森
森の中。
と、言っても、そこは、小学校の校舎から数百メートルしか離れていない場所だった。にも関わらず、生い茂る木々とその凄まじい生命力に阻まれて、人の気配は全く感じられなかった。自分が、どこか遠い、しかも誰もいない世界に取り残されてしまったような、そんな心細さを感じた。
耳を澄ませてみた。
ほんの一瞬、遠くから微かに、鳥の声が聞こえたような気がしたが、それもすぐに止んでしまった。風の音に隠れるようにして、水の流れる音が微かに感じられた。そう言えば、学校の西側には、渓流があったはずだ。
森の奥に向かって一本の道が続いていた。
しかし、それが、本当に人間の作った道なのか、それとも、獣達が歩いて自然にできた道なのか、僕には区別がつかなかった。
本当にこれは正しい道なのだろうか。
時々吹く風が、木々を揺らす。それは、適度に冷たく心地良いものだったが、それすらも、僕の不安を和らげることはできなかった。
コンパスを持ってきてよかった。
目的の場所に到達するのは思ったより難しそうだ。
昨日のことだ。
担任の木下先生は、あまり宿題を出さないのが唯一の取り柄だと聞いていたのだが、その日は、珍しく宿題を出した。
「自分の家の周りの地図を描いてくるように。自分が知っている範囲でいいから。頭の中にある風景を地図にしてくること」
木下先生はそんなことを言った。
「先生、これって社会の宿題ですか」
お調子者の木村がどうでもいい質問をして、軽くひんしゅくをかっている。
「どちらかと言えば、美術かな。あまり深刻に考えなくていいよ」
木下先生はそう言って笑った。
「正確である必要はないんだ。だから、実際の地図と比べたりする必要は全くない。むしろ、自分の頭の中にある世界と、現実の世界のずれを楽しむための準備だと思って欲しい」
しかし、それは、つい先日まで、別の町に住んでいた僕には、ちょっと酷な宿題だった。はっきり言って、学校と自宅を結ぶ、狭い道の風景しか僕の頭の中には無かった。そこで、ちょっとだけ、不正を働くことにした。
「母さん、この辺の地図持ってない?」
「そんなものどうするのよ」
「宿題に必要なんだ」
「古くて良ければあるわよ」
この町に引っ越してきて、まだ日の浅い我が家の片隅には、未開封のダンボール箱がいくつも転がっていた。その中の一つから、母さんは、地図を見つけ出してくれた。
その地図は、本当に古いものだった。
全体的に何となく黄色っぽく変色していた。何か飲み物をこぼしてしまったのか、水が流れたようなシミがあった。さらに、おそらくカビだと思われる、黒っぽい点々がところどころにあった。僕は、今にも破れそうなその紙を、ゆっくりと丁寧に広げた。
広げた紙の真ん中には駅が描かれていて、線路が東西に延びていた。その線路に沿うようにして川が流れている。そして、その川の流れに寄り添うようにして、田んぼと畑が西の方に広がっていた。北側と南側は、森に覆われており、駅周辺だけが、人の住むエリアだった。まちがいない。確かにこの町の地図だ。しかし、あるはずの場所に、小学校は無かった。この地図が描かれた時には、まだ小学校ができていなかったのだ。僕と母さんの新居となった団地も、まだ、森の中に埋まっていた。残念ながら、今日の宿題にはとても役に立ちそうになかった。
しかし、その時、僕はあることに気づいた。本来学校のあるべき場所の、少し北の森の中に、赤い鉛筆で丸が書き込まれていたのだ。残念ながら、丸だけで何の説明も書かれていなかったが。
「史跡。いや、古墳かな」
文字が擦り切れていて、とても見づらかった。でも、かろうじて判読できたのは、小さな小さな『古墳』という文字だった。こんな場所に古墳があるのか。僕の興味は膨らんでいった。
あくる朝、コンパスと小さな水筒を携え、その森に向かった。
五月。そして、午前九時だというのに、とても暑い日で、家の周りでは気の早いセミが鳴き始めていた。しかし、一歩森に踏み込んでみると、冷たい風が僕を包んだ。
古墳が見てみたい。そう思ったのには訳があった。