古墳
あれは、僕がまだ小学校に上がる前のことだ。
朝、目が覚めると、目の前に父の顔があった。朝と言っても、まだ暗く、幼い僕にとっては、むしろ夜の出来事と言ってよかった。
「行くぞ」
父はそう言うと、まだ半分眠っている僕に無理やり服を着せ、車の助手席に乗せた。あっけに取られている僕を気遣うそぶりも見せずに、父はその後一時間、黙って運転を続けた。うっすらと夜が明け始めた時、気がつくと車は鬱蒼とした森の中を走っており、窓の外には薄く霧がうず巻いていた。
やがて父は、木々に囲まれたちょっとした広場に車を止めた。どうやら目的地に着いたらしいのだが、もともと無口な父は、何も言わなかった。車の近くには、小さな看板のようなものがあった。そこには、文字と、いくつかの矢印が書かれていたが、当時の僕にはそれを読むことはできなかった。今思えば、どこかの山へ向かう、登山道の入り口のような場所だった。
車を離れ、どんどんと歩いて行く父を、僕は懸命に追いかけた。しばらくすると、車道から離れる脇道へと入り、森の奥へと続く、狭くて急な坂道を登り始めた。狭い道の両側に生えた笹が、ばちばちと肩に当たった。時にはそれが、僕の目を襲うこともあった。その獣道のような細い隙間を、父は少しも躊躇することなく、ずんずんと歩いた。僕は、そんな父を追いかけるのが精一杯だった。
やがて、唐突に明るい広場に出た。
山の真っ只中にも関わらず、木々のない、不思議な空間がそこにはあった。広場の真ん中は、お椀を伏せたように盛り上がって、ちょっとした丘になっていた。
「古墳だよ」
「古墳ってなあに?」
「昔の人が作ったお墓さ」
ちょうどその時、木々の間から太陽が顔を出した。それを合図に、数羽の鳥がパタパタと乾いた音を立てて飛び立ち、木々に残った鳥達は、自由に自分たちの歌を歌い始めた。お墓というには、あまりにも爽やかな風景が広がっていた。
「でも、今日見に来たのは古墳じゃないんだ」
そう言って、父は、古墳を通りすぎて、とある一本の木の下で足を止めた。
どこからか、ピヨピヨという微かな声が聞こえてきた。
ひよこの鳴き声だ。
幼かった僕にもそれはすぐにわかった。家の近くに、ニワトリを飼っている農家があって、僕は、そこでヒヨコを見せてもらったことがあった。黄色くてふわふわとした、頼りないその生き物が、僕は大好きだった。今聞こえている声はまさにそれと同じだった。このあたりのどこかにヒヨコがいるに違いない。
「あそこ」
父が指差す方を見ると、木の幹に、直径五センチ程度の穴が空いていた。地面から二メートルあまりの場所だ。ピヨピヨという声は、その穴から聞こえて来るようだった。まだ身長が一メートルにも満たない僕には相当な高さの場所に思えた。もちろん覗き込めるはずもなかった。
「多分、キツツキのヒナだよ」
父は言った。父が、いつ、どうやってこの鳥の巣を見つけたのかは謎だが、若き日の父は息子にそれを見せたかったらしい。情操教育の一環か。はたまた、息子が無邪気に喜ぶ姿を見たかったのか。今となっては理由はわからないが、その時の僕は幼いながらも、おおいに感動したことを覚えている。
生まれて初めて、探究心のようなものが芽生えた瞬間だった。キツツキのヒナというのも、やはり黄色でフワフワとしているのだろうか。それとも、もしかしたら白いのか。 あ、もしかしたら毛がないかもしれないな。僕はどうしても穴の中がどうなっているのか見たくなって、父に頼んでみた。
「そっとしておいてあげようか」
父は優しくそう言った。教育的指導とか、そういう意味はおそらく無かった。父はただただ心から、そこにある小さな命や、自然を大切に守りたいと願っただけだろう。そして、その心は確実に僕に受け継がれた。
父は、リュックサックからビニールシートを取り出すと、その木の根元に敷いた。そこに座って、キツツキのヒナの声を聞きながら、二人でおにぎりを食べた。いつも母さんが作ってくれる、三角形のおにぎりだ。そう言えば、今日は、どうして母さんは来なかったのだろう。でも、そう思ったことは父には言わなかった。特に理由はない。ただ、何となく聞かない方が良いことであるような気がした。
おにぎりを食べた後で、古墳の周りをぐるっと一周回ってみた。古墳と森の間には綺麗な水が流れていて、気の早いシオカラトンボが飛び回っていた。水の中には、数匹のイモリが歩いていた。捕まえようと思って、水に手をつけると、そのあまりの冷たさに驚かされた。
「ここは父さんの秘密の場所なんだ」
父の目が、遠くを見ていた。
「もう少ししたら蛍を見ることもできるよ」
そう言って、父は楽しそうに笑った。
蛍を見たことが無かった僕は、その日が来ることを楽しみにしていたが、その後、二度とその場所を訪れる機会はやってこなかった。今となっては、その正確な場所さえもわからならない。
この日の出来事が、僕の頭に残る、たった一つの父との思い出になった。
そして、幼い僕に強烈な印象を与えたこの記憶は、何かの機会に、古墳と言う言葉に触れるたびに蘇った。そして、僕は、なんとなく、古墳というものに、興味を惹かれるようになっていった。