレートであそこまで抑えられる?」
木庭さんは一瞬考え込む様子を見せていたが、どこか諦めたように小さく息を吐いた後に、答えた。
「理由は、たくさんあります。一度に説明するのが難しい程度には」
「うん、そうだろうね」
そうだろう。一言二言で済ませられるほど、彼女のピッチングは簡単じゃない。もちろん、野球におけるピッチングというもの自体も。
「自信がないのだけれど、いくつか私が推測したことを話させてもらってもいいかな? 答え合わせがしたい」
「もちろんです」
「7回の登板、彼女は速球だけで抑えていたね?」
「はい」
「そのときのピッチング、一球一球間合いを変えていたように見えた。足を上げるスピードや着地するまでの間、リリースポイントの前後……大したものだと驚いたよ。アマチュアの選手で同じことができる者が何人いるか。ましてそれができる女子高生なんて、一生のうちにお目にかかれるとは思ってもいなかった。想像さえしていなかったよ」
「そうですね。そんな女子高生が他にもいたらちょっと引きます」
「そうだね」
彼女の妙に堂々とした態度に少し笑ってしまう。私は一応、この球団における編成部門のトップに当たるわけだが、彼女に萎縮した様子はない。あまり物怖じしない子のようだ。
「だけど、アマチュアといえどまがりなりにもプロを目指す選手三人が三人とも、フォームの緩急だけで空振り三振で終わるとも思えない」
「そうですね。私もそう思います」
「だよね。実際に彼女はフォームだけじゃない、軌道でも速球に緩急をつけていたんだ」
木庭さんが無言で微笑む。おそらくそれが答えだろう。
あの投手が投げていたのは真っ直ぐに進むストレートだけじゃなかった。左右に僅かに曲がる、球種的にはシュートやカットボールに分類されるボールを、ストレートと同じ球速で投げ分けていた。
そして曲がるということは、直線で進むより寄り道するということだ。
そうすればたとえ同じ球速でも、ホームベースまでの到達時間は僅かにだが変わる。それが打者の感覚を狂わせる。
「まあ、そうは言っても観客席から見ているだけでは、どれもただのストレートと同じように見える。だからあくまで、バッターの反応を見ての推測にすぎないのだけれど」
「いえ」
木庭さんが首を横に振った。後に続くのは私の推測を肯定する言葉だった。
「GMが話されていることは全て正しいです。付け加えるなら、球速自体も意図的に2、3キロほど変えたりもしているみたいですけど」
「いよいよ高卒の子ができるピッチングじゃないね」
笑うしかない。それはもうプロで何年も投げ続けている投手のそれだ。
「はい。そう思ったから、この入団テストに彼女を誘いました」
木庭さんが私の推測にいくつかの補足を入れてくれた。私は黙ってそれを聞く。
「ほんの少し変化する……横に曲がったり、縦に沈んだりする速球を先に見せられたら、バッターの頭には、それがこの投手のストレートなのだと刷り込まれる。そこに途中まで同じ軌道、同程度の球速で変化しない速球を投げられたら、前の軌道を予測したバッターのスイングからはズレる。少なくとも真芯には当たらない。そしてあの子の投げる速球のうち、最も直線に近いストレートは、とびきり沈まない。ですから、タイミングも軌道も、バッターの予測に合わないはずです」
「だからこその、オール速球での三者連続三球三振か」
思い出すのは七回の投球。
それから、
「八回に先頭打者のバットを折ったのも同じ理屈だね?」
「はい」
木庭さんがどこか嬉しそうな笑みを浮かべながら話す。
「初球に内角へ外れる普通のストレート。二球目に同じコースからストライクゾーンに向かって少しだけシュート気味に動く速球。そして三球目に一、二球目と同じようなコースから、さらにバッター方向にカット気味に動く速球を投げれば、それが真っ直ぐ来るボールなのだとバッターが錯覚していれば、バットの芯からは大きく横にズレます」
「そのまま根元に来たボールを振り切れば、当然バットは折れる、か……」
なるほど、合点がいった。
「面白い選手だね。阿郷さん」
しばらく私たち二人の会話を黙って聞いているだけだった阿郷さんは、突然自分に話を振られて驚いたのか、一呼吸遅れた、はいという返事とともにこちらへ振り向いた。
「取ろうか、この選手」
「本気ですか?」
訝しげにこちらを見下ろす阿郷さんの様子が、なんだか可笑しく思えてしまう。あなたも推薦してきた側の人間でしょうに。
「もちろん。ここまでのものを見せられたら、取らない理由はないでしょう? まあ取るにしても、下位も下位、という順位にはなるかと思いますが」
ドラフト会議当日、宣言通り我が球団は片崎渚を7位で指名した。当然のように単独指名だった。
日本野球界でまだ誰にも知られていない選手の名前が呼ばれた瞬間、会場は関係者の響めきで、揺れた。




