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魔獣戦士 アニマ   作者: 文月 宵兎/原案 信長乃社交
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第5話 雷霆

真雄人「今回はまた厄介な奴が仲間になったな」

出雲「そ、そうですね……。初めは私も怖い人なのかと思ってしまいました」

真雄人「にしても、武尊があそこまで毛嫌いするのはアニマの動物も関係してるのかな、どう思う?」

出雲「ふえ!? う、うーん……。あ、でも、この前は三峯くんに黄山くんがレポートの問題を教えてましたよ」

真雄人「え!? あ、アイツ勉強出来るの?」

出雲「一応入試だと、上位三名の中に居るそうです」

真雄人「マジか。人って見かけによらないんだな」

出雲「ギャップ萌えですね」

アニマ5 「雷霆」


 闇に沈んだ、神の塚ショッピングモール。腹に響くDJのビートと色とりどりのネオン。派手な若者、惜しみなく肌を見せる女達。酒酒タバコ、たまに裏でやばい薬。この世の娯楽を煮詰めたような空間。

その中でスケートボードを滑らせる。技を決める度に上がる歓声と冷やかし。同じはぐれ者の溜まり場。ここなら誰も俺を否定も肯定もしない。ぬるいビールの中を漂うような空間は心地いい。

そこで水を差す、携帯の着信。俺は顔を顰めてスマホを鞄の中に押し込んだ。


「ユズは、今日も帰らねぇの?」

仲間の1人が、訪ねた。俺は勿論とハッキリ言った。すると、スケボー仲間の紅一点の子が心配そうに顔を曇らせた。

「マジごめんなんだけどさ、ウチの家前にユズを泊めた時騒ぎ過ぎて大家に外部のやつ泊めんの禁止になっちゃってさ」

「実は俺もなんだよな。前に花火部屋でやって俺の服とか家具も焦げたし、もう泊めんなって」

そうは言うものの、多分コイツらは本心は俺みたいな厄介者は家に入れたくないんだろう。

確かに、いつもやりすぎてしまうなって思うが、こいつらもその時は楽しんでたんだ。俺だけ責められるのは違う。でも、コイツらは他の奴と違って怒りはしない。

「悪い、俺っちも明日テストだし、家に人入れらんねぇ。来週ならいつでもいいぜ」

「つかさ、ユズ学校いった方がいいんじゃないの? あんたのとこの部活、来週から全国大会なんっしょ」

「えー、ダリィからやだ。練習に行っても変な目で見られるし」

俺が足でボードを弄りながら言うと、ぷっと1人が吹き出した。

「そりゃ、その部活のエースがこんな溜まり場で女といいことしてたらそりゃあな」

「くくっ、確かに。首にタトゥーシール貼ってるし。普通の奴なら近寄らねぇわ」

「罰ゲームでショウヤがやれっったんだろーがよ。まぁ、俺は最悪野宿で良いわ」

ゲラゲラと笑いながらぬるいハンドサインをして、ボードをまた滑らせる。学校もクソ。家もクソ。二度と帰りたくない。何が青春だ。そんなキラキラしたもの俺には要らない。ここのクソみたいな溜まり場がいちばん楽しいんだ。

そんな時、頭上で珍しくカラスが鳴いた。と、同時に、モールの入り口付近から懐中電灯の光が出てくる。警備員だ。

「やっべ、俺ら金払ってねぇーべ」

「逃げよ」

ボードとリュックを引っ掴んで、DJの横をすり抜けようとした時、仲間の1人が酔っ払いとぶつかった。あの腕のタトゥーはここらでも有名な半グレ集団の竜巻の一派だ。

「おい、大丈夫かよアラン」

「おいゴラァ、てめぇどこ見て歩いてんだ、おん?」

アランとユウキの胸ぐらをタトゥーの男は掴んで揺さぶる。DJがEDMを変える。ぬるい繋がり、緩い仲間だが、理不尽な暴力というのは傍から見ていれば腹立たしいものだ。

「やいやい、筋肉ダルマ野郎!俺様のダチに何手ぇ出してんだゴラ!そのダサタトゥーへし折ってやんよオラァ!」

「バカ!!」

単純はいい。感情のまま自由に体が動く。馬鹿になり切って、俺は竜巻のタトゥーの入った男を殴り飛ばした。やっぱりよろけもしない。だが、矛先が俺に向いた。アランとユウキは転びかけながら逃げていく。やつの真ん前に立って拳を構えて挑発する。

「オラオラオラ! どうした脳筋、頭に肉が詰まりすぎて拳の使い方も忘れたか?」

「てめぇは、来良の暴れ猿の……」

「おうよ、ライラの暴れ猿、黄山禅様とは俺の事よ! どうだい、ブルっちまってんのか?」

手を叩いて囃し立てる。野次馬のガヤが心地いい。大柄なタトゥー男は体をゆっくり起こして首を鳴らした。

「ふん、なんだただの悪ガキ引きずった小猿じゃねぇか。お前、この俺に喧嘩売るなんごペ!?」

「誰が、チビだオラァ!!」

怒りのまま、転がってた空の酒瓶を男に投げ付け、怯んだすきにその腹に回し蹴りを叩き込んだが、その足を掴まれ、吹っ飛ばされた。

続け様に振り下ろされた拳を、体を捻って交わし、跳ね起きでそのデカい顎に飛び蹴りを見舞う。だが、それを手で払いのけられた。

「へへ、結構動きはいいじゃねえか。デカブツさんよー。ウッキッキー」

「ちょこまかと……腹立つなぁ!!」

右の大ぶりに見せ掛けたフェイント、左から死角になるように振るわれたフックが、頬骨を砕いた。

「ユヅル!」

盛り上がるギャラリー、助けにあの仲間は来ない。俺との勝負に賭けが始まる。ああ、どこまで行ってもドブの匂いがする。

「な、何なんだお前?」

突然、目の前に知らない誰かが割り込んだ。両手を広げて自分の身長よりもある大男を睨み付ける。赤と黒と茶色に分かれた奇抜な髪が海から吹き抜けた潮風に揺れる。

「喧嘩を止めるんだ。そして、こんな所で夜中に集まって騒ぐのも、近所迷惑だ!」

「はあ?」

聞き覚えのある声に俺は殴られたところを抑えながら立ち上がった。男にしては華奢な体躯、赤いパーカーに斜め掛けしたウエストポーチ。手にはコンビニ袋に入ったエプロンが見える。バイト帰りなのだろうか。

いいよな、お前は正義感振りかざしても何も言われないし、バイトだって出来るんだから。

「おい、どけよ。お前は関係ないだろうが」

「そうだ、部外者が口出しするな!」

苛立ち混じりに、肩を押しやろうとしたが、男は頑として動こうとせず両手を広げ続ける。一瞬その毛先から火が上がったように見えた。

「退かない。それより、もう警察に近隣住民が通報している。逮捕されたくなきゃ直ぐに帰るんだな」

「……ちっ、おいそこのチビ。夜道とダチには気ぃつけや」

堂々とした声に怯んだのか、警察という単語にビビったのか、タトゥーの男は舌打ちと捨て台詞を残し、ノシノシとその場を後にした。気付けばギャラリーも居らず、ユウキ達もいなくなっていた。

「お前、人の喧嘩に水を差すなや」

無理やり振り向かせると、猫を思わせる大きな目が俺を睨み付けた。小さな口から白い犬歯が見える。

「何が人の喧嘩だ!!お前怪我してるし、友達の女の子を泣かしていたぞ!友達を助けるのはいいけど、その友達を不安にさせたりするのは良くない! さ、これで頬を冷やして、家に帰ろう」

こちらが何か言う前に、タオルで包まれた保冷剤らしきものが押し付けられる。なんだコイツ、俺の保護者にでもなったつもりなのか?

「何なんだよ、関係ないだろうが。俺様は暴れ猿の黄山やぞ? こんなの余計なお世話だ!

ほっとけよ」

「暴れ猿?知らないそんな2つ名! というか、君前に武尊と話してたスケボーしてた同じ大学の奴じゃなかったか? だとしたら尚更見過ごせない!」

「鬱陶しいねん!何なんだよ、お前みたいな平凡野郎、俺様みたいな天才には釣り合わねぇんだよ!お前こそとっとと家に帰れよ、俺に構うな!」

タオルを振り払って、俺はスケボーでそそくさその場を後にした。が。

「待て!お前を手当しないと気が済まない!!」

「もー!!何なんだよお前!」

スケボーのスピードを上げても全力疾走で追いかけて来る赤い髪の男。お前もバイト終わりで疲れてるくせに、何で俺みたいなボンクラに構うんだ?? 脳みそちゃんと入ってるのか?

「何なんやお前、偽善者にしては必死過ぎやろ」

「だっ、誰が偽善者だ! ……まぁ、それは受け取り手によって様々だろうけど。兎に角、めちゃくちゃ腫れてるし、もしかしたら頬骨が折れてるかもしれない。ちゃんと冷やさないと、骨が変な風にくっついちゃうぞ」

「せやから、なんでそんなこと他人のお前が気にするんだよ」

思わず聞いてしまった。どんな臭い台詞が聞けるかと思ったが、青年は真っ直ぐな目で俺を見つめながら当たり前のように言った。

「お前が困っていたから。困ってる人を見たら助けるのが当たり前だろ」

「……何処のアニメの当たり前だよ」

怒る気力も削がれてしまう。足を止めると、息を切らして、握り締めていた保冷剤を頬にあてがった。

「痛くないか?何であんな無茶をしたんだ。殺されてもおかしくなかったんだぞ」

「どの口が言ってんだか。まぁいいや、あんた家近いのか?」

「ああ。狭いアパートだけど」

「じゃぁ、これも助けられた好でさ、俺を泊めてくれん?」

「……はい?」

キョトンと目を丸くする青年に構わず、続ける。

「俺さ、今日泊まる家無いんだよねー。だちには逃げられちったし、金もない。あー困った困った! それに頬も殴られて痛いし! どーしたらいーだろ!夜道には気を付けろって言われてるしなぁー!」

「お前、図々しいな」

「賢いって言ってくれん? で、どうよ?何なら屋根ひとつ貸してくれるだけでいいからさ!」

「……一泊だけなら、別にいいけど」

よっしゃ! 何や、こいつゴッツちょろいやんな? このまま上手く絆せば、ただ宿ゲットなんじゃないか?

「でも、1つ条件だ!」

「何―?」

「僕の家に泊まるからには、夜中に出るのも禁止!あと、学校サボるのも禁止!」

くっ、ダルいルールだなぁ。ま、でも、上手く騙せばこいつも手のひらでコロコロ転がせるだろ。

「かまへんよー!俺ユヅル!黄山禅!座禅の禅って書いてユヅルって読むんだ。よろしくなー」

「僕は今戸真雄人。よろしく」

握手を交わして、夜道を一緒に歩く。それにしても背丈といい、名前といい、顔といい……。

「何か、真雄人って、女みたいだな!」

「は?」

「だって背もちっこいし、ナヨい体してっし、真雄人っていうのも女の名前みたい! なぁなぁ、事実女ってからかわれたことあらへんの? 胸とかあるん?」

「失礼だな君は」

 顔をしかめられ、距離を取られた。その背中を叩いて俺は笑う。

 「な~に怒ってんだよ。冗談だろ?」

 「冗談ね……。お前は人の気持ちを考えられない自己中野郎ってよく言われるだろう?」

 「おお、ビンゴ~?」

 的中させた彼に、指を向けると鬱陶しそうにその指を押しのけた。どうしてだろう、こんなに盛り上げてるのに皆、こんな風に早々に疲れた顔でため息をついてしまう。思ったことを直ぐ言ってしまうのがいけないのだろうか、でも、それで笑う人もいるのに、こいつらはきっと俺のジョークのセンスが理解できないのだろう。俺様が天才すぎてな!

 持ち前のポジティブですぐに思考を明るい方に変える。その様子を、奇異の目で見つめていた真雄人はまたため息を吐いた。

 「なぁ、酒買っていっていい?」

 「お前も僕も未成年だろ、駄目」

 コンビニの前で立ち止まるのも許されず、アパートに引きずられた。




 「ぐえ!?」

 誰かに喉を押しつぶされる様な息苦しさに目が覚めた。半開きのカーテンから覗く朝日。

 「……めっちゃ知ってる天井だ……」

 どこぞのロボットアニメに触発されて、そんな事を寝ぼけながら呟いた。体を起こそうと思うが、体が異常に重い。無理に体をベッドから引き剥がしたら、ごろりと股間の辺りに知らない誰かの脚と、大口を開けて寝こける金髪の男が居た。

 「こいつは……知らない、男だ」

 「ほげ?」

 いびきで盛大に返事をされる。部屋を見ると、食い散らかしたままのスナック菓子の袋や、アイスのカップ、炭酸ジュースのボトルが机に転がっていた。床には積み上がった漫画と自分のものではない荷物。そして、まだ朝の6時を指したまま止まってる時計があった。

 あの朝の一件から学んだ僕は、携帯を取り出す。6時10分。まだ起きるには早すぎる時間だ。

 「んがご」

 そんな傍らで、人のベッドで豪快に寝る謎の男をまじまじと見る。その首にはオレンジ色のヘアバンドが垂れ下がっていた。口にはスナック菓子のカスが残っていた。僕はその頬を優しく突いた後、何だか腹が立って拳を固めて乱暴にその頬を殴った。

 「んがべ!? 何⁉ カニが柿を俺様にぶつけたか⁉」

 あ、起きた。

 「おはよ、お前誰?」

 「おう、お早う……。誰だか分からんのに殴ったん?」

 頬を抑えて驚く金髪の男に、自分でも確かにと納得して頭を下げた。腑に落ちない顔で、青年は頭を掻く。

 「ああ、俺様が誰だって? ほらよ、これで分かるだろ」

 青年はヘアバンドで髪をグッと押し上げる。太くきりっとつり上がった特徴的な眉を見て、ああと僕は手を打った。

 「あの無自覚煽りクソ猿か」

 「お前も、ほどほどにくそだぜ?」

 そんな事は無い筈だ。僕はベッドから居りて、ゴミを片付けながら欠伸を噛み殺してる男に言う。

 「禅……だっけ? 顔洗って口も漱いできた方がいいぞ。酷い匂いだ」

 「おお……、昨日は有難うな。片付けまでさせて悪いな」

 「ま、お前はゲストだからな。宿賃は昨日の騒ぎに免じて延長してやる」

 バスンと音を立ててゴミを屑籠に突っ込み、僕はシャワーの用意をした。そう言えば、昨日はこいつと漫画の話で盛り上がって、アベンチャーズの映画を見てる間に寝てしまったんだ。顎に手を当てると、半端に伸びた髭が当たる。洗濯ものも床に放りっぱなしだ。

 部屋をある程度足の踏み場を作って、着替えを取って風呂場に向かうと、豪快に水を浴びている禅がこちらを見た。

 「シャワーか? 背中流しまっせ!」

 「遠慮する」

 びしょびしょの顔にマフラータオルを投げつけて、僕は服を脱ぎ捨てた。禅は気にせず顔を拭いて、洗面所を後にする。

 「結構いいアパートじゃん。中も結構綺麗だし」

 シャワーカーテンの向こうで、冷蔵庫を開ける禅の声が聞こえる。ペットボトル、泡が一気に弾ける音……あいつ、コーラ開けたな。しかも、僕が楽しみに取っておいた奴を。

 「なぁ、キッチン借りていいか?」

 「ええ? お前にキッチンを明け渡したらめっちゃ汚されそうで嫌なんだけど」

 「賞味期限近そうな食材貰うな―」

 勝手に調理器具を引っ張り出される音とガスに火をともす音がここまで聞こえてくる。容赦なく他人んちのもの使うじゃん。遠慮とかねぇのか、あいつ。そう思いながらシャンプーをしてると、段々いい匂いが漂い始める。醤油とごま油の焼ける香りに、ぐりゅりゅ、と腹が鳴った。

 手際よくフライパンを振るう音、更に別の料理も作っているのか、また別の匂いがしてきた。

 あんなちゃらんぽらんな風貌なわりに、結構料理できるのか……。意外だなぁ。そう思ってシャワーを捻ると、冷水が飛び出してきて変な声が出た。

 「きっしししし……。お前、いつまでシャワーしてんだ? 朝飯もうそろそろ出来るぞ?」

 「おまっ、温度弄ったのか?」

 カーテンの向こうで、髪を逆立てた男のシルエットが見える。笑ってるのだろう、その肩は小刻みに上下していた。

 「おうよ、びっくりした?」

 「やめろ、心臓止まるかと思ったぞ」

 「さーせーん」

 温度を戻して、体を洗って外に出る。見ると、部屋はもっと片付いていて、チャーハンと溶き卵の中華スープがミニテーブルの前に湯気を立てて置かれていた。

 「お前、何で僕の部屋の配置を……」

 「ん? まぁ、来た時に覚えたんだ。あと、漫画の配置違ったから戻したぞ」

 絶句した。チャーハンを食べながら何でもない事のように彼は淡々という。そんでもってチャーハンも美味い。店を出せるレベルだ。

 「お前、結構凄いんだな」

 「そうか? 大概見たり聞いたりできれば出来るだろ」

 「そんな事ないよ、僕はめっちゃ努力しても出来ない事が多いのに」

 「ふぅん、まぁ、普通はそうじゃん?」

 ずず……とスープを飲み干して、両手を合わせる。やることは滅茶苦茶で、遠慮は無くて、思ったことは直ぐに口に出るし、人が嫌がる事とか全く考えない奴なのに、天性の才能を持っている。いいなぁ、漫画やアニメの主人公みたいだ。

 「んで、学校にいけばいいんだっけ?」

 「あ、ああ……。お前学部は?」

 「さあ、入学式もガイダンスもサボってたし、しらね。まぁ、何処でもいいだろ」

 食べ終わったと思えば携帯を弄りながら、床に寝転ぶ。最近は掃除機掛けも疎かにしてたから、あんまり寝っ転がらないで欲しいんだけど……。

 「あ、そう言えばコロコロもして置いたぜ。埃すんげぇなこの部屋」

 「こ、コロコロも⁉」

 「そんな驚く?」

 ま、まぁ、でもこいつサボり魔だし、どうせ部屋の奴もまぐれだろう。僕も食べ終え、二人分の食器を流しに放置して時計を見る。まだ余裕はあるけど、そろそろ出る準備しないと。

 「さ、腹も膨れたし二度寝しよ」

 後ろで阿保はそんな事を呟いているが、無視して歯磨きと髭剃りを終え、髪を軽くセットして靴下とスマホ、今日の課題や授業で使うものを確認し、最後に床で寝ている馬鹿の足を掴んで玄関から飛び出した。

 「ってぇ! なにすんじゃボケゴラ! 俺様の天才的な頭が傷ついたらどうすんじゃボケ!」

 「もう手遅れだろ」

 「何だと⁉」

 手を離すと、面白い具合に顔を赤くして怒って来る。いじりがいがあるなぁとは思うが、人を弄ったり、あんまり悪口の様な冗談を言いすぎるのも良くない。ヒーローに憧れる身としては看過出来ないモノだろう。

 「すまん、やり過ぎた」

 「まぁ、謝ったなら許して……やるか馬鹿野郎が! 何て無礼な奴だ、信じらんねぇ!」

 「それ、お前が言うか?」

 禅は起き上がると、玄関前に立てかけたキックボードだけ持って、僕の後を追いかけて来た。

 「はー、朝もはよからお前も元気だよなぁ。折角だし、もう少し寝ようぜ? 別に遅れたって誰も文句言わねぇよ」

 「お前はそうかもな。でも、僕は違うんだ。父さんが汗水たらして働いたお金で通わせてもらってるんだ。家賃も出して貰ってる、こんな所でがっかりさせられないよ」

 錆びつきすぎて時々グラグラする外階段を下りる。外のサクラはすっかり、新緑を自慢げにその枝に飾り付け、その枝にメジロを住まわせている。

 すっかり、春が過ぎて行ってるなぁと感じた矢先、突然両肩を掴まれた。振り返ると、禅が自分だけスケートボードに乗って、両手を乗せていた。目が合うと、無邪気に笑う。

 「んじゃ、あと宜しく」

 「はぁ?」

 「俺は走るのは嫌いなんだよな。だから、引っ張ってけ」

 「何で」

 「走りたくない」

 「……昨日の今日で、足を怪我したとかじゃないよな?」

 「は?」

 僕は心配になって、彼の足を摩った。かすり傷一つない足だが、骨折や打撲は後から響いてくることがあるって聞く。こう、飄々としているけど万が一のことがあったら大変だ。

 「なんだお前、気持ち悪いな! 突然足なんかじろじろ見やがって! 何もねぇぞ!」

 「何も無いなら歩け。心配して損した」

 足を放り出して、僕は先を急いだ。その後を、飛ぶようにして追いかける禅にうんざりする。

 「何怒ってんだよ、可愛い顔が台無しだぞぅ?」

 「きもっちわるいんだけど、止めろ」

 「ははは、何だお前、熱い男かと思えば案外ドライだなぁ」

 そうして、街でも駅でも電車でもちょっかい掛けられ続け、気付けば教室に辿り着いていた。

 「……あ」

 「ん……? うっげ」

 武尊が珍しく僕の方を見て、物凄く嫌そうな顔で眉を潜めた。一方で、僕の頭にその辺で拾った葉っぱを刺して猫耳~とか言って遊んでいた禅は武尊を見てパッと顔を輝かせた。

 「お前! 超絶スケボード下手くその武尊くんじゃーん! うぇーい、おっひさ~!」

 「だから、それはお前が信じられないほど下手くそな教え方が原因だろうが!」

 おお、これは本当にレア中のレアだ。あの何でもウェルカムブロックガバ判定の武尊が、全力で拒否反応を示してる。それでもなお突っ込んでいくあいつは、メンタルはガンダム超合金で出来てんのか? 見ろよ、後ろの出雲が目から洪水起こすのかっていうくらいの大粒の涙を溜めてるぞ。

 「こら、禅、武尊。出雲が今にも泣きそうになってるから」

 僕が止めに入ると武尊が分かりやすく、眉尻を下ろしておろおろと謝る。一方で禅はケロッとしてる。出雲は気絶しそうだ。深呼吸を促しても、涙がボロボロと溢れていく。

 「へーい、そこの女子ぃ! なーに泣いてんの? なーに泣いてんの! 泣きたーいから泣いてんのって感じ? てか、めっちゃぐうかわじゃん、なな、放課後一緒に飲まねぇ? 俺さ、めっちゃ映えるBAR知ってんのよ、酒も雰囲気もめちゃエモだし、絶対気に入るぐえ」

 出雲が泡を吹いて気絶しそうになってる。なんたってこの遠慮も配慮もない大声だ。出雲はウサギの神様だから脳みそが爆発するんじゃないかと思う。武尊が両手で禅を押し返し、ぐるるるると狼のように牙を見せて唸った。彼が牽制をしている内に僕はメンタルケアに入る。

 「よーしよしよし、怖かった怖かった」

 「い、今戸くん……わ、私、私未成年ですよ……」

 「うん、そうだな。お酒飲める場所にはいけないな」

 「たっ、たっ、大会も近いし……」

 「そうだな、初めての晴れ舞台だもんな、今日も練習するんだもんな」

 「はっ、はっ、はわわわ、初めてのナンパですし……」

 「そうだな、びっくりしたなぁ、怖いよなぁ」

 「いえ、ちょっと嬉しかったです」

 女子の心がマジで分からない。

 とりあえず、チリ紙とハンカチを用意して眼鏡を取って涙を拭いて頭をこれでもかと撫でまわすと、漸く落ち着いてくれた。

 「おい、黄山! お前、何のつもりだ? お前の学科はこっから反対の体陸科だろ! ここに何の用だ!」

 「そーなん? 知らなかったわ、あんがとさん。まぁ、用はないけど真雄人に連れてこられてさー。まぁ、今日はここでサボるかーって」

 「残念だったな。お前の迎えはもう呼んであるんだよ」

 武尊が爽やかな顔を崩して、何かを企むようにニヤリと笑った。と、その時後方の教室のドアが勢いよく開け放たれ、入学式の時みたボスざるの様な、ゴリラの様な風貌のジャージの男が現れた。

 「あ? 誰だよ?」

 「きぃ~やぁ~まぁ~!!」

 「あれはお前の学部主任。期待の新一年生のルーキーがサボり魔だっていうので、学部のダチからヘルプがかかってたんだよ!」

 物凄い形相で、こちらに歩いて来ると禅の頭に巨大な拳骨を振り下ろした。その音と風、そして衝撃に出雲が腕の中で目をまわして気絶する。そして、彼を抱えて大柄な男は武尊に言った。

 「このアホ猿の捕獲のご協力感謝する」

 「礼は、この間の授業のレポートの評価底上げでお願いしますよ教授。黄山の奴はこの僕が確実に授業にも部活にも参加させますから」

 「ああ」

 呆然とする僕らを横目に、こいつらは何ハードボイルドムーブかましてんだろうか。教室も水を打ったように静まり返り、教師が出て行った後もへんな空気が流れる。ため息をついて一人一件落着だ、とでも言いたげな安堵顔に思わずデコピンを当てた。

 「何一人で安心してんだよ。タケルとユズルは知り合いなのか?」

 「ああ。知り合いたくないけど、知られてしまった」

 「どういう事なんです?」

 意識を取り戻した出雲が頭を抑えて尋ねる。武尊は深いため息とともに、先日ショッピングモールで怪人に襲われる前にあった出来事をやけに苛立たし気に語った。

 全く怒らないと言ったら嘘になるが、武尊が怒るなんて中々ない。相当腹立つことされたんだな。まぁ、僕は不屈の精神で耐えたけど。

 出雲がなるほど、と相槌を打って眼鏡をかけ直しながら首を傾げた。

 「でも、何で三峯くんがえっと、黄山君? の学部まで知ってるんです?」

 「調べたんだよ、近づかないように……。でも、その情報収集であいつの弱みを握れたのは良かった」

 「お前、僕と同じヒーローと思えないほど悪い顔して使っていたけどな。まぁ、確かに遠慮は無いし思った事は直ぐ口に出すわ、自己中心的だけど、悪い奴じゃ無かったぞ。僕は友達になりたいって思う」

 「……またマオの自滅的お節介が爆発してる……」

 信じられないという顔で武尊は僕を見ている。でも、この思いは同情とかじゃない。

「とにかく、アイツは本当にやめとけ! 図々しさはこの島随一って言われるくらいだし、なにかとキレやすいし、今まで色んなやつが近づいて行ったけど、全員仲違いしたし、金を無心されたとかもある。マオは特にお人好しが服着て歩いているようなもんだろ? ああいう寄生虫みたいな悪い奴にこれ以上寄り付かれたらマオが死んじまう」

「そこまでアイツのこと知らないのに、人間を虫扱いするのは良くないし、僕だって善悪の区別はつくし、金は貸したりしないよ。そこまで間抜けじゃない」

勢いよくまくし立てる武尊にムッとしつつも僕は反論した。でも、武尊がこんなに一人に固執するのも珍しい。

「三峯君がこんなに怒ってるのは初めてみます……。黄山くんと、何があったのです?」

出雲も心配そうに、眉間に皺を寄せて貧乏揺すりを続ける武尊を覗き込んだ。

「別にこれといったことは無いけど、俺の親友に変な虫が付くのが嫌なだけだ」

「はあ……。親友ってこんな感じなんですね。羨ましいです、私今まで親友とか居なかったので」

少し照れ臭そうに頬をかく出雲に、僕らは言葉を詰まらせた。顔を見合せて、慌ててフォローをする。

「もう親友が居るだろ?僕達が親友だ!」

「そうそう、出雲ちゃんには俺達が着いてるだろ?もうアニマの仲間だよ、そうだこの授業終わったら中庭の散歩をしようぜ」

それ、自分の気分転換だろ。という言葉を飲み込んだところで教授が部屋に入って来た。始業の合図が鳴り響く。まぁ、次の授業芸棟に移動になるしいいか、と気分を変えて授業の道具を出した。




「おい、アイツやっと来たぜ」

「大物扱いかよ、サボり魔のくせに」

グラウンドに無理やり引っ張り出されるや否や、準備運動をしていた凡下達が僻みを口にする。その横を何食わぬ顔で通り過ぎ隅で準備運動を始める。

その間にも止まぬ陰口、嫉妬、ひがみ、皮肉や嫌味たち。だが、これは幼い頃から付きまとうものだった。人間というのは自分より秀でたニンゲンを見ると自分を大きく見せるために強い言葉やネガティブな事を考えて感情を歪ませるのだと何処かの専門書に書いてあった気がする。

こんな感じだから、友達というのに期待をしなくなったし、どうせ自分は変えられないんだと諦めるようになった。人との出会いは一期一会。合わない人とは決定的に合わないから離れていく人を追うような真似はもうしない。期待するだけ時間が無駄になる、感情が無駄になるんだ。

「黄山、やっと来てくれたんだな」

「あ? ああ、あんたは……」

声を掛けられて振り返ると、同じ棒高跳びで同じくスポーツ推薦で入学したチームメイトが立っていた。確か1年留年したから年齢は上だが学年は一緒って言うやつで、確か春に全体LINEで委員長とかいうリーダーみたいなのに選ばれていたような?

だが、思い出すのも時間の無駄なように感じて、思考を放棄した。

「まぁ、誰でもいいか。アレから選手選抜はどうだ?俺が居なかったしレギュラーで活躍出来ただろ?」

他意はない。心の中で考えていたことがポンと口をついて出ただけ。でも、相手の顔色といい目付きが一瞬憤怒と怨嗟に歪んだ。

「そう、だな。お陰様で。アンタ、今までどこでフラフラしてたんだ?大会、もう来週だろ?今回は補欠出でるのか」

「と思うじゃん?コーチに確認したら、大トリやらされたわ。マジだりぃな、お前らみたいな真面目にやってるやつに全部譲って俺はサボりてぇよ」

「…………なぁ、お前さ、そうやって言われるこっちの気持ちとか考えたことあんのか?」

悔しさを滲ませ、震える声は絞り出すように俺を責め立てた。

ため息しか出ない。何にもしたくない。誰とも会話したくない。毎度毎度鬱陶しいな。

「考えた所で何になるんだよ。これが俺様だ、文句があるなら俺から一本かっさらってみろよ、三下がよ」

歯ぎしりと拳に爪が食い込む鈍い音が、何度目だろう、聞こえて来た。怖くてあいつの顔は見れなかった。でも、本心だし、これ以上踏み込まれたくない。だから、わざとあいつらが一番腹の立つ言葉を選んだ。

「あっそ」

あっさりしたものだった。踵を返したアイツは仲間に英雄のように迎えられる。ほらな、やっぱりな、アイツはダメだ、協調性が、だから嫌われるんだ、もういいよ、構わなくていいよ、と口々にこちらを卑下してくる。自分達でその種をまきに行ったくせに、結局悪者はこっちらしい。

なら、興味半分で首を突っ込むな。お前の点数稼ぎに俺を使ってんなよ。だから、三下なんだ。

「おい、黄山。また仲間と揉めたか」

教授が後ろから声をかける。舌打ちをして準備運動を続ける。

「何度も言うようだが、陸上もチームだ。仲間との結束が勝利を掴むんだ」

「そんな眉唾もん押し付ける前にアイツらに準備運動は念入りにやれって伝えろよ。それに俺をだしにして結束してるような薄いヤツらに仲間なんて思われたくない」

「はっ、蟹沢達もお前みたいなサボるだけサボる、協調性も社交性もない奴に仲間だと思われたくないだろうよ」

教師はそう言ってホイッスルを思いっきり吹いた。集合の合図にもほとほとうんざりする。脱走常習の俺は教授の真横で話を聞かなきゃいけないので、全員のさらし者のような扱いだ。つまんね。そうだ、変顔してよ。

「……っ、ふっ、んぐっ」

良し、先頭一人陥落! 次は……と後列に目を移すと蟹沢がこちらをきつく睨んでいるのを見た。そしたら思わぬ所で別のやつが吹き出した。

「何がおかしい? ああ……」

ゴチンと2回目のゲンコツが脳天を撃ち落とした。するとさざ波のような嫌な笑い声があちこちから聞こえてくる。まぁ、みんな笑ったならいいかと思いながら空を仰ぐ。

突き抜けるような快晴。鳥がそれを切るように飛んで行った。あんな風に俺もここから飛び立ちたい。

「じゃ、二手に分かれてタイムを測れ!」

『はい!』

軍隊かよ、と軽蔑した目で一瞥する。誰もこちらには来ない。当然だ、誰もこんな目の上のたんこぶに触れようなんて思わないだろう。教授は器具を取りに用具室に向かう。俺はその隙にそっとグラウンドの外れにあるひとつ低くなってるフェンスの方に向かう。走り高跳びなら約160cm前後の高さ。これなら余裕で飛び越せる。

幸い俺はいないモノ扱いで、こちらに気付く人間は一人もいない。そして、全員がウォームアップとおしゃべりでこちらに目も向けない。教授が戻る前に助走を付けて、フェンスに触れず飛び越した。音に気をつけながら、膝のクッションを使って着地し、誰かに見られる前に走って校舎とは逆方向に走る。

ロッカーの外に隠してたスケートボードとスマホを植木から回収して、校舎の外に続く細道を走る。

「へっへっへ!ちょろ過ぎだろ、全員」

そう呟いた時、勢いよく誰かに当たった。相手は派手に地面にぶっ倒れた。

「おお、悪い。頭打ったか?病院になら連れて行けるぜ?」

「あー? なら、慰謝料置いてどっか行けよぉ。見ろよ、俺の視界がぐるぐるしてるし、こりゃ頭から出血してんだろぉよ。金寄越せ金ぇ……」

パーマとは違うような、ジャングルのツタみたいな長い黒髪を石畳に広げて、目つきの悪い男は無気力に呟いた。

薄汚れたヨレヨレのタンクトップとパーカーに細長い手足。不健康そうな青白い肌には血どころか血色もなかった。そんな彼の差し出した手を握って思いっきり引っ張り上げる。

そしたら、棺桶の呪いから解き放たれた吸血鬼みたいな感じでのっそり起き上がって舌打ちした。

「引っ張れじゃねぇーよぉ……、金だってんだろうがァ、2万倍だ、5万円よこせィ」

「何でだよ。つか、お前ここの学生か?」

蛇か鎌首をもたげる様な姿勢で上から見下ろされると体が自然と竦む。男はゆっくりした動きで首を捻った。

「んなことどうでもいいだろうがよぉ。いいから金寄越せってェ、なんならそのボードでもいいぜぇ。ばらしゃ金になる……」

ニヤリと不気味な笑みで笑うと指で金のハンドサインをした。そんな奴からボードを隠し、辺りに居る警備員の数を確認する。訝し気にこちらを見ている。

「おいおい……そっちがぶつかって来たんだろがぁ……。何逃げよぉとしてんだぁ~? それとも、お兄さんのおとーさん、おかーさん呼んでみぃんなとお話ししようかねぇ?」

 巻き付くような動きと口調に、後ずさってもまたその男に当たってしまう。まるで獲物を追い詰める蛇だ。もう、こうなれば最終手段を使うしかない。

「やめてくださいって言ってるじゃないですか! 警察呼びますよ!」

警備員がその声を聴いてやっとこさ動いた。この職務怠慢公務員が、と毒づきたいのをぐっとこらえて、被害者ぶって身を捩る。

「でけぇ声出すなよぉ~……。あああ……二日酔いに響くぅ……」

声でワンダメージ。長身の男が目を瞑って頭を抑えた瞬間に、全力でその脇を走り抜け、校門を突破した。遠くから警備員の声がしたが無視して、ボードを走らせその上に飛び乗る。駅まで続くこの参道の一本道は、傾斜の急な坂になっている一旦走り出せば車でも追いつくのは至難の業だ。

「こら坊主! この道はスケートボードはきん……ごらぁあ!」

「ちょっと危ないやんかぁ!」

 昼下がりのジジババを避けながら駅まで一気に下り降りる。途中色んな奴に怒鳴り散らされたが、風と共に去っていくから気にならなかった。坂が一度平坦になる所で思いっきり踏み込んで、また坂の始まりの所で高く飛び上がった。体がふわりと宙に浮く。真下で平凡な奴らがこちらを見て目と口を丸くする。

この瞬間だけが一番自由で、アガるんだ。

「ひゃっほーーーーーーーい!」

湧き上がる爽快感のあまり、声が漏れた。ぐんっ、と重力がそう簡単に逃がしてくれるわけはなく、ガチャンッという音を立ててボード共に着地した。パトカーの音を振り切って、駅の横道を曲がり切り、狭い路地の手すりに飛び乗ってそのまま下段まで滑り切る。そして辺りが静かになった所でボードを止めた。

「うっわ、懐かし」

幼稚園の時、店が終わるまで時間を潰していた中町公園、通称「バナナ公園」だ。象徴的な黄色のバナナのオブジェはペンキが剥げて殆ど腐っているように見える。砂場には放置された玩具。ブランコには何かの葉っぱがこんもり盛られていた。

誰もいない、住宅地の中にひっそりあるその公園に足を踏み入れると、突然あの時の物寂しさが襲ってきた。変わったものと言えば、学年と背丈位だ。あの時、バナナの陰で誰にも見つからないように、悔しさと苛立ちと寂しさで泣いていた自分がまだ幻となってそこにしゃがみ込んでいる。

 「あれ?」

背後から声が掛けられた。振り返ると、真雄人と武尊と一緒に居たツインテールの大人しそうなメガネっ子だった。でも、今はメガネは掛けておらず、服も教室とは違うジャージ姿だった。

「あれぇ? 奇遇じゃん? 何々やっぱり俺とお茶したかった系?」

「ちっ、違います。そんな、初対面の男の人と二人っきりに何てなる訳ないじゃないですか」

この子、案外意見ははっきり言う子なのね……。初対面のギャップに驚きつつ、俺はまじまじと彼女を観察した。

「な、なんです……?」

「君、意外と運動部なんだねぇ。しかも、チア部? 意外だなぁ」

「ふぇっ!? な、何でそれを!? まだ初公式大会もま、まだなのにっ!?」

カバンの口から見えたポンポンの端とチア部の特注ジャージを着てたらそんなのすぐに分かるのに、彼女は面白いほど狼狽える。なんだろう、すっごい弄り倒したいなぁ。

「いやぁ? 君の隠し撮り動画がSNSで拡散しててさぁ……可愛いなぁって思ってたから、練習場までストーカーしてたんだよねぇ、俺」

「ひぃ! す、ストーカーさんだったんです……? け、警察……」

携帯を取り出したところで、「うっそぴょーん」と言ったが、彼女の指は止まらない。

「あ、あのっ? じょ、冗談だって……」

「は、はい、今、ストーカーさんとバナナ公園の前で出くわしまして」

「だから冗談! 嘘だって! 君の名前も知らないって! ねえ、聞いて、お願い!」

「う、嘘だって、嘘つくんです……」

瞳を潤ませて警察と話す彼女の携帯を奪って、間違い電話ですといって慌てて切電した。そして、事細かになぜチア部なのかなどなどを、話して聞かせたらようやく納得して落ち着いてくれた。

今日は何と言うか、癖の強い奴としょっちゅう会うなぁ。厄日かな。

「んで? 何で君こんな所してんの、もしかして」

「はい、実はチアの自主練をこの公園でやるのが日課で……。あの、三峯くんから聞いたんですが、あなた棒高跳びで全国優勝を二連覇した、あの黄山禅さんですよね!?」

棒高跳び、優勝。たまたま友達と一緒に体験入部して、たまたま部内新記録が出て、そんなまぐれ続きなのに、人は天才だ、才能だ、期待の星だと持ち上げてやりたい事も、興味があった事も、やっと出来た友達との時間もなくなった。

「あんなん、ただのまぐれが奇跡的に続いただけだっつの。そんな綺麗な目で見る様なもんじゃねぇの」

「え……」

突き放すように言って、公園を後にしようとした。と思ったら、首を後ろから引っ張られる。振り返ると、メガネちゃんが俺のフードを両手でしっかり掴んでぐっと踏ん張っていた。

「な、なになに? やっぱりお茶に……」

「わっ、私の演技、見ていって、ください! もう直ぐ本番も近いので、人に見られる緊張感の中でやりたいんです! そ、その後ならお茶にい、いい……行きますっ、からっ!」

「まぁじでぇ~? なら、喜んで!」

正直調子に乗った。だって、女の子とスケボー以外で声を掛けられるのは何年振りか分からないからだ。ふと、バナナのオブジェから「弱虫」という言葉が聞こえた気がして足が止まる。

お生憎様、俺はもう強くなるのも、努力するのもやめたんだ。

ちゃらんぽらんな、ドラ息子。もう二度と誰にも期待も、信頼もされたくないんだ。されたく、ない、から……。

「黄山君?」

声を掛けられ、顔を上げる。桜の絨毯を踏みしめて、長いツインテールが彼女に合わせて綺麗な円を描く。眼鏡を外した彼女は満面の笑みを向けてきた。幻想的な光景にハッと胸を突かれる。

「遠慮しないで、楽しんでいってくださいね」

そう言った後、空気や雰囲気ががらりと変わった。曲が始まった瞬間、ひっくり返るほどのエネルギーとパワフルさが弾ける。あの縮こまって、震えて、泣きそうになっていた彼女が、夢だったのかと思うほど楽しいと誰かを元気にしたい、応援したい気持ちが溢れている。

バク宙、バク転、何回も錐もみ回転しながらの大ジャンプ、ステップに掛け声、一人でもこんなに明るいのだから、こんな人たちが本番だと何十人と集まるとすると、彼女たちのパワーで国が一つ滅ぼせるんじゃないかと思ってしまう。

この元気があの時も、自分に向いていたのかと思うとほとほと嫌になる。何で、俺なんだろう。何であの場に俺が選ばれてしまったのだろう。期待に何て応えられないのに。どうして……。

「Let‘shear you yell!!」

俯いた瞬間、私をちゃんと見ろと言われた気がした。まるで、脅迫に近いような気配。顔を上げた瞬間、太陽の光さえも霞む様な笑顔で綺麗な開脚をして飛ぶ彼女がいた。翻るスカート、動きすぎてズボンの縁から飛び出したシャツの隙間から白い肌が一瞬見えた。

思わず、口元が緩んだ。なんか、あれこれ考えて落ち込むなんて、確かに俺らしくなかったかも。

「やっと、ちゃんと笑ってくれましたね」

気が付けば、曲は止まっていて、汗だくになったメガネちゃんが嬉しそうに駆け寄ってきた。ちゃんとっていうのが引っ掛かるが、答えを聞くのが怖くなって聞こえなかった振りをした。

「いやぁ凄いねぇ! あんなチアの演技なんて真ん前で見る事なんて出来ないからさ、いやぁ圧倒されたよ。元気が出たぜ、有難うな!」

「良かった、何か初めて見た時からなんか暗い顔をしてて、元気になって欲しくていつもより頑張っちゃいました。えへへ……」

恥ずかしそうに頬を赤らめてシャツやスカートを直す。丸くてつるりとしたおでこから、汗が宝石のように輝いて滴る。

「ねえ、名前、なんてーの?」

「ふぇっ!? 私!? わたっ、私はえっと、住吉出雲です。出雲は、出雲大社の出雲と同じ漢字です」

「ねぇ、出雲ちゃん。出雲ちゃんはさ、チア、やっててしんどくなったことある?」

あの眩しい笑顔に聞きたくなったというより、縋りたくなった。あの笑顔にも裏があると、知れば心が軽くなれる気がした。

「しんどく? ……そうですね」

出雲は前髪を直しながら、考え込む。暫く熟考して、彼女はしっかりと確かめるように頷いた。

「沢山あります。今も、正直しんどいと言えばしんどいです。体育館でやると、鮫島さん達に嫌がらせされるし、授業の時は今戸君達がいる時は良いけど、二人とも学科も学部も違うので、結局離れちゃうし。私なんかが、チアっていうキラキラしたものをやってていいのかなって思います」

隣のベンチで汗を拭きながら、彼女は噛みしめる様に言った。確かに、チア部なら専用の体育館や練習スペースもあったはずだ。鞄も使い古してるとは違う痛み方をしているし、あの怯えた顔を見る限り、俺よりも酷いことをされてきたのかもしれない。

「何か、ごめんな。変な事聞いて」

「いいえ、それに今思ったんです。私、確かに辛いし、大変な事もあるけどさっきみたいに人が私の笑顔やダンスや声で、元気になる姿を見ると最高に楽しいんです。やっぱり」

曇りなき眼で、真っすぐと宣言する姿はやはり眩しい。息を忘れ、見惚れているとキョトンとした顔で名前を呼ばれた。

「そうか……。いいねぇ、ま、俺はそんなんないけど! 正直なにもかもめんどくさいよ。仲間とか、チームとか、俺はただ自由な形で空を飛んで行きたいだけだ」

「だから、棒高跳びなんです?」

「いや、俺の本業はこっちにしたいんだ」

そう言って、横に立て掛けていたボードをつかもうとした時、その隣から誰かの視線を感じて顔を向けた。

金髪のモデルのような男がしゃがんでこちらを見上げていた。

「うぉおおお!?」

「ひゃあ!? み、三宅先輩!?」

二人で驚いてその場から立ち上がる。金髪の男はニコニコと微笑みながら手を振っている。

「こんにちはー。いやぁ、素敵な音楽と踊りが見えたからついつい……。帰り道が分からなくなってしまってねぇ、やっくんの迎えを今待ってるんだ」

「な、何をしてるんですか、三宅先輩……」

「えへへ、面目無い」

男は恥ずかしそうに頭をかいた。立ち上がると首が痛くなるくらい背が高い。股下だけで俺の胸くらいありそうだ。

出雲は呆れたような苦笑でスマホで誰かに連絡をしている。

「なんなん、あんた。出雲の友達か」

「うーん、惜しいよ。私は彼女の部活の先輩さ。そして、君もその部活に勧誘したくてね、こうして話を聞いてたんだよ」

「一人で迷子になってる奴の部活?はっ、ごめんだね。俺は今でも遊ぶのに忙しいんだよ。これ以上厄介なことは勘弁して欲しいね!」

何だか嫌な予感がしてその場から退散する準備をしながら、突っぱねる。割ときつく断ったのに金髪の男は笑顔を絶やさない。

「そっかー。残念。でも、これは君のものだから、持って行ってくれるかな」

といい、差し出されたのは小さな黄色い石だった。絵の具で着色したような色合いだが、持ってみると確かに石が元々そういう色なんだというのが分かる。ヒヤリとしていて少し重い。これは一体なんだ?

「悪徳商法か?」

「ほほほ、まさか。私は君の忘れ物を届けただけさ」

なんだ、この胡散臭い感じ。今の悪徳商法ってこんな感じなのか?

「俺、こんなの知らねぇぞ。まぁ、貰えるんなら貰っていくけどさ、後から金を要求されても絶対払わねぇからな!」

「ほほほほ。これはお金には変えられないものだ。普通の人には価値が付けられない。でも、君を確実に守ってくれる御守りだ」

顔が近付いてくると花のような香りが強く香った。丸メガネの奥で青い瞳がスっと細められると、ぞくりと背筋に冷気が走った。美しさもここまで行くと恐怖だと、生まれて初めて思う。

渋々、ハーフパンツのポケットに石を入れた。換金しても大した金にならなさそうなのはあの歪な形が物語る。それにあんなチープな色の石は初めて見たし、この男が言うだけあって普通の鑑定士じゃ分からないだろう。

ネットで出て来るかも怪しい。

「おい、勇翔!」

公園の入口から男の声が響いて、2人同時にその方向へ首を捻った。出雲の隣にカラスが人化したかと思うくらい、漆黒の衣服でまとめたこれまた背の高い男がこちらに手を振っていた。これまた胡散臭い糸目にじゃらじゃら付けたシルバーやゴールドのアクセサリーも、どこか堅気じゃない雰囲気だ。

その一方で、金髪も笑顔で手を振り返す。よく見たら、この男は白で統一されたシンプルな服装だった。洗いざらしの何処にでもあるような真っ白な襟付きシャツと麻のパンツ。時計もないラフの中のラフという服装なのに、イケメンが着るとこんな決まるとか可笑しいだろ。

僻みに歯ぎしりする間に、黒い男もこちらに向かって来る。と思ったら、背中から白い何かを引き抜いてそれで思いっきり金髪の頭を引っ張叩いた。公園に響き渡る破裂音、空気の震えが直に肌に伝わってきて、俺も出雲も身を竦めて動けなくなった。

「おまっえなぁ、どんだけ迷子やら道草やらすりゃぁ気ぃ済むねんほんまぁあ!! こちとら、ただ学校に行きたいだけやねんぞ、何で毎度お前の捜索に時間潰されなあかんねん!お前来年は社会人になるんやぞ、その自覚あんのか、おおっ!?」

「ほっほっほっほ~……そう言えば、そうだったねぇ」

「お~ま~え~なぁあああ!! そんな事も忘れとんのかい鳥頭!」

二発目の破裂音。流石にこのままだと、誰かが来るかもしれない。俺は馬鹿を装って、間に入った。

「まぁまぁ、お互いこうやってまた会えたからいいじゃないっすか、そんな怒らんでもええでしょ。このえーっとこの金髪の兄ちゃんも反省してるしさ、ここは俺も案内して学校まで連れて行きますから、ね?」

って、何言ってんだ、俺。学校に連れて行くだって? でも、そう言った時の金髪の男の花が咲き誇るような笑顔には、「嘘です」なんて言えなかった。口をもにょもにょさせながら、もうどうにでもなれと嫌な気持ちを何とか誤魔化す。

「す、すみません。先輩たちをお願いします。私はこの後、トランポリンの練習があるので」

「はっ!? ええ、お茶は……?」

「え、えっと、それはまた後日、日程を話し合いましょう……?」

出雲は困った様な笑顔でそう言うと逃げるように言ってしまった。ぽつんと残されてしまった俺と、全く面識のない高身長モデル二人。何この状況。誰か助けて。

「ほほぉん、自分あの貝みたいなズモちゃんとデートをこじつけたん? やりよるなぁ?こんな、小さい子猿君が、ねぇ?」

「何なんだよ、カラス漢! っていうか、学校に行くんだろ! とっとと行くぞ、つか何で俺が無報酬でこんな変な奴らの面倒なんか見ないといけないんだ。ってぇ、何処行くんだおいそこの白いの! 蝶を追いかけて迷子とか大学生がやっていい醜態の度を越してんだろうが!」

金髪を捕まえて、スケボーに乗りながら学校へと引き返す。

「はーあ、まじだりぃ」

「まぁ、気持ち分かるで?何でワシらが幼稚園児の送迎みたいなのせなあかんねんってな」

「そう思うなら車とかで送ればいいだろ」

「私、車苦手なんだぁ、目立つし」

「目立つ面してる癖に何言うとんねん」

心の中の言葉も不意をついて出て来る。だが、この2人は気にしないようでカラカラと笑い飛ばした。

「自分、結構オモロいなぁ!ワシ、四年の矢田那智ゆうねん。よろしゅうな」

「私は三宅勇翔。よろしくね、黄山くん」

「なっ、何で俺の名前!?」

驚いて2人を見ると、キョトンとした顔で首を捻った。

「だって、自分わしらの中学じゃ有名人やんな? 」

「私達の卒業間近に物凄い噂になってたよねぇ。西中の黄色い嵐、暴れ猿、暴君エテ公ってさ。小中でもそれぞれ暴行事件を起こすし、親はモンペで教育委員会のブラックリスト入りの、親子共々この島随一の問題家族」

「……そーだよ。お前らはそんな奴を連れて歩いて嫌なんじゃねぇの?」

このあだ名が着いてから、誰も俺に近づかなくなって、俺の家族は地域からも孤立した。母さんも俺に似て切れやすく、直ぐにヒスを起こすから先生も腫れ物扱いだったのだ。

だが、この2人は笑顔で首を振った。

「別に? それにワシらの頼れる後輩が友達にしたいってわざわざ選んだからな」

「そう、炎猫に見定められた以上、私達も他人のフリは出来ないからね」

「えんびょー?」

やっぱりカモに見られてるのか?

その訝しげにひそめられた視線を完全に無視して矢田と呼ばれた黒衣の男は扇子を取り出し扇ぎながら、話の矛先をまた俺に戻す。

「っていうか、自分ワシの店の前で勝手に乱交パーティーを開いてる不良の一派やない?」

「お前の店?知らねぇよ」

嘘は言わない。俺のスケートボードを練習する場所はショッピングモールの中庭で、コイツの店などの個人店が並ぶ場所では全く遊ばないし、たまらないように気を付けている。本当はスケートボード専用の練習場があれば一番いいが、そんな贅沢も言ってられないし、一端の学生に、瀬戸内海をわざわざ渡って本土に通う金もないのが事実だ。

だが、矢田は嘘やーと頭を閉じた扇子で叩く。

「嘘やあらへんもん!お前の店なんか知らんわ! それに店前でたむろするのも禁止にしてるし」

「この島にいる限り知らないなんてこと、それこそありえまへんわ。神塚ショッピングモールを知らんのなら、もしかして家は広島の内陸の方か?」

「は?神塚?お前が?」

耳を疑って聞き返す。こんな、若いのが、店ショッピングモールを? またまた、それこそ妄想癖も痛々しい、とんでもない法螺だろう。

「せやでー、矢田修造はワシの親父や。んで、ワシ自身もあの店の中で自分のブランド運営しとるんやで。ミツアシカラスっていうの、知らん?まぁ、駆け出しやしこれは知らんでも不思議やあらへんな」

矢田修造とはこの島では知らない者はいない、本土でもいくつものショッピングモールやショッピングセンターを運営し、その裏で学校や非営利団体に多額の寄付をしている超超超やり手の大企業ヤタホールディングスの現CEOだ。そのブランドと色濃く提携してるのは、ミツアシカラスと呼ばれるモノトーンが特徴の若者向けファッションブランドだ。学校内でもその服を着ている生徒は多く、この島に住んでるなら1度は店を見るはずだ。

「その顔、やっぱり心当たりあんねんな?まぁ、全体の運営には関わってへんねんけど、とりあえず身内の店やねん。あんまり悪さはせんといてや」

「ほえ」

理解が追いつかない中での忠告で思わず間抜けな声が出た。それを見て、矢田先輩はかんらかんらと笑い、その横で金髪の男は優雅に微笑んだ。ってちょっと待て? 矢田とよく一緒にいるこいつって、もしや一番この島で逆らっちゃいけないっていう……。

「おお? 初めてやなー、勇翔を見てこの表情するアニマは」

こちらの表情に気付いた矢田先輩がにんまりと笑う。俺は絞り出す様に尋ねた。

「も、もしかして、矢田さんの隣にいるのって、この島の……」

「せやで? 大地主にしてワシの会社の理事長の三宅財閥の御曹司様や」

「やだなぁ、ただのドラ息子だよ、私なんて」

笑顔で謙遜する彼を矢田先輩は長い指輪付きの指でデコピンした。

「なら、息子らしくもう少し威厳というか、もちょっとしっかりしとってくれてもええんちゃうか?ワシはお前のお目付け役とちゃうんやで?」

矢田先輩はため息と一緒にそうボヤく。それを全く聞かずに三宅先輩は蝶を追いかけて道路に出そうになるのを、俺は慌てて止めた。

「せやからな、これから色々訳分からんことが増えるやろけど、一緒に頑張ろな?」

そう言われ顔を上げると気が付けば校舎の前に来ていた。陰鬱そうな俺を頭を撫で回し、彼らは校舎の中に入っていく。

「ちっ」

早く彼らに見つかる前に面を狩らないと……と思った瞬間、首根っこを誰かにしっかり掴まれた。

振り返ると、うちのクラス委員長と、真雄人と一緒にいた背の高い男が笑顔で俺を見下ろしていた。

「捕まえたぜエテ公!観念しな!」

「はあ? なんやねんお前。離せやこのデカブツ!」

「おい!黄山!」

確か名前はタケルとか言ってたか。高校の野球部のエースだが、夏の甲子園前に疲労骨折だかなんだかで肩を壊して欠場した負け犬。そんな奴がなんでこんな所にと思ったが、そう言えばコイツは色んなところに媚び売って群れるのが好きな野郎だったことを思い出す。

そうしてる間に、俺は委員長に腕を掴まれていた。溜息をつくと思い切り頭をゲンコツで殴られる。

「お前なぁ、天才だかなんだか知らないが、他の奴らのやる気や練習を阻害するのはやめろといつも言ってるだろ!大会も近いって言うのに、お前みたいなボンクラを探すこちらの事も考えろ!」

「はっ、凡才が八つ当たりすんなや。ボンクラ言うんなら探さなきゃいいだろ? どうせ、タイムが上がらないのを俺のせいにして内申点で俺を引きずり下ろしたいだけやろ。お前みたいな卑怯なやついっちゃん嫌いやねん。反吐が出るわ」

べっと舌を出して腕を振りほどく。ぐうの音も出ないだろう。

それを見兼ねた武尊が突然、俺を持ち上げた。

「おい、友達に向かってそれは無いだろう!」

「はははっ、負け犬がなんか言うとるわ!俺お前みたいな奴も嫌いやねん。ひとりじゃなんにも出来んし、媚びへつらってほんまだっさいちゅうねん。せやから、野球でも……」

「なんだと!」

馬鹿は煽りに弱い。簡単に載せられて拳を振り上げる。結局腹の中ではみんな同じなのだ。

「タケル!待て!」

その時間に割って入ったのは、何処から現れたのか、真雄人だった。両手を広げあの日の夜みたいに俺の前に立ち塞がる。

「たしかに、古傷を抉られて腹が立つのは分かるけど、暴力は何も解決しない!禅も、嫌いだのなんだのは別に今面と向かって言うべきじゃないだろ!兎に角、この委員長さんにしたがって練習に戻るんだ」

「何やねん、偉そうに」

正論でボコるタイプもいけ好かない。だが、真雄人は逸らした視線の元を、真っ直ぐこちらを見て言った。

「禅、僕は次の大会、応援しに行くつもりだ。だから、友達である僕に君の凄さをもっと見せつけて欲しいんだ。君は天才なんだろ? こんなところでガッカリなんてしたくない」

「……応援?」

初めて聞く単語に俺は顔を上げた。

そういえば、俺の親は店が忙しくて1度も大会には顔を出したことがなかった。友達も居ないから応援席には知らない誰かのミーハーな声援しか聞いた事がない。

「応援、なんて、そんなガキやあらへんのやぞ。舐めてんのか」

「舐めてない。僕は本気だ。友達としてお前の勇姿を目に焼きつける! そして、お前を漫画の題材にする!」

ずっこけた。

何だ、漫画のネタ作りかよ。

「ふ、はははっ! なはははは!! なんやねんそれ。お前ほんまおもろいわ。しゃーない、こんな笑わせられたら戻るしかないわ。気分がいいから練習してやんよ」

「うん、ありがとう。頑張ってな!」

笑いが堪えきれなくなって、俺はすっかり練習に行きたい気分になってることに気付いた。驚く外野を放っておいて、委員長を置き去りに練習場に向かう。

「マオ……、お前本当に凄いな!」

「え?何が?」

後ろで犬っころが興奮してしっぽを振ってるが、当人はキョトンと首を傾げるだけだった。

「二人ともありがとう。大会、楽しみに待ってるよ」

「うん、蟹沢くんも頑張って。それじゃ僕らは部活あるから」

「ああ、んじゃ、またよろしく」

あいつら、部活とかしてるんだ。

そう思い、ふとポケットに手を突っ込むと何か硬い感触を感じて、それを掴んだ。石のように固く冷たいそれを取り出すと、あの矢田先輩が手渡そうとしていた黄色い変な石が入っていた。

驚く俺を他所に、委員長が怖い顔で「ほら、とっとと行くぞ」と促す。

「お前、そう言えばなんで戻って来たんだ。いつも、校内じゃまず見つからないのに」

蟹沢は不服そうにそう尋ねてきた。俺はぶっきらぼうに、

「別に。ただ気が向いただけ」

と答えた。奴の背中が苛立ちで強ばるのがよく分かる。拳も何を堪えてるのか、固く握り締められている。

「お前、悠長にしてられるのも今のうちだからな。今にでもそのエースの座をこの俺が取り戻してやる」

「取り戻す? はっはっは、笑わすなや。お前入学する前から二番手だった癖に。奪うの間違いだろ」

「違うね。たまたまのまぐれだ。俺の方がちゃんと努力して、スポーツマンシップに基づいたプレイを続けてる。気に入らなければ喚いてキレ散らかして、暴れる猿頭のお前と違ってな!俺こそ正当な陸上学部の首席なんだよ、お前なんかたまたま派手なパフォーマンスが出来たから……」

出たでた。僻みと嫉妬と憎悪を剥き出しにして気持ちよくなる独演会。寒いんだって、そうやって只管俺のせいにしてる様じゃ一生引きずり下ろすなんて無理だろ。

俺は飽きれて溜息をつき、その肩を宥めるように軽く叩いた。

「はいはい、お好きにどうぞ。俺も好きにやらせてもらうし」

パーカーを脱ぎ捨て、靴をその辺に転がっていた誰かのグランドシューズに履き替える。

「けどお前、そんな気持ちじゃ永遠に空は飛べないけどな」

悔しげに後ろで歯軋りする蟹沢に俺は大事な事を付け加えた。

先生の説教を横に流して、高飛び用の棒を手に取る。

「おい、お前ら注目!腐ってもうちのエースだ。しっかり見て覚えるように」

先頭に立つと、先生は全員の視線を集めて俺に注ぐように促す。

緊張で手が汗ばむが、最高に気分は上がってる。これなら飛べる。笑いながら構え直して軽いステップで走り出す。

リズムは崩さないで、タイミングはリズムの上に載せるように。手に体重は掛けすぎない。背筋と助走の勢いで、上に身体を引っ張り上げるのだ。

しなる棒の頂上で遥か下の群衆を見下ろす。その時、視界の端で変な動きをする蟹沢が見えた。

俯いて何かのシールを首に貼ってるような動きだ。まだ蚊は出てきていないはず。それにお守りのシールごときで気分が上がる年齢でもない。

『良い勘してるな、お前』

何処か遠くで雷鳴が轟く。声が自分のではないと気付く寸前で、重力に引っ張られ、衝撃を吸収するクッションの上に仰向けで落ちた。

俺は急いで身体を起こして周囲を見渡す。根拠の無い超自然的感覚ではあるが、このままだと空が荒らされる。変な奴らに学校諸共めちゃくちゃにされる。

それよりも、何だ誰が俺の耳元で囁いたんだ?

ザワザワ揺れる拍手の音の中からはその声の主は見つけられなかった。先生に促されて立ち上がり解説に適当に相槌を打つ間もその声が離れなかった。

老いた老人のようで、昂る猿のような人間とは思えない声だった。

「……という訳だ。では!これを手本にするのは癪だろうが、飛び方の体勢だけ手本にして、練習戻れ!」

頭を叩かれてやっと我に返る。クスクスと笑う同級生共が散り散りになる中、あの蟹沢だけが異様な雰囲気でこちらを睨んでいた。

「黄山。お前、大会はどうするつもりだ?」

隣の先生に尋ねられ、俺は肩を竦めた。

「そりゃこっちのセリフっすよ。他校にいい顔したいなら出せばいいし、こんな不真面目な問題児を隠したいなら選出しなきゃいい」

「あのなぁ……俺はそういつ狡い真似事はしないんだ。純粋な成績と生徒の希望に合わせて選ばせてもらう」

ため息をつかれるが、その本心は分からない。と、その時棒高跳びの練習スペースから「嘘だろ!?」という誰かの声がした。

つられてそちらを見やると、蟹沢が俺が飛んだ高さよりも高いものに向かって棒を突き立てたところだった。

俺は直ぐに興味をなくして直ぐに視線を外した。

「飛んだ!?」

その声に耳を疑う。見ると蟹沢がバーを飛び越えた先に着地している所だった。バーは落ちてない。微動だにしてない。

は?

俺が?

凡才に?

負けた、だと?

わっと上がる歓声と拍手。俺の時とは段違いだ。まぁ、そうだろう。真面目なやつが真面目に成果を残した。ただ才能があったやつが成功したのとは温度差が違う。それにああいう奴には応援してる輩が必ずいる。

だから、ほら。胴上げなんかされちゃって。先生も彼を皮肉なしに褒め称えている。

「なんで、いつの間に?」

でも、その上達具合はどこか違和感があった。朝の練習では俺の遥か下の高さでも飛べなかったくせに?

まさか、あのシールみたいなやつの効果?それとも、突然才能が開花したのか?

「黄山!」

群衆の中から蟹沢が笑顔で現れる。爽やかな笑顔を見ると腹の中が煮えくり返るような思いが溢れる。

「お前のお陰で飛べたよ。お前も練習すればもっと飛べるんじゃないのか?」

何だ、それで勝ったつもりなのか? 馬鹿にしてるな、完全に。

俺は差し出された手を叩き払い。指をやつの鼻先に突きつけた。

「いい気になってんなよ、蟹沢。次の大会で絶対お前を負かしてやる。だから、勝負しろ。負けたら退学だ!いいな?」

そう言い放つと周りの取り巻きたちがクスクスと笑う。そりゃそうだ、この様子は負け猿が負け惜しみに喚いてる風にしか見えないだろう。

「おいおい、そんな大きく出て大丈夫なのか?俺は良いけどさ、負けて吠え面かくのはお前だぞ?サボり魔」

「うるせぇインチキ野郎。俺がただの才能マンだと思って図に乗ってると泣かすぞ」

「はは、怖いなぁ。新しいボスに大人しく下っておけばいいものを」

「あんだとてめぇ!」

怒りがピークに達して殴りかかろうとしてしまう。そこを先生とマネージャーに止められた。

「おい、勝手に退学だ何だなんて決めるな!黄山、悔しいのは分かるがそうやって直ぐにキレて癇癪起こすのは問題だと何回言えば分かるんだ!残念だが、これはインチキじゃなくて正当な努力の賜物だ。蟹沢はお前と違って正しく努力を続けて来たんだ。分かるか?お前は才能さえ右に出るものは居ないがそれだけだ。応援してくれる仲間も居なければ教師の信頼も蔑ろにする。努力も怠け、周りのライバル達を見下して惰眠を貪り続ける裸の王様だ。この悔しさを忘れるなよ。蟹沢に少しでも勝ちたいなら練習をサボるな」

そうだな。そう言われて貶されるのも慣れっ子だ。慣れっ子だから、悔しいだけで終わらせるわけねぇだろうが。

「なら、俺はお前を超える努力をするだけだ。才能だけだなんて二度と言えなくしてやるからな!」

そう言って棒をひったくり、練習場に向かう。後ろで取り巻き達が陰口を言うが聞こえない。聞かない。自分にだけ集中しろ。


そうやって飛び続けて、気が付けばあたりは暗くなっていた。












「マオ、あいつの練習見に行くって本気か?」

聖徒会室から出ようとした時、タケルに呼び止められた。あいつ? と首を傾げた時、ふとあのふてぶてしい金髪頭を思い出した。

「うん。本気だ。昨日、アメコミ映画を一気見した仲だからな。友達の勇姿はちゃんと焼き付けないと」

そして次の漫画の題材にして、次こそジャンプ大賞に選ばれるのだと闘志を燃やす。だが、その思いとは裏腹にタケルは心配そうに太い眉を下げる。

「あいつを友達なんて……。あいつの素行の悪さは知ってるだろ?学校はサボるし、すぐ挑発するし、喧嘩っ早いし、短気で楽観的だし、空気を読んだり遠慮もないデリカシーも無いやつだぞ?マオが一番嫌いな奴だ」

そう言われて確かにと納得するが、僕の思いは変わらずだった。

「確かにそうだけど、それだけじゃないよ。あいつさ、不良友達を身を呈して守ろうとしてたんだ。周りの仲間は逃げて自分1人置き去りにしても絶対逃げなかった。そんな姿を純粋にかっこいいって僕は思ったんだ」

だから、彼の事をもっと知りたい。あんなにひねくれた態度も学校をサボる理由もきっと他にあるはずだから。

そう言うと、タケルは深いため息を向いてまだごにょごにょ言い訳を並べていた。

「タケルはなんであんなに禅が嫌いなの?今日が初対面だよな?」

「いや……実は前にショッピングモールで絡まれたんだ。そこで散々な目に合わされたんだよ。それに、マオまであいつの周りの変な奴らに巻き込まれたらって思うと心配で……」

「正直鬱陶しいぞ。お前は僕の何なんだ」

タケルは矢張り僕に固執しすぎてる。何だってこんなに僕はこいつに懐かれてしまったのだろう。

「ん?オトくんは、ヅルくんと仲良しなん?」

部室の中から矢田先輩が声を掛ける。僕が頷こうとするのを武尊がそれを阻止しようとしたので、声でうなづいた。

「先輩も、禅と知り合いなんですか?」

「せやでー。今日ズモちゃんと一緒におるところにこのポンコツ鳩が保護されとってな、一緒に学校に連れて帰ったんよ」

「彼、口は悪いけどいい子だよねぇ。私が車道に飛び出しそうになるのを止めてくれたんだよー」

「先輩は何歳なんですか?」

5歳児でも少しは周りを見て動けるだろうに。まぁ、それは置いておいて。

「矢田先輩も一緒ってことは、もしかして、アニマストーンを?」

僕が尋ねるとピースサインで答える。武尊が物凄い顔をして肩を落とした。

「オトくんも、何となく感じとったんやないか?何せ君は導きの灯篭の神、炎猫の依り代だからね」

「はい……。やっぱりこれはアニマの力なんですかね?」

「ほんの一部や。本気出せば自分、もっと凄い炎の使い方が出来るんやで?」

矢田先輩はニヤリと笑うと僕らの背を押した。

「さ、もう遅いわ。おい、茶飲み鳩!お前も帰んぞ!今日こそは電車を時間通りのるんやからな!」

「えー……。もう一杯……」

「アカン!なんぼ程豆食らうねん!晩飯入らんなくなるやろがい!」

ハリセンで頭を引っぱたかれても三宅先輩はニコニコ笑ったままだ。僕も三宅先輩の鞄を片手に持って、聖徒会室を後にする。

日もすっかり落ちて行灯に似た街灯がポツポツとともり始めている。外に出た時、ドアの横にチアの練習終わりの出雲が待っていた。

「あれ?帰ってなかったの?」

「ふぇっ!? お、お邪魔でしたか……? す、すみません、直ぐに帰ります!」

思わず口に出た言葉が、繊細な出雲の心を砕いてしまったようだ。涙を浮かべて逃げ出そうとするのを全力で引き止めた。

「ごめん、本当にごめんって。邪魔なんて思ってないから」

「き、気を使わなくていいんです。わ、私みたいな暗くてウジウジした女、横にいたって空気が悪くなるだけですし……」

「そんな事ないよ。それに空気が重くなったら三峯君が面白い一発芸してくれるから」

思わぬ三宅先輩の一言に、武尊がギョッとした顔で先輩の顔を二度見した。だが、頼まれると断れない武尊は冷や汗をかきながらうなづいた。

「あはは……、ネタはそんなに無いけど、出雲ちゃんと、先輩の為なら……」

「タケル、断っていいんだぞ」

「先輩からのは断りづらい……」

 先日の一件から、多少は自我を持ち始めた武尊だが、まだ意志は弱い様で、頼まれごとや無茶ぶりには応えようとしてしまう。代わりに、僕が無茶ぶりを宥めると、こんな人もほとんどいない校舎の奥で何かが柔らかいものに落ちる音が校舎を反響して、聞こえて来た。

 出雲や武尊もその音に気付いたようで、足を止めた。

 「何の、音でしょうか? あっちから聞こえてきますが」

 出雲は中庭を突っ切った先にある、グラウンドを指さした。武尊は空気中を漂う臭いを探ろうと、鼻をひくつかせる。瞑っていた目を開いて、少し嫌そうに眉を潜めた。

 「おやおや~? 噂をすれば、かな?」

 「……っすね。マオ、禅だ。何か体育倉庫みたいな匂いもするし、多分居残り練習でもさせられてんじゃないか?」

 「でも、それにしては呼吸音が足りない気がします。一人分の呼吸の音しか聞こえてきませんけど?」

 出雲に否定されて、武尊は頭をかいた。あれこれ話し合っていた時、矢田先輩がパンッと手を叩き、グラウンドの方を指さす。

 「そんな気になるっちゅーなら、見に行ったらええやんか。ここであれこれ詮索するよりもっと早いで?」

 確かにと僕らは頷いた。その横で三宅先輩は何やら持っていた手提げの中をごそごそと探り出し、水筒と甘納豆の子袋を取り出して嬉しそうに微笑んだ。

 「なんだか、お茶会の予感が、するねぇ?」

 「……まぁ、仮入部の子が居るし、ちょっとのお茶はええやろ。なら、はよ見に行ってみようや」

 

 グラウンドにはH型の器具と、それを繰り返し飛び越える人物が一人。だが、その周りには教授も、コーチも、友達も居なかった。明かりも消えた真っ暗なグラウンドで、足元だけ、携帯の電気で照らしながら練習している。

 瞳孔が大きさを変えると、その闇の中で動く人物が浮かび上がってきた。あの、サボり魔の禅が一人で練習に打ち込んでいた。一人で何かブツブツ言いながら、練習を続けていた。

 「ゆ、禅―!」

 試しに声を大きめにかけてみるが、見向きもしない。凄い集中力だ。でも、足が震えている、汗の量が尋常じゃない。

 「あの、心臓の音、変です」

 「匂いも、可笑しい。あいつ、休憩も挟まないでずっと……?」

 武尊も出雲も心配に声を震わせる。どうしたんだろう、禅。何かに急かされるように体を、気力だけで動かしている。

 「あかんわ。勇翔」

 何回目かの跳躍の助走に、ふらふらになりながら着くのをみて、矢田先輩が懐から扇子を、三宅先輩が腰に刺していた横笛を取り出した。


 「蟹沢、なん、で、あんな風に、強化させられたんだ?」


初めて禅の口から意味のある言葉が聞こえた気がした。あのジャンプは誰かの不可解を、解明するために飛んでいるのだと気付く。

「何なんだよちくっしょおぉおおおおおお!」

雄叫びと共に禅が駆け出した。倒れそうになるのを勢いで防いでいる、荒々しいストライド。持っている棒もひびが入っているように見える。その上に全体重を乗せて、叫びながら体を持ち上げようとするが、その矢先、バキッと絶望的な音が響き渡った。

持っていた棒が、折れた。落ちる、と思った瞬間、先輩が扇子を翻す。その瞬間、突風が吹き荒れ、禅の体を持ち上げた。


『お眠り』


その風に乗せ、笛をマイクのようにして、三宅先輩が囁く。風は人の手のようにそっと禅をマットの上に下した。曇天が広がり、雷鳴が轟く。雨が、しとしとと降って来た。

出雲が最初に駆け出した。その後に僕が、遅れて武尊が追いかける。水溜りが出来る真ん中で、禅が声を殺して泣いていた。

 「どうしたんだよ、禅」

 「可笑しいんだ、あの糞委員長が……。あいつは、幼馴染だ。あいつの性格は、良く知ってる。あいつが、あんな風に笑うわけ、ないんだよ。でも、隣に居ない時間が長すぎたせいで、違和感が分かんねぇんだ。あいつも、俺が大嫌いな奴らみたいになっちまったんじゃないかって、思うんだ……」

鼻水を啜り、雨で濡れた腕で涙を拭う。そこに、矢田先輩たちが並んだ。神妙な面持ちで、禅の言葉に何か知っているようだ。

「委員長って子は、今日、突然人が変わってもうたんか? なぁ、そいつ、一人だけで誰かと会うてなかったか?」

「……は?」

「若しくは、一人で何か奇妙な動きをしていなかったかい? 何かを体に埋め込む様な……」

そう言った瞬間、禅の手が三宅先輩の胸倉を掴んだ。止めようとしたのを、逆に三宅先輩は静かに手で制した。

「お前らか?……お前らが、あいつに、蟹沢に、変なの渡したんか? なぁ、おい、答えろや。お前らが芋引いてたんとちゃうんか? ああっ!?」

「違う。私達は、蟹沢君の人格を変えてしまった団体を追っている者だ。恐らく、彼はモヤッキュー達の毒牙に掛かってしまったんだろう」

「何やねん、それ。テメェふざけとるんか!? こんな時にまで天然かましてんちゃうぞ! ワレェ!」

荒ぶる禅。だが、穏やかな笑顔を崩すこと無く、三宅先輩はその手を優しく解いた。

「混乱するよね。私が嘘を言っているように聞こえるだろう。でもね、これは紛れもなく現実で、紛うことなく真実だ」

澄んだ青い目に見つめられ、禅は怒りや戸惑い、不安に歪んだ顔を逸らして大きなため息をついた。

「……なんやねん、そんなん。もう、あっち行けよ。明日俺の命運がかかった勝負があんねん」

倒れたバーや折れた棒を抱えてまた練習に戻ろうとする。

「勝負って何です?」

不安そうに出雲が尋ねる。その手には折れた片方の棒が握られていた。それを乱暴に奪い取ると、禅は1度もこちらを見ないで答えた。

「お前らに関係ないだろ。見せもんじゃねぇんだって、帰れよ。むさ苦しいんだよ、お前ら」

「帰れないよ。こんな頑張ってる友達放って置けない。僕も手伝う。勝負、勝つんだろ」

その一言に禅の手が一瞬止まった。だが、また動き出す。

「鬱陶しい言うとるやろが!俺の事なんてなんにも知らんくせに!たった1日宿貸したくらいで調子乗んなよ大バカもんが!友達とかゴッツさぶいねん! もう仲間なんて要らんねん! もう友達とかいう邪魔もんもいらんねん!俺に構うなよ、どうせあとで裏切る癖に!」

突き飛ばされ、武尊に受け止められる。禅は今にも大声で泣き出しそうなのを堪えているようだ。赤くなった顔を乱暴に擦って、練習道具もほっぽらかしでそのまま走り去ってしまった。

武尊が追いかけようとするが、それを矢田先輩がとめた。

「あいつ、マオや出雲ちゃんに乱暴を!」

噛み付く勢いで食ってかかる武尊に、矢田先輩は冷静な顔で首を振った。

「あれは行ったらアカン。火に油を注ぐだけや。それより、やっぱりあの一件が相当こたえとるんやな。なぁ?」

三宅先輩を見る。彼はシャツの襟を正しながらうなづいた。

「そうだね。あれは、私達から見ても酷かったからね」

2人は何か知ってるようだ。僕は尋ねようかどうしようか迷う。そんな時、出雲が前に出た。

「黄山くんに、何があったんですか」

真っ直ぐ2人を見て、いつものあのオドオドとしたか弱い姿とは一変し、勇敢な姿を見せていた。

何か、彼女の琴線に触れるものがあったのだろう。彼女も友達に裏切られ今も苦しんでいる一人ではあるからか。

「……昔、彼は名の知れた不良中学生でね。私達の学校ではそれはそれは恐ろしく、親も苛烈しやすい事から先生達も何も言えなかった。上級生にも喧嘩を売るし、下級生は暴力的に半ば強制的に舎弟にしていた。いわゆる暴君だね。学校には行くけど授業は真面目に受けず、妨害ばかり。いじめやカツアゲも積極的に行うし、本当に手がつけられなかったんだ」

「せやけど、ある日大きなクーデターが起きたんや。あいつの実家も巻き込む大きな事件やった」

矢田先輩が引き継ぎ、続きを語り出す。

「自分らは、学校全体が自分の敵になったこと、あるか?」

その言葉にゴクリと唾を飲んだ。首を振ると、そうやろなと矢田先輩は頷いた。

「夏休み終わりだったな。あいつがいつものように意気揚々と校門を潜ると、舎弟の一人が不意打ちで取り押さえた。そこから殴る蹴るシャーペンで刺す、煙草の火を押し付けるなんて言う、日々アイツに恨みを持った輩からの集団リンチにあった。あいつも抵抗したが多勢に無勢、暴力は時間を置くごとに酷くなって、傍観してた人達が心配するくらいだった。けど、恐ろしいのはここからや」

「そう、誰も、教員も近所の人も勿論私達も、警察も救急車も呼ばなかったんだ」

「まぁ、日々の行いがあまりに悪過ぎたんや、そうやってワシも当時は自分を正当化したけどな。けどあれは今でも夢に見るんよ。黄山は一日中暴行を受け、気絶したら全員が翌朝まで放置した。夜にもなって帰らない息子を心配した両親が校門前の変わり果てた黄山を見つけて発狂し、学校に刃物を持って侵入し、警官に取り押さえられた。その後アイツの家の中華屋は潰れて、母親は前科がついた。父親は中国に帰って行方知れず。母親は精神を病んで入院。禅は祖父母に半ば監禁に近い形で預けられて今に至るって感じや」

一通り聞き終えてあまりにも壮絶過ぎて言葉を失った。恐怖を通り越して、まるで夢物語のようだ。禅が学校を嫌う理由や家に帰りたがらない理由を初めて理解して、僕は次彼に会った時なんて言ったらいいか分からなくなった。

「せやからな、ワシはアイツがもし本当にアニマに慣れた時はちゃんと謝りたいんや。ワシらが見過ごした事は共犯や」

「そう。平和を守ると豪語するヒーローになったというのに、この蟠りを抱えたままでは先代たちに顔向け出来ないからね」

三宅先輩は少し悲しげな笑顔を浮かべて俯いた。

けどあの空気じゃ、謝るなんてとても無理だ。

「だからって、恩を押し付けて謝ろうって魂胆じゃ、ないっすよね?」

武尊が厳しい口調で尋ねた。

「違う、とも言いきれんわ。事実アイツは既に巻き込まれて、ワシは恩を押し付ける様なことを忠告しとるからな。初手はミスったなと思うで」

矢田先輩は、バツが悪そうに頭をかいた。確かに武尊が眉間に皺を寄せる訳も分かる。でも、もう歯車は回り始めている。運命の賽は神によっていたずらに振られている状態なのだ。

「けど、それはアイツを追いかけない理由にはならない。過去が仲間に裏切られて辛くとも、学校が辛くて嫌いでも、アイツは今日、ここまでちゃんと来たんだ。友達が要らないと言っても、図々しい奴でも、泊めた恩義はちゃんと返してくれた。アイツは口ではああ言ってるけど、本当はまだ友達が欲しいって思ってるんだ。ただ、恐怖やトラウマが邪魔して、上手くそれが言えないだけなんだ」

本当にそうだろうか。僕はあいつじゃないから、断言出来ない。少しずつ不安になって最後はかすれて、ほぼ吐息みたいになってしまった。

「分かった」

武尊がたった一言、だがハッキリと告げた。

顔を上げると、アイツは禅の鞄やパーカーを拾い集めていた。

「俺はアイツが苦手だ。でも、確かに、あの練習量や面倒くさがらずスケボーを教えようとしてくれたのは……マオの言う通り、やっぱり友達が欲しかったんだなって、気付かされてた。友達になりたいやつを拒むのは俺らしくない。だから、めっちゃ嫌だけど、友達になれるように努力する!」

絞り出すように宣言した。というか、苦手なら無理しなくていいのに。そう伝えようとしたら遮るように武尊は付け加えた。

「言っておくが、流された訳でも、マオに合わせたわけじゃないからな。俺の俺自身の意思だから。嫌だって言うことはちゃんと言うし、アイツとの喧嘩は大目に見て欲しい。けど、アイツの才能やあの周りに流されない強さは俺に足りないものだから……」

「ふふ、喧嘩ね……。あの武尊が喧嘩か。本当に無理だけはするなよ」

周りに溶け込み、周りに合わせて、流され角が立つ事を嫌っていた武尊から思わぬ言葉が聞けて僕は少し親心というか、感動というものを感じて目頭が熱くなった。

「ほうほう、三峯君も彼を認めたか。ならば盛大に歓迎してあげないといけないね」

「せやな。けど、もうあいつの周りにはモヤッキューの脅威がある。アイツのアニマストーンやアニマフォンが奪われれば仲間どころか全員の命も危ない。みんなでズルくんの事守らな」

「そうですね。でも、みんなアイツとは他学科ですし、学科棟もグラウンドからは離れてるじゃないですか。どう見守るんです?」

そう言うと、矢田先輩は扇子を開いて口を覆った。そしてその奥でニヤリと笑う。

「くっくっくっ、忘れてもろては困るわ。ワシが何の神の依り代かよーく考えてみい」

先輩が扇子を掲げるといつの間に集まっていた鴉達が「忘れるな」と文句を言うように盛大に鳴き始めた。グラウンドの柵の上には無数の黒い影。その中央で得意気にくるりと扇子を翻し、パチリと閉じた。

「監視、偵察はお任せあれや」

胸に手を当てて告げる先輩は悪の親玉のようにも見える。だが、頼もしい限りだ。

「恐らく、奴らは住吉君も参加する全国陸上競技大会で動くはず。私達もそこに狙いを定めて怪しい人物をマークしよう。誰だったか、忘れたが」

「か、蟹沢くんです。陸上科の次席の」

出雲がおずおずと三宅先輩に教えた。三宅先輩が珍しくボケを連発していない。新鮮だな、なんて集中が切れてそう思った。

「蟹沢は俺の高校のダチっす。蟹沢なら、俺が探りを入れます」

「頼んだ、タケル。出雲と僕は禅を見守ります。ね!」

「はい、頑張ります!」

出雲も力強く頷いた。大会まであと3日。












息をするのも忘れて全速力で街を走り抜ける。頭が混乱して考えがまとまらない。

何であの時少し期待したんだろうか。何であの時あんな凡人のことを案じたのだろう。

嫌われるしかないなら、とことん嫌われ者になってやると割り切ったのに。どうせ裏切られるのだから、仲間を作らないように言葉も選んで学校にも行ってなかったのに。


―――友達の勇姿を目に焼きつける!―


その言葉が何度も頭の中を巡る。真っ直ぐこちらを見たあの大きな目が瞼の裏に張り付いて離れない。

一瞬でも確かに、あの目に希望の光を見た。


「無駄だ」

希望の光は見えたなら消える事が確定してる。いつか消える光なら、一生目を塞いで、暗闇の中を歩いていたい。

「どうせ俺には」

あの日の記憶がフラッシュバックする。憎悪の拳、焼けるような痛み、親は俺を見ていない。教師は俺を害獣だと思ってる。あの目が、あの手が、あの門が、まだ、俺は怖くて怖くて仕方ない。

「どうせ俺には友達なんて出来ないんだ」

頭では分かってるし、気持ちの整理も出来てるはずなのに、あの目に希望の光を見てしまった。

アイツは、あいつらは何が望みだ? 金か、体のいい囮か、万引きしてくるマッチポンプか。

あいつは多分ふざけるなと声を荒あげるだろう。そんなんじゃないと、否定してくれるだろうか。いや、無いか。

「どうせ、みんな同じだ」

みんな、俺を俺として見ていないんだ。だから、信じるものは俺だけでいい。俺が俺の事を好きでいるならそれで充分だろう。

振り返っても誰も追いかけて来ない。風が侘しく吹きすさぶ路地裏を、無人の雑多とした路地を見て確証を得た。

「みんな、俺が嫌いなんだ」

なのに、何で。毎度胸が痛むのだろうか。

「みんなじゃ、ない、ぞ!」

突然背後から声を掛けられた。見るとあの奇抜な髪の、小柄な男が息も絶え絶えになって立っていた。

「確かに嫌いな奴は多いかもしれないけど、少なくとも僕は、僕達は! 君を好きになりたいって思ってる!」

顎を伝う大粒の汗を拭って、真雄人はまた真っ直ぐ、輝く目で俺を見つめた。無性に逃げたくなるのが、腕を掴まれてそれを防がれる。

「だから、お互い歩み寄ろうよ。僕は君をまだ何も知らないから、知りたいんだ君のこと」

眩しい。眩しい。目がくらんで何も見えない。

だから、怖くてまた手を振り払った。

「ええって言うたやろ。俺は嫌われもんやから。お前もきっと見限る。絶対俺を嫌いになる。せやから、そうやって期待させんで?辛いねん。ごっつ苦しいねん。また裏切られたらって怖いんだよ。もう、あんな事されとうない。俺はもう傷つきたくない」

涙で揺れる視界の中で、真雄人は戸惑いと何か言いたげな顔で苦しそうに顔を歪めた。

「せやから、ほっといて。もう構わんで欲しい」

「……嫌だ。明日も明後日も明明後日も、お前が友達になりたいって、僕を受け入れてくれるまで構い倒す。鬱陶しいって言われても、嫌いだって言われても、迷惑だって言われても、お前を構う」

「何で」

「お前に僕を知って欲しいから。僕はお前と友達になりたいんだ。利害関係なんて無い、ただ一緒に学校に通ったり学食でご飯食べたり、休みの時に遊んだりする、そんな友達になりたいから」

「……うざい」

一言告げて踵を返した。真雄人は街中に響く声で叫んだ。

「今日も泊まりに来ていいから!また明日!」

振り返ると笑顔で真雄人は手を振っていた。

なんなんだ、アイツ。変なやつだ。


そして、本当に大会当日まで追いかけ回され続けた。





全国陸上競技大会という名の、全国から集められた体育学部が一同にスポーツ科学発展のための記録を行う大会。

当日はカラリと晴れた、五月晴だった。少し汗ばむ陽気の中、俺は豆だらけの手をじっと見つめていた。

移動のバスの中、俺だけ教授の前に座らせられた。スポーツドリンクや塩飴が山盛りになったカゴに肩を小突かれながら、島のいちばん大きな体育館にドナドナされる。

後ろではキャッキャとはしゃぐクラスメイト共。蟹沢を補助席に座らせ、みんなで励ましている。蟹沢をちらりと見ると、何か首の中を這っているように見えた。首筋が時折芋虫のように蠢くように見えた。


モヤッキューという、得体の知らない何か。


それが昨日の晩から胸に引っかかる。ネットで調べても、情報通の知り合いに聞いてもそんなの知らない、若しくは、何馬鹿な事を言ってるんだ? と睨まれるだけだった。

考えすぎなのだろうか。俺の被害妄想で、才能が開花したアイツを認められないあまりにこんな事を考えてしまっただけだろうか。でも、アイツらは蟹沢の異変を素直に飲んだ。

何かアイツらが蟹沢を利用してるのか、或いは……。

「禅!」

突然前から名前を呼ばれ顔を上げると、そこに真雄人が立っていた。

「はっ、これは嘘じゃないって事か?」

「ん?僕は1回も嘘は言ってないぞ」

きょとんとした顔で答える真雄人。その後ろにはメガホンを首から提げて、だいがくが売ってる応援Tシャツを着た武尊と、応援シャツにマフラータオル、キャップまで被った金髪の三宅先輩と相変わらず真っ黒づくしの中バッジだけつけた矢田先輩が立っていた。

「おーおー、お友達も引き連れてまぁ。暇なん?」

「暇にしてきたんよ。君の勇姿をちゃんと見とかんとな」

「お、俺はたまたま休みが取れたから付いてきただけだ」

「そういう割にはガッツリたのしんどるやんけ。なんなん、その意地は」

素直な矢田先輩とは裏腹に、ツンデレを披露する武尊に緊張もほぐれる。だが、胸の引っ掛かりは消えない。

「黄山、くん!」

武尊の影から少女の声がした。見ると、いつもの丸メガネを外し、長い髪を後ろで一つ結びにしてる出雲ちゃんが、モジモジと後ろ手に何かを隠しながらこちらに歩いてきた。

タンクトップの中にインナーを来てるがそれでも身体のラインがハッキリ出るコスチュームに思わず鼻の下が伸びかける。

「いっずもちゅあーん!出雲ちゃんも応援しに来てくれたん?ゴッツ嬉しいわー!」

思わずルパン並みのテンションになってしまう。野郎共に冷ややかな視線を向けられても気にしない。出雲ちゃんは俺の前に何かを突き出した。

「あっ、あっ、あの!もし良ければ食べてください! つまらない物ですが……」

そう言って差し出されたのはタッパーに入ったはちみつレモンだった。初めての大会前の、誰かからの差し入れに、最初誰かに渡して欲しいのかと思って直ぐに受け取れなかった。

「え、ええの?ホンマに、これ、俺が食べていいモノ?」

「も、ももも、勿論、です! お、お口に合わなかったら、捨てていいので」

あくまで恐る恐ると言った感じで彼女はそういうと、直ぐにまた武尊の後ろに隠れてしまった。

「嬉しい、ありがとう。出雲」

「あの、私、客席で応援するんですけど、その先は、私は、黄山くんですから。黄山くんが、いい記録を残せるように応援、します!」

小さなガッツポーズで、こちらを見上げる彼女に胸がキュンとする。真雄人も笑顔で拳を突き出した。

「僕も禅のことだけ、応援してるから。練習したこと、しっかり発揮しろよ!」

「へへへ、ありがとさん!」

蟹沢の違和感とか、モヤッキューとか、どうでも良くなってきた。真雄人の拳に自分の拳を当てて俺は満面の笑みでグラウンドに戻った。

音楽学科の奏でるマーチ。割れんばかりの声援、突き抜ける快晴。そして、観客席の前方にあるのは蟹沢の文字。

いつもなら、そこで心がささくれてしまうが、顔を上げると客席に入った真雄人達が見えた。

「黄山、どうした? いつもよりいい顔だな」

道具の準備をしていた顧問がこちらを見て初めて笑う。俺は自信たっぷりにうなづいた。

「おうよ、今日の俺様にはダチ公が居るからな!」

そういうと先生は豪快に天に向かって笑った。

「そうか、なら、その友達は大事にするんだな。手伝わないなら蟹沢の様子を見て来てくれるか?今日のエースはお前じゃなくて、アイツだから」

他意はないのだろう。でも、簡単に心が折れかける。

「禅―!頑張れー!」

その心を誰かが背で、隣で支えた。見ると、まだ何もしてないのに、隣の武尊のメガホンを奪って声を上げる真雄人が居た。そうだ、俺は、今日の俺はひとりじゃない。

真雄人に手を振り返して、トイレに向かう。歓声が遠のき、やけにロッカールームの近くのトイレは薄暗く感じた。

蛍光灯がチカチカと頭上で瞬く。一つだけ閉まった個室をノックした。直ぐに返ってきたノック音にホッとする。

「おい、蟹沢。どんだけ長ぇクソしてんだよ。センコー共待ってるぞ?」

返事は無いが、微かに扉の奥から呼吸音が聞こえて来た。

「お前、友達なんて居たのか」

どういう意味、だろうか?

喧嘩を売りたいのか、ハッパをかけたいのか。握りしめた拳が暴走しないようにもう片方の手で掴む。

「出来たんだよ、最近な」

「そうか、そりゃ、残念だ」

ぞくりと背筋が粟立つ。俺はもう一度強くドアを叩いた。なんだか、扉を開けないと行けない気がする。

『逃げろ、嵐が来る』

また、嗄れた声が頭に響いた。でも、逃げたら、蟹沢は? 奴はどうなるんだ?

「蟹沢。お前、本当にクソしてるだけなのか? 開けろよ、どうせ俺だ、いつものお前ならなんでもないだろ」

「ァァ、でも、今ハ、ちガう」

声が歪み、誰かの声と重なる。粘つく音。

『逃げろ。我の意思が盗られる』

いし?

ポケットに手を突っ込むと、あの黄色い石が出て来た。

「イイよ、な。オマエは、神にスカれ、神に選バれたから。あァ、羨ましイ」

何かが奥で蠢いている。骨が軋み、折れるような音が何度と断続的に聞こえてくる。俺は本能的に扉から離れる。そして、中を確認する間もなく、走ってその場から逃げ出した。

なんだあれ、俺は夢でも見てるのか? でも、そんな訳ないよな。蟹沢の奴、多分腹痛で吐いていただけだよな。うん。

でも、そうじゃなかったら?

「おい、黄山!」

顔を上げると、蟹沢の取り巻きと顧問が立っていた。俺が蟹沢を連れ出してないことを見て眉を顰める。

「蟹沢は?」

「あ、ああ! あいつ? あいつ、なんか朝飯に当たったかなんだかで、げ、ゲロってたぜ?今はひとりにして欲しいって、待てよ!」

押し退けてロッカールームの方へ向かおうとする同級生の手首を掴んだ。臼井が、驚いてこちらを振り返る。

「何?吐いてるなら保健医に見せないと。大会の辞退とかになったらどうするんだ」

「せ、せやけどさ。あいつ、今誰にも会いたくないって言ってたんよ、だから、今は……」

言いかけたところで、手を乱暴に払いのけられた。よろめく俺に追撃するように、栗林が肩を突き飛ばす。

「じゃあ、なんで俺らじゃなくて、お前に蟹沢がそういうこと言うんだよ?お前もしかして、あいつを辞退させるために嘘ついてんじゃねぇのか?」

「は? なんでそんな話になるんだよ。別にアイツが出場しようがしまいが、俺はどうでもいい! でも、アイツには今近づいちゃダメだって」

近付いたら、あの扉の奥が何をするか分からない。でも、コイツらは聞いてくれるのか。あんな俺の仕草を聞いてくれるのか……?

思いは虚しく、手はまた払われ奴らは俺の言葉を無視して中に入ろうとした手前、真っ黒な何かがチームメイト達を弾き出した。咄嗟に身体が動いて、俺は三人の下敷きになる。

「な、なんなん……?」

「いってぇ……頭が」

良かった、大怪我はしてないみたいだ。俺は3人を立たせて、自分の後ろに突き出した。ギョッと目をむく彼らに叫ぶ。

「何しとんアホンダラ!はよ逃げや!次は助けねぇぞ!」

臼井がお前は!と叫ぶが、それを顧問と栗林が宥めてお互い肩を借り合いながらその場から逃げ出す。その時下から突き上げる衝撃に足を掬われ、後ろに転がった。スタジアム中に響く低い轟音。大きくなる地震。

顔を上げると真っ黒な中から巨大な赤い目がこちらを睨み、黒い塊は形を成していく。赤黒い甲羅と大きなハサミ、だがその背中には無数の槍のような、いや、違うあれは棒高跳びで使うポールだ。

「お前、蟹沢……なんか? 」

「羨ましィ、モう、楽、ニ、なり、たイ。怠けて、居たィ……」

泡を吹きながら無気力に、だがその奥に怒りさえも滲ませ、かに型の化け物はつぶやいた。俺は立ち上がって、苦し紛れに崩れ落ちてきた天井の破片を投げ付けた。

「なんや、お前も怠けたいって! おもろいなぁ! なら、早く元戻れよ!俺様が極上のサボり方を教えてやる!」

「デも、みんな、期待して……。サボ、れ、ない、だから……」


全部、壊して、コロス。


「は?」

思考が止まった瞬間、巨大なハサミが天井や床を抉りながら迫って来た。俺は我に返り、間一髪でグランドに飛び出した。服の端が甲羅の突起に引っかかり破れる。

どよめく観客。揺れが酷く、グランドはひび割れ、誰も動けず地面に四つん這いになっていた。ロッカールームの入口のドームがハサミで崩れ落ちる。

「おい、大丈夫か!はよ逃げろ!出口に向かって走れ!早く逃げろ!観客共!お前らもや!はよ逃げろ!死ぬぞ!」

相手チームにも声を掛け、出口まで引っ張るが、それが逆に混乱を招いた。訳も分からず人はなかなか動けない。理由を聞かれても、俺も説明出来ない。でも、蟹の化け物は、親友の怨恨はすぐそこまで迫っている。

俺一人じゃ対応し切れない。その時、観客席から誰かが飛び出してきた。日に当たって光る赤い髪に涙が溢れかける。

彼は何処から出したのか、真っ赤なランタンを掲げていた。

「こっちです!僕に着いてきて!大丈夫!絶対僕がみんなを助けます!禅、君は怪我人を運んで!」

真雄人がランタンを掲げて、出口まで走る。そうするとさっきの混乱は嘘のようにみんながいっせいに動いた。俺は真雄人に足から血を流してる選手のひとりを預け呟く。

「悪い。敵さんの狙いは恐らく俺や。せやから、お前らだけ逃げろ」

「なんだって?尚更駄目だろ!」

「俺が撒き続けたタネや。 もう、目を背けられんよ。俺がどうにかする。お前らは関係ない事だ。もし俺が1時間経っても戻らんかったら、警察とか呼べ。んで、墓にはスケボーをそなえとくれや」

「……止めたい、けど、お前の覚悟を蔑ろには出来ない。僕らもすぐ戻る。だから、それまで持ちこたえろよ」

真雄人は腹を括った顔で抱えていた俺のスケボーを押し付けた。

「だから、死ぬなんて言うな。意地でも生き抜け」

真雄人は目に涙を溜めて叫んだ。俺はその涙を拭い、ボードを特殊な素材を使っているグラウンドに落とし、足で思いっきり踏み付けた。このボードでどれだけ持つだろう。俺はあとどれほど生きられるのだろう。

でも、それで今までの身勝手が許されるのなら。今度は俺の為に誰かが涙を流してくれるのなら。


それもそれで本望なのだ。


と、その時今までで1番大きな破壊音が響き、土埃が爆風で吹き荒れた。その奥から巨大な蟹の化け物が現れる。

血の気が一気に引く。冷や汗が脇を湿らせた。逃げたい。痛いのは怖い。怖い。逃げたい。逃げたい、けど。

視線だけ後ろに向けると、最後の一人が真雄人と一緒に転がり出た所だった。

「サボりたい……、休み、タイ、辛い、グルしぃ……!!」

巨大なハサミが客席を掴んだ。そして、砂糖菓子のようにあっという間に割られ、粉々に砕け散った。

「そうかい! なら、まずは諸悪の根源をボコってからにせぇよ、ウスノロのチビハサミ!」

蟹の飛び出た目がギョロりとこちらを睨んだ。ぶくぶくと泡が吹き上がる。それは蟹の周りを飛び回り、こちらに飛んで来た。何があるか分からない。急いでボードを蹴って逃げ回る。その泡が壁についた途端、バチンっと弾け接着してた壁と地面の一部が爆発したように抉り壊された。

振り下ろされるハサミは地面を砕き、壁を作る。そこを飛び越え、観客席の手摺に後輪を乗せて輪を描くように滑る。身体が重いせいで動きは早くないが、その破壊力がえげつない。飛ぶ泡は爆発するし、ハサミに捕まれば頭と足が永遠の別れを告げる事になる。

泡を避け、瓦礫の障害物の上で乗れる所を選んで飛び乗る。その前方にハサミが叩き付けられ、俺はボードと一緒に前のめりに飛ばされる。そこに泡の大群が現れ、咄嗟にボードを構えた。

バチン、バチバチン!

ボードが真っ二つに割れる。その爆風は細かく身体を傷付け、俺は盛り上がった客席の階段に背中を打ち付けた。

ボタボタと腕や肩から血が滴る。頭がボーっとして上手く考え事が出来ない。手足が重い。痛い。

でも、意地で立ち上がる。

「神、様……」

不意に俺は虚像に縋っていた。ポケットの中の小石を何となく握っていた。

「何でもええ。俺にダチ公を守る力を、貸してくれ」

巨大なハサミが座り込む俺に向けられる。大きな怪獣のような口を開け、俺に復讐を果たそうとする。

と、その時、そのハサミを叩き飛ばす何かが横から飛んで来た。弾け飛ぶ無数の水滴達。それが傷口に触れると、スっとそれが薄くなった。痛みや疲れもほんの少し減った。

なんだこれ、蟹に反撃する泡? 泡に自我でも芽生えたんか?

「黄山くん!」

聞き覚えのある声に顔を上げた瞬間、体に無数のツタが巻き付き、何処かに連れていく。その先には緑色のヘルメットにヒーロースーツ、両手にチアガールが持つポンポンを持った変な人物が巨大な木の枝に乗っていた。

「……誰?」

「アニマグリーンこと、住吉出雲です!酷いお怪我です、直ぐに手当をしないと……」

半透明になった緑色のヘルメット奥に、眼鏡と潤んだ大きな目で、これが出雲ちゃんである事にようやく合点があった。

「何なん、そのカッコ、何かすっごい違和感やで?」

「ふぇ!? や、やっぱりそうですか……?確かに、戦う感じじゃないですもんね……。うう、恥ずかしいです……」

顔を赤らめて俯く彼女に迫る蟹のハサミ。声を上げた瞬間素早く、細腕が真横に凪いだ。と、同時に蔦が蟹のハサミを殴り飛ばした。そして絡み付き締め上げる。

「でも、それはそれ。これはこれです。私の大事なお友達を傷付けた代償は大きいですよ」

鬼気迫る形相に俺もゾクッと背筋を正した。

「三峯くん、黄山くんをお願いします!」

「おうよ!」

出雲ちゃんは立ち上がって敵に向かって飛び込んでいく。それを止めようとした瞬間、巨大な水ボールに全身を包み込まれた。それを掴んだ青いヘルメットに青い水のような模様が入ったヒーロースーツの男が瓦礫を掻い潜って、下のグラウンドに降り立った。その瞬間水ボールも割れて水と一緒に俺も外に吐き出された。

「ったく、無鉄砲に無茶ばっかしやがって……。救助が間に合わなかったらどうするつもりなんだ。俺はそういう周りを考えない所が気に食わないんだ!」

「ゲホッゲホッ!その声お前武尊だな!お前雑なんだよ!息出来ないのに!」

でも、気が付けば身体中の傷も疲労も無くなっていた。という事はあの危機を突破したのはコイツの水ボールということか。なんか、釈然としない。

「礼くらい欲しいな! ったく、お前も早く逃げろ。ここは俺たちアニマがどうにかする!」

ヒーローみたいな事を行って、武尊は背を向ける。その先には赤い炎が何度も上がる。蟹の攻撃を避けながら、甲羅を叩き壊そうと猫のような動きで殴り掛かる男に自然と視線がいった。

「あそこで戦ってんのって……」

「マオだよ。あいつもあいつでいつもむちゃくちゃしやがってよ……!」

保護者も大変だな、と俺は素直に思った。

でも、これで漸く五体満足で帰れる。胸をなで下ろして俺は我先にと出口まで走って……。違和感を感じて足を止めた。

これが、俺の思い描いた正解なのだろうか。俺が逃げて、関係の無いあいつらが戦って、ボロボロになって……。これは、おかしいのではないか?

俺だけ生き残って、あいつらが、あいつらがもし、負けて……死んでしまったら、その矛先はどこに向かうだろう。また俺のせいで誰かが傷付いて、迷惑を被って、俺を恨んだら。

そうしたら、俺の今日の努力は何処に消えるのだろう。

逃げたら、またあの日の繰り返しだ。けど、ヒーロースーツも持ってない俺はどうしたらいい。

『持っておろうが、戯け』

誰かが頭の中に囁いて来た。ポケットに手を入れると、見覚えのないスマホみたいなものと、あの黄色い石があった。

『利己的でもいい。正義は元々誰かの後悔したくないというエゴだ。しかし理屈でその思いを消してはただの自己中じゃよ』

石を握りしめ、足先を元いたグラウンドに向ける。

『お前の真っ直ぐな稲妻のような思いがヒントじゃ。ぶちかましてこい!』







拳を何回打ち込んでも、ひび割れるどころか傷一つもつかない。それより先に炎の毛皮で直撃は防いでいるが、拳が先に砕かれそうだ。

「危ないです!」

地面から蔦が僕を真上に弾き飛ばす。その足元を蟹のハサミが掠めて行った。後ろに背中を逸らして一回転して、地面に降り立っても気は抜けない。泡に当たれば力が抜け、弾ける衝撃のダメージをモロに食らう。泡のカウンターを身体を低くしてかわして、もう一度渾身の拳を叩き込んだが、その衝撃がそのまま跳ね返ってきた。反動で真後ろに飛ぶ。その背後には泡が待ち構えていた。

「ギャア!」

身体が刻まれるような痛みに悲鳴をあげる。ハサミの追撃は出雲が、退避は武尊が担い、仕切り直す。だが、その背後から泡が迫る。二人とも避けられず二発同時に受けて、膝を着いた。それをはさみが薙ぎ払う。壁に叩きつけられる二人。武尊が大きなダメージを受けて水泡を保てなくなり、端から崩れるそれに押し流された。地面に這いつくばりながら、二人の元に駆け寄る。

その上からハサミが思いっきり叩きつけられた。何とかしっぽの炎と両腕で受け止めきったが、その重さには長く耐えられない。次第に腕が下がり、膝が折れ、ハサミが倒れる武尊達に近づいていく。


「欲を律し、理を正す、何処の魂を救う力を与え給わん!」


今、誰が変身した……?


そう思った瞬間気が抜けてハサミが迫って来る。潰れると、思った瞬間、足元をふわふわし

た何かがすくい取り、上空へ僕らを乗せて上昇した。

「なっ?」

「うわっ、なんだこれ」

僕らの乗っているのは金色の雲。こんなもの、なんか絵本とかの中で見た事あるような。

金色の雲は僕ら三人を乗せて旋回すると、グラウンドに長い杖のようなものを持った黄色

い男の元に優しく降ろされた。

「ふん!情けない姿だなお前ら、この俺様が来たからには万事解決だ!感謝して崇め

奉れ! そんで後で駅前のバナナクレープ奢れ!」

「その声、もしかして禅?!」

黄色い男はヘルメット越しに鼻の下を擦るような真似をして胸を張った。

「あたぼーよ!あいつの弱点なら、この俺様がぶっ叩ける!お前らはアイツの気を地面

に惹き付けておいて欲しいんだ」

禅は急に口調を変えて、真っ直ぐカニの怪物と向き合った。禅は何か策を持っている

様だ。武尊と出雲は怪訝そうに眉を顰めるが、僕はもう手の打ちどころが無いことを知

っている。

「何をするんだ?」

武尊が尋ねると、禅はカニの甲羅の上を指さした。

「アイツの背中にはポールが何本も刺さっている。そこに俺が稲妻を降らせる」

禅の持っていた杖のようなものの飾りが、しゃらりと音を立てた。出雲達はまだ不安そ

うだ。だが禅は、確かな自信を持って宣言する。

「俺はこの手の緊張にゃめっぽう強いんだ。だから、黙って従って欲しい。他に何か手

があるなら聞くけどな」

有無を言わせる気もないらしい。不満げな武尊の肩を叩いて、ここは彼に乗っかるように

目で訴えかける。武尊はなにか言いたそうにするが、ため息と一緒に折れてくれた。

蟹がこちらに気付いて攻撃をして来るのを、3人と1人に別れて躱す。禅が地面に杖を突

きたてると、空に暗雲が立ち込め始めた。

「じゃ、三人とも、下は頼んだぜ!」

ぴゅーい、と空に向かって指笛を吹くと、空の彼方から金色の雲が飛んで来る。それに

飛び乗ると、禅は空に飛んでいく。

「わ、私、蟹の動きを止めます!」

ポンポンを構えて言う出雲。彼女が走り出すと、武尊が手元に水を集め始める。

「俺達は下から攻撃して挑発すれば良いんだよな!」

「うん、僕は右側を、武尊は左をお願い。稲妻に当たるなよ!」

僕達も最後の力を振り絞って立ち向かう。暗雲の隙間からゴロゴロと中で雷がどよめきた

つ。風も強く、冷たくなり、ポツポツと雨が降り出した。その雨水を溜めて、武尊は何発も足元に叩き込む。僕は反対側から炎の爪で、引っ掻いて注意を散漫させる。

ピシャリ、ゴロゴロ、ビカリ。

雲の中が今まで見た事ないほど眩く、大きく瞬く。その中央で禅が杖を雲をかき混ぜるように高速で回転させている。

そこへ、蟹の目が向いた。

「禅!」

咄嗟に叫んだが間に合わない。蟹は禅の乗っていた雲を振り上げたハサミで掻き消す。禅は頭から落下していく。出雲が急いでツルを伸ばすが、間に合うか。武尊も水泡を投げるが、泡に相殺され、届かない。

「なめん、なぁあああ!!」

シャン!と杖の先端が甲高く鳴った。と思った途端、その杖が高速で伸びる。あっという間に禅は上空に飛び上がっていた。

禅が高く掲げたそれに、雲から巨大な稲妻が落ち、溜まっていく。真っ暗になったグラウンドが昼よりも明るくストロボのように照らされる。

「大空を轟く叡智の光!迅雷の使い、アニマイエローの怒りの雷、味わいやがれ!」

音速を超える投擲。突き刺さる衝撃で蟹が一瞬浮いた。僕らは急いで蟹から飛び退く。

耳を劈く雷鳴。空気が震え、世界が割れるかと思うほどの電撃。電圧に耐えられず、グラウンドの照明器具も破裂して、ガラス片の雨が降り注いだ。

眩い光の中、黒くなる蟹の甲羅。全ての電流が流れ終わると、そこには黒焦げになって、甲羅が端から崩れる怪物の姿があった。

その中に禅は飛び込んで行った。





ここは、どこだ?

確か、甲羅の中に蟹沢の手が見えた気がして手を伸ばしたのは覚えている。でも、目を開けると嵐が頬を打ち濡らし、体が持っていかれそうな程の風が吹く闇の中にいた。

真雄人も、出雲ちゃんも、武尊もいない。というか、スタジアムでもない。闇と風と雨しかない所に、俺は立ち尽くしていた。

「蟹沢?」

アイツを探さないと、と思った。


嵐の中声を上げてアイツを探す。風が横から、後ろから、前から、縦横無尽に嬲りつけてくる。雨は無数の礫。呼吸もままならない。声を上げれば口や鼻の中に雨水が入り込んで、風と雷鳴が声をかき消す。

風の中には誰かの期待の言葉が、雨の中には賛美の声が混じっていた。クラスメイトの、チームメイトの、家族の、教師の、友人の、恋人の、賛美と無数の期待。無責任で適当で、身勝手で他人事な言葉、言葉、言葉。

これは賞賛でも、激励でも、羨望でもない。怠惰にこいつに責任を押し付けて投げやりにしてるだけだ。これは騒音だ。これは重圧だ。だから、嵐なんだ。

「ああもう! うるせぇうるせえうるせぇええええ!!勝手に期待すんな馬鹿野郎!!」

耐えられなくなって、俺は空に向かって吠えていた。すると嘘みたいに雨も風も止んだ。髪からこめかみに、こめかみから頬を伝って、顎から水滴が落ちた。服もずぶ濡れだ。その中に、倒れてる蟹沢が居た。

「蟹沢!」

雨でぬかるむ地面に足を取られながら、俺はそいつに駆け寄った。蟹沢は黒く淀んだ瞳で俺を一瞥するとため息と一緒に視線を戻した。

「失望してくれたか?」

「ああ。あんだけ期待してもらって休みたいとか、贅沢も良いとこだ」

隣に座って天を仰ぐ。

「でも、疲れるよな。分かるぜ。俺も天才だからな」

「そうか、なら、出ていってくれ。放っておいてくれよ」

普段の蟹沢からは聞いた事のない力のない声に、俺は黙って首を振った。

「やだね。だってお前サボり方知ってんのか?」

「は?」

蟹沢が顔を上げた。

「どうせ、真面目不器用野郎の事だ。真面目にサボりも考えてるんだろ。その思考があるのがそもそも間違いだ。なんも考えなくていいんだ。結局全てはお天道様が決めることなんだよ」

「でも、それじゃあ」

「考えなくなったら、やりたい事が浮かんでくる。浮かんで来るまでボーッとしてな。大丈夫、案外何とかなるんだなこりゃ」

そう言うと、蟹沢がぶっと吹き出した。そして倒れたまんまで腹を抱えて笑い始める。俺もその横に寝そべった。濡れた服が気持ち悪いけど、どうでも良かった。

「俺さ、駅前のクレープ食べてぇんだけど、どうよ?」

聞いてみると、蟹沢が笑いながら答えた。

「ああ、俺も食べたいな、今すぐに」

「なら、とっととこんなとこ出んぞ」

空が晴れる。爽やかで暖かい風が吹き込む。気持ちよくて俺は目を閉じた。



目を開けると、グラウンドに戻っていた。隣を見ると蟹沢が手当を受けて寝ている。

「お帰り、禅!」

声がして視線を上に向けると、真雄人が泣きそうな笑顔で俺を覗き込んでいた。その反対にはハンカチで鼻を押え、おうおう泣いてる出雲。武尊は呆れ顔でホッと胸をなで下ろしていた。

「ただいま。なに、ずっと待ってたん?」

「当たり前だ。窮地を共に脱した友達を置いて行けるか!」

「ぞぉでぶよぉおおお! じんばいじたんでじゅがらねぇええええええ!」

「それに、駅前のクレープ屋もうそろそろ混み始める頃だからな。早く起きろ、約束が果たせねぇだろ」

デコを武尊に思いっきり弾かれる。俺は込み上げる笑いと涙を止められなかった。笑いながら、溢れる涙を拭う。

「そうだよな、行こう、皆で!」

真雄人の手を取って、立ち上がる。空は快晴。サボり日和だ。


分かる人は多いと思いますが、サルカニ合戦をイメージして書きました。でも、今回は正義側と悪側が真反対です。

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