第三話 草兎
アニマグリーン、住吉出雲の話。
朝、畳の香りと朝ごはんの目玉焼きを焼く音。鳴りっぱなしの目覚まし時計が意識の外へ外へ消えていく。
ぼんやりとした天井の木目と見つめ合いながら、私は陰鬱な気持ちと同化し、小さく掛け布団の内に縮こまった。
「学校、ヤダな」
授業は良いけど、部活は嫌だ。なんでこう、いつもこうなるんだろう。もう虐められたくないからメイクもオシャレも、春休み中にめちゃくちゃ練習したのに、話す練習もしていたのに。なんで本番になると声は詰まるし、目に涙が溢れてくるし、緊張して動けなくなるんだろう。
「いずも〜」
お母さんが呼ぶ。出なくちゃ。
モゾモゾと枕元の眼鏡を取って、一度大きく深呼吸をする。家族にこんな姿は見せちゃいけない。お父さんもお母さんも余計に心配しすぎてしまう節があるから。
これは、私だけの戦いにしないと。犠牲になるのは私だけにしないと。
「いずも〜遅刻するわよー」
高校や中学じゃないから別に遅刻したって文句は言われない。だが、あの大きな講堂で遅れて入る恐怖は言いようの無いものがある。
もう一度息を吸って。
「はーい、今行くー」
どこにでも居そうな明るい少女の声で返す。泣きそうになるのを必死に堪えて、布団から這い出した。
「いずも、全く大学生になってまで親に起こされるなんてみっともないわよ。今日はチョコソース?イチゴジャム?」
テキパキと手際よく朝食の準備をするお母さんが、私に小言を呟きながら目の前にトーストを置いた。その横にソーセージとサラダ。目玉焼きと焼いたベーコン。ホットティー。フルーツ。
映画の中のような朝ごはんのフルコースが目の前に陳列していく。この朝ごはんを一つ一つ閉まりがちな喉の奥に流すのは大変だ。
「おはよう、いずも。大学、どうだ? あそこは面白いところだろう?」
「うん、授業も面白いし、友達も出来たよ」
当たり障りない返答。確かに、友達と私を呼んでくれる人は居たが、私はその期待にどれだけ答えられるだろうか。あの人もどうせ、私に呆れて居なくなるのだろう。小学校のあの子達みたいに。
「そうか。あんまり無理しちゃダメだぞ、いずもはその、1人で頑張りすぎてしまうことがあるからね」
お父さんは新聞を畳みながら、丁寧に言葉を選ぶ。それはきっと最初の地獄のことを指しているんだろう。
「分かってる、またお母さんが倒れたら大変だもん」
テーブルの前に座って出てきたトーストに手を伸ばす。焼きたてである事を忘れて私はそれを取り落とした。お父さんがくすくす笑いながら頭を撫でる。
「全く、もうお母さんは何ともないって言ったでしょ。それより、トランポリンの大会近いって言ってたじゃない?お母さん、新しい衣装作ったからね!」
隣に座ったお母さんが得意げに腕を掲げる。お母さんは身体が元々強くない。貧血や熱を拗らせやすく、よく入退院を繰り返しているのだ。
「お母さん!徹夜してないよね?今度の大会は絶対来て欲しいんだから!倒れたら私嫌だよ?」
「そうだぞ早苗。お前も1人で頑張りすぎなんだ。もっと体を労わってくれよ……」
お父さんは立ち上がってお母さんの肩を揉む。温かい家族。大好きな私の家族。この家族は一度崩壊間近まで行ったことがある。
「お母さん、私何時でもお母さんを応援してるからね」
「うん?」
応援してる私が、繋ぎ止める。私の今をこれでひた隠している。
もう二度とあんな家族は見たくないから。
「うん。ありがとう、いずも。あんたは本当に優しい子ね」
優しい子。明るい子。無邪気な子。
それしかお父さんもお母さんも知らない。知ってはいけない。
泣き虫な私も、弱虫の私も、臆病な私も、友達がいない私も、虐められている私も、嘘をついて誤魔化している私も、隠さないと。
でも、この笑顔を卒業式まで保てるだろうか。この仮面はいつ剥がされるか。
怖い私も隠さないと。
頑張れ私。貫け、嘘の自分を。
「いってきます」
大学に入って新しく買ったスニーカー。入退院でお金にも余裕が無いのに、恥をかいたら大変と言って買ってくれたニキの白と緑のスニーカー。
これを学校まで履いていったことは、実は一度もない。
それでさえも隠して。
私は大学という地獄に向かう。
私が講堂に入ると全員が一度こちらを振り向いた。背中を丸めて、1番前の方の席に座る。
すると、後ろの席で大声で喋っていた派手な女子グループの1人が無言でこちらに近づき、手を差し出した。私は俯きながらレポートを手渡す。お礼はなく、勝手に彼女達は歩き去る。
あれが帰ってくる事はない。くすくす笑う後ろの席。高校や中学の時よりはマシだけど、それでも、これのせいで誰一人として私の隣に座ってくれる人は居ない。
ここでも群れを持たない草食動物は淘汰され、捕食される運命なのだろう。
「あ!出雲ちゃん!」
「ひっ!?」
突然背中を叩かれて飛び上がる。横を向くと、昨日の今日で頬に湿布を貼った三峯武尊くんと、今戸真雄人くんが並んで立ってた。
「出雲ちゃんも、この必修選んだんだな! てかさ、レポートやって来た?一応友達のためにいくつかコピー用意したんだよ。もし忘れてたりしたらあげるよ」
「えっ!?あっ、えっと」
「おい、武尊! いくらレポートでも自分でやらないと意味無いだろ! それにお前のお友達くんはここからテストに出すって言ってたし。出雲、僕もレポート間に合わなかったから一緒にやろ!武尊、それは僕が没収する!不正は良くない!」
「え、えと、その……」
「相変わらず、お堅いなぁ〜。まぁ、でも、真雄人が言うなら、ち、ちょっと、考えてみようかな」
「……友達1人に渡しに行っても良いけど、ばら撒くのはダメ!」
周りの空気などお構い無しの2人は仲良く喧嘩しながら、隣に当然のように座った。私はここはダメだというのを言い出せず、ただ口をパクパクとさせていた。
「あ、もしかして、ここ、友達来る?」
気を利かせて三峯くんが腰を上げる。違う、逆だ。今戸くん達も立場が危うくなってしまう。だが、それは違った。武尊くんが席に着くと待ってましたと言わんばかりに人が集まってきた。
「おーおー、相変わらずすげぇなぁ……」
「ひぇ、なんっ、こんな人達に囲まれて……。三峯くんは人気者ですね」
なんで、私の時は誰も来なかったのに、とは言えなかった。
今戸くんはハハッと呆れた様な笑みでこの様子を笑い飛ばし、背もたれに腕を乗せて言う。
「そう?アイツは、お願いをなんでも引き受けた上での人望だからなぁ。ほら、ヒーローとかのカリスマ性?っていうのは武尊にはないよ。でも、努力とその優しさは確かに人気になる秘訣かも。僕には無いからね」
「そうな、お前は正義感だけが突っ走りがちなただのアニメオタク!」
「そうだけど、お前に言われると腹立つし、お前だってかなりマニアックなアニメ見てるだろうが」
流れるように今戸くんも人の輪に加わっていく。二人とも私とは違う。友達は多いし、明るいし、話すのも上手だし、悪い敵にも果敢に向かっていく勇気がある。
そう言えば、あの時も前の時の怪物も……。あれは、夢?よくある集団催眠の一種なのだろうか。でも、見ると、今戸くんの首や三峯くんの腕にも赤と青の石がはめ込まれたアクセサリーがあった。
「おい、予鈴なってるぞ!お前ら、席に着くんだ!」
楽しそうにお喋りをしていた今戸くんは、突然顔を上げて全員にそう告げる。いいな、私もあんな風にハッキリものを言えたら。こんな惨めな思いはしなくて良かったのかしら。ぼんやりと考えていると、教壇横のドアが開いて教授が入ってきた。人の群れが霧散していく。
「出雲ちゃん、うるさくなかったか?ごめんな、武尊が騒いじゃって」
肩を叩かれそっと耳元で囁かれた。今戸くんはあんな感じだけど、気配りがちゃんと出来る。
「大丈夫ですよ。お気になさらず。それより、あの、変なこと聞くようですが、昨日の怪人とかって……大丈夫だったんですか?」
思い切って聞いてみた。ここでは?という顔をされたら白、それ以外は黒になるだろう。友達が出来そうという希望は崩れるが、今更だし、どうせ彼らも数日であちら側だ。傍観か、加虐か……。もう、人に希望なんて抱かない。
「ありがとう、出雲。僕らは大丈夫だよ、壊れた建物も学長がアニマの力でどうにかしてくれたし、神使の力って凄くてさ、僕の怪我も疲労も変身解ける前に全部完治してるの!凄くない!?」
予想外の反応にこちらが少し引いてしまった。小声だが、彼の興奮と熱量は痛いほど伝わってくる。今戸くんはそのままゾーンに入ってしまい、ずっと変身ヒーローの良さを語り始めていた。教授に睨まれるまでは。
「くくく、怒られてやんの」
「うるさいな!武尊、ノートちょっと見せて」
「うん、いいぞ!出雲ちゃんもごめんね、コイツのオタ話に付き合わせてさ。お詫びにさっきまでの板書とスライド、LINEに送るね」
三峯くんも、あんなに知り合いや友達も多いのに、私のことを知らないのか。少し、気持ちが軽くなる。でも、出しゃばっちゃいけない。素を見せちゃいけない。
誰にも迷惑掛けたくないから。
大人しく同調して笑っていけばいい。
「あ、レポート!課題なんだっけ?」
「プリント、ありますよ。ここの単語はこのレジュメの意味を指してるので」
「ありがとう! ……もしかしてだけど、やってた?」
「はい、事情があって忘れちゃいましたが……」
笑って頭を搔く。澄んだ、大きな目を見れずに俯いて前髪で顔を隠す。今戸くんはふぅんと相槌を打って、自分のリュックからルーズリーフを1枚出した。
「これ、出雲ちゃんのね」
「え! そんな!悪いです!」
ノートごと取られて動けなかった私に、スッと差し出す。さも、そうするのが当たり前の様に。断るが、彼は強引に紙を押し付けた。
「レポート出さないのはダメだ!忘れたなら尚更だ。社会じゃ書類忘れましたじゃ済まないからね!」
「え、えっと、ありがとうございます……」
「いいよ、あの時応援してくれたお礼でもあるし」
「てかさ、出雲ちゃん筆記用具も無くない? どしたん?」
心臓が竦み上がる音がした。咄嗟に忘れちゃってという。全部嘘だ。筆箱を出さないのは誰かに取られるのを恐れたせい。シャーペンを出さないのはからかわれないためだ。私のような人間は一挙動、一アイテムで格好の餌食になる。ハイエナのような奴らは騒ぎたい為のネタを目ざとく見つけてくるのだ。
「そっかー、んじゃ俺のシャーペンと消しゴムで良かったら貸すぜ。こういう時のため俺シャーペン10本持ってるんだ。消しゴムは20っ個」
エナメルバッグから現れたのは、文房具好きの女子でも持って歩かないような巨大な筆箱だ。というか、大きめのメイクポーチと言われても仕方ないほどの大きさにジッパーが締まりきらない位のペンが入ってる。
ギョッとする私達をよそに、三峯くんはシャーペン以外にも揃えて渡して来た。
「はい、これ、今日一日使っていいよ。返すのはいつでもいいしさ。何なら貰ってもいいからな!」
「お前、それいつも持って歩いてんのか?」
「そうだぞ。小学校からずっとこの筆箱を使ってんだ!」
「お前頼まれ好きにも程があるだろ……」
苦笑する今戸くんに合わせるように私も自然と笑みが溢れた。なんか、懐かしいな、この感じ……。小学校の時を思い出すなぁ。
あの時はこんな事になるとは夢にも思ってなかったけど。
そういった時、授業の区切りのチャイムがなっていっせいに生徒達が動き出した。私と今戸くんは何とかギリギリで終わらせたレポートを教授の所に持っていく。その時だった。
「調子乗んなよ、クソビッチ」
耳元で誰かが囁いて行った。振り返ると派手な女子グループがこちらを睨みながら後ろの戸から消えていく。身体が恐怖で動かない。心臓が高鳴りすぎて苦しい。
「出雲?」
「ひょえ!?」
そんな時に肩を掴まれたからびっくりしたあまり大きな奇声と、レポートが宙を舞った。それを片手で受け止め、キョトンとした顔の今戸くんが首を傾げる。
「出雲、大丈夫か? もしかして体調悪い?」
「出雲ちゃん、顔色ずっと悪いし、ずっとこっちの話も上の空だし……。大丈夫?保健室まで運ぼうか?」
「はっはこっ!? いい、いいいいいですぅ! 大丈夫ですから!!」
想像して顔が熱くなる。それを左右の髪で隠しながら教壇にレポートを叩き付けて走り去った。教授には悪いことをしたと思うが、そんなわざわざ戻れるほど私の肝は据わっていない。
「君たち、授業中喋り過ぎな。あと、レポートは家でやって来たまえ、とあの女史にも伝えてくれるか?」
取り残された僕、今戸真雄人は呆然とした意識を、教授の言葉で取り戻しハイっと返した。歩き去ろうとした時、あ、待ってと教授は僕らを呼び止めた。
「君ら、彼女の友達か?」
「え? はい」
「多分そうっすね!」
迷いなく頷く僕と対照的に曖昧に返す武尊。教授は言いにくそうに周囲を確認しながらそっと告げた。
「いやぁね、彼女上級生達に何故か目をつけられているみたいでなぁ。今回のレポートも彼らに取られたみたいなんだ。だから、君たち、彼女を上級生達から守ってくれないか。あれが続けば何処かで問題になりかねない。かと言って教師がしゃしゃりでても首謀者はぐらかす。だから、身内の中で防げるものは防いで欲しい」
その、臭いものには蓋をして、事態を身内の中で擦り付け合うように仕向けるみたいなの、僕はちょっと納得いかないな。
「問題になった方がいいでしょう、いじめは。隠そうとするのはいけないと思います!」
そう言うとバツが悪そうに教授は笑う。
「その正義感は買うけどね。でも、まだ実害が出てないなら問題にしようにもむずかしい。ほら火のないところに煙は立たないだろう? つまりはそういう事だ」
違う。火があるのに見て見ない振りだ、それは。事実盗難と器物破損の被害が出てるのに。
「それは」
そう言いかけた瞬間、武尊の大きな手が口を塞いだ。
「そっすよね! 出雲ちゃんの件了解っす!んじゃ、また次の授業で!!」
「あ、ああ……。それじゃあね、頼んだよ」
「むぐ!?」
話はまだ済んでないのに!!
だががっちりと武尊に抑えられて声を上げるどころか、動くことすら出来なかった。武尊は深いため息を吐いて、手を離す。その腹に思いっきりパンチをお見舞した。
「何で!逃がした!話はまだ終わってない!のに!!」
「いって、いて!マオ、あそこは引くとこだったぞ。それに教授を変に煽り立てたらお前の大学生活も危ういってのに。それにな、これは好機だ! ここで出雲ちゃんを守り抜けば多少のサボりお咎めなしになるかもだぜ!」
「何がなるかもだ!サボりもダメ!いじめを見て見ぬふりもダメ!そんなの、正しくない!」
「正しいだけがこの世の全てじゃないから、落ち着けって!」
「落ち着けない!あの教授には一言言わないと気が済まない!」
「これだから陰キャ熱血お馬鹿は……」
なんだそれ。そんな言われる筋合いないのに!!
行き場のない怒りは次第に萎んでいき、僕は申し訳程度に腹を撫でた。武尊は胸をなで下ろして、励ますように肩を叩いた。
「これも、アニマの使命だろ。出雲ちゃんは次どの授業かな?ちゃんと見張ってないとな!」
「あ、おい!お前次の授業別棟だろ! 自分の授業をおろそかにするな!!」
「すまん!出席表だけ提出するから!」
肩にかけたエナメルバッグが弧を描いて、武尊は持ち前の足の速さで消えた。人の少なくなった廊下で僕はため息をついて、出雲のことを彼に託すことにした。
「ねぇ、ペン貸してー!」
授業前、案の定借りたシャーペン達を奪いに奴らがやってきた。彼女達はチア部の同輩で私の高校でも1番目立っていたグループの端くれだ。あの時は取り巻きだったが、分裂したことで彼女達の中でもリーダー格の鮫島さんが頭角を現し、一軍たちをまとめあげたのだ。
私という共通の敵を作ることで、群れをまとめあげたのだ。
「え、えっと……シャーペン?」
「何でもいいから早く!せんせー来んじゃん、トロくせぇなお前相変わらず」
1番前の長机の端に小さなおしりを乗せて彼女はネイルで煌びやかに飾った爪を私に刺さる寸前まで突き出す。その手に私は渋々、隠していた百均のシャーペンを載せた。三峯くんのものは何としても守らなくては。
それを受け取った彼女はまじまじとシャーペンを眺め回すとポンと床に投げ捨てた。
「これじゃないやつちょーだい。あるでしょ、三峯くんから貰ったやつがさ」
やっぱり見てた。見られていた。私は、震えながら鞄を抱えて彼女に背を向ける。
「は?」
「三峯?誰ですか、その人。知りません。シャーペン、それしかないです。ごめんなさい、これで勘弁してください」
「は、あ!?」
長い爪が私のツインテールを掴んだ。痛い。けど、渡したらダメだ。あれは彼が貸してくれたんだ。返さないといけないものだ。彼女達に渡したり、絶対しない!
怒り狂った罵声とともに長い爪が頬を引っ掻いた。でも意地でも鞄を抱き締めじっと耐えた。爪が今度は服を突破って腕にめり込んだ。
ムカつく。ウザイ。生意気。ビッチの癖に。
色んな汚い言葉が背中に突き刺さる。泣かないように歯を食いしばって、自分はただの石だと言い聞かせる。ああでも、服のこと、お母さんになんて説明しよう。頬の引っかき傷も、どうしたらいいだろう。
また、お母さんを悲しませちゃうな……。
「なぁ、お嬢ちゃん。何を突っつき回しとんの?」
「ひょわ」
これは私の奇声じゃない。恐る恐る顔を上げていくと、真っ黒な影……いや、違う、昨日ショッピングモールに飛んできた黒い羽根の男の人だ。刺青みたいな立襟の中華風のワイシャツに前開きのチャイナドレスみたいな派手な黒い羽織。細い目と両端を引きあげた口元は何処か堅気じゃなさそうな気配を感じる。
「はわわ、や、矢田様……?」
「はは、様付けなんてせぇへんでええよ?そんな事より、そこワシも座りたいんやわー、退いてくれへん」
「はひ、す、すみません!!」
この様は、畏怖とその整った美貌に対する恋心にも似た憧れだろう。鮫島さんが完全に恋に落ちた乙女の顔で口元を押えてモジモジしている。
「おーい、勇翔―。こっち空いたでー。はよ来いやー」
後ろの席が一気にざわめく。女子達の控えめな黄色い歓声。感嘆の声。振り返ると、真っ白な天使様……いや、この大学の王子と名高い三宅先輩が優雅に歩いていた。時折、女子達のファンサアピールに律儀に答えながらのんびり歩いてくる。
そして、彼らは私を挟んで席に着いた。
……何故?!
何故ここか!
辞めて、これ以上私に唾を付けんといて!これ以上目立ったら大変な事になる!!
「いきなり割り込んですみませんね、お嬢さん」
「せやなー、譲ってくれておおきになぁ。ああ、それとな」
奥の席からピリッと針のような緊張感が滲んでくる。視線だけ上に向けると、笑顔を張りつけたまま、矢田先輩は私の背もたれに長い手を回す。
「あんまり、女の子が汚い言葉使うっちゅーんは、ワシあんま好きやあらへんで。性差別と言うより、人として下品や、な!」
「うん……。暴力と暴言は、私も傍から見てて心が痛かったな。話し合いでどうにか出来ないかい?私がいつでも相談に乗るよ、お嬢さん」
小首を傾げて澄んだ空のような目が鮫島さんのマスカラで縁取られた少しツリ目がちの目をじっと覗き込む。あの目で見つめられたら幾人の人が耐えられるだろうか。心だけじゃなくそのまま魂まで吸い取るような、碧。鮫島さんも恋を通り越して恐ろしくなったのか、顔を背けて赤面する顔を抑える。
「お、恐れ多いです!ごめんね住吉さん!シャーペンはい!じゃ!!」
投げ捨てられたシャーペンを机に叩き付けそそくさと彼女は自分の席に戻る。は、初めて名前を呼ばれた気がしてなんか落ち着かない。いや、落ち着かないのは多分左右の顔面偏差値金剛力士像の2人のせいだと思うけど。
「いやぁ、ずもちゃんもごめんなぁ。この授業、勇翔が3回も落っことしてまじで今期逃したら単位危ないんよ。せやから、堪忍なー」
「えへへ、面目無い」
この人も落単とかするのか。
「せやけども大変やなぁ、あんなおっかない女に絡まれとってなぁ、いやはや恐ろしったらあらしまへん! せやけどこの授業はワシらおるさかい、いつでも真ん中空けとくからワシら探して座ったらええよ。ほら、飴ちゃんやるわ、元気だしや」
「髪もくしゃくしゃだぁ。私が直してあげるよ。じっとしててね」
「す、すみません、あ、ありがとう、ございます……」
なんだ、この少女漫画空間は……。
美形2人に挟まれて頬に絆創膏やら、髪を整えられるやら、他愛のない話まで振られるやら、テストの出題範囲まで教えられるやらで、手取り足取り構われ倒された。
「いやぁ、でも、ワシら派遣したのケルくんやで?あの子なんやかんやでおとくんと負けず劣らずの正義感よなぁ。戦士の資格ビンビンやわ、驚いたわァ」
「ケル……? あ、あぁ、三峯くんですか。そうですか、今日は彼らに迷惑掛けっぱなしです。これを返す時に、ちゃんと謝らないと」
「んや?ワシらは謝罪やなくてずもちゃんからの可愛いありがとうが聞きたいわァ。それにこれ、ワシらのただのお節介やし」
「ごめん、ね?迷惑じゃなかった?次からは控えた方がいいかな?」
「へ!? いやっ、えっと、その!なんて言ったら良いかしら……、私もその、助けてくださって嬉しかったですし、お喋り出来て恐れ多いというか、恐縮というか、その、マジで神に感謝レベルってか、私明日死ぬのかなっていう感じでへへへ、あり、ありがとうございます、本当に」
「カッカッカッ!勇翔―、この子ほんまおもろいわァ、気に入ったわ」
「いい子だよね。色々世話を焼きたくなるの、何か分かるなぁ」
三宅先輩が頭を撫でる度高貴な香りが鼻腔をくすぐる。恥ずかしいのに全く振り解けないのはなんでだろう。この人のゴッドハンドがなせる技か。くっ、寝てしまいそうになる。
「まぁ、あとな自分にも渡さんとあかんものも預かっとんねん」
「私に、渡す?」
「せや、君にも神のお使いが近付き始めてる。せやけど、周りの邪気の方が強すぎて近付けへんのや、さっきのあの子とかな」
ちらりと矢田先輩は後ろを振り返り、後ろにヒラヒラと手を振る。それだけなのに後ろの席がアイドルやモデルがファンサを返したバリの歓声が上がり、教授もギョッと目を剥いて板書を書く手を止めた。
「矢田くん?人気者もいいけどね、授業中はファンサをやめて。先生虚しくなります」
「ええー、そうやったらヤギ先もファンサしたったらええやんか。指ハート、今流行りやで一緒に後ろの女の子にしたろうや」
「いいですね、こうですか?」
大きな歓声とスマホのシャッター音。矢田先輩は楽しそうに教授と写真に応じて、授業をオリエンテーションのような楽しい雰囲気に変えた。凄いムードメーカーだ。
「で、話戻すな? ほいで、神の使い仲間のワシらに護衛と誘導のお願いが来たんよ。せやからこれ、先に渡しとくな? これ、アニマストーンっちゅーねん。ま、パワーストーンや、お守りだと思っとってくれたらええよ」
そう言って矢田先輩は上着の内側から若葉色の綺麗なうさぎ型の石を手渡した。玩具のようにも、高価な宝石のようにも見えるそれはほのかに若草の香りがした。多分、矢田先輩の香水の匂いではないだろう。
怪訝そうな私に矢田先輩は笑顔で言う。
「お金はいらんよ?ただ先に渡しとこおもてな」
「……何で私なんかに?お金も要らないなら、何の目的で……?」
私が警戒しながら尋ねると、矢田は頬をかきながら言葉を探しているように唸る。そしてパッと顔を上げた。
「時が来れば分かる、としかいいようあらへんな!」
「……なんか、き、気持ち悪いです。お返しします」
「やだ。絶対受け取らへん。それ、ワシ要らんもん」
「わっ、私だって、こんな得体の知らない石、要りません!」
「知ってるよ」
その声は矢田先輩ではなく、背後からだった。天使のような悪魔のような、得体の知れない不気味かつ、美しい笑顔で三宅先輩はもう一度ゆっくりと告げる。
「君はこの石の正体を知っている。絶対に」
「……なに、を」
心に深く杭を突き立てるような、言い方にこちらの語調も弱くなる。澄んだ瞳は冗談やだまくらかそうとしている風には見えない。緑の石を白い指がつまみ上げ、私の手に優しく乗せた。
「これは、君を確実に守り導く要になる。だから、持ってて。君が、持っていて」
断れない。その目を私は突き放せるほどの勇気は持っていない。
「わかり、まし、た」
怖くなって私は俯きながら石を握りしめた。初めて見たはずなのに、なんだろう石から感じ取れる気配は何だか懐かしく思える。お母さんの病室から見た中庭のような、幼い頃に友達と駆け回った原っぱみたいな、楽しい時の思い出。勇気が湧き上がる、そんな感じ。
終わりの合図であるチャイムがやけに耳をつんざいた。
顔を上げると暗くなったスクリーンに、移動を始める人達。時が一気に進んだみたいだ。左右を見ると三宅先輩も矢田先輩も身支度を整えて教室を出ようとしていた。
「ほなな、またなーんか困ったことあったらいつでもここに来てええで。ワシこの学校の生活支援をする活動しとんのや、ま、ヒーローの傍ら、な?」
「また、髪触らせてね。それじゃあ気を付けて」
「またなー」
皮のリュックの側面、ポケットにサッと紙を差し込み矢田先輩達は去っていってしまった。誰もいなくなった教室にふわりと香るご飯の香り。ぐぅと、腹が呑気になき出した。
「何で、私なんかに……」
どうして、何かを送ってくれるんだろう。何で4人は私を守ろうとしてくれるんだろう。エゴ?偽善の道具?もしかして、鮫島さんの陰謀か?それとも私をよく思ってない他の人たちからの刺客!?もしかして実はこれも夢とか!?
自分の頬を抓りながら教室から出る。痛いけど、覚めない。何だろう、すごくやな予感がする。早くここから出ないと。
「ちょっと、住吉さん?」
「ひぃっ!」
鮫島さん、いつの間に背後に回ってきたんだ。
「今日は、部活行くよね?」
「え、えっとその、前も全体で話したように……」
「は?何?聞こえないんだけど!」
そりゃ、普段からそんな大きい声の人が、私の声なんて聞こえるわけない。私は身をすくめて高圧的な彼女から逃げる様に縮こまる。取り巻きたちが私の退路を塞ぎ、私は小さくなることしか出来ない。
「あんたさ、トップに選ばれた自覚あんの?あんたのせいで練習進まないであたしらがずっと先輩になじられんだよ!チーム戦なのチーム戦!分かってる? あんたが練習サボるせいで連帯責任なんだよこっちはさ!」
サボってない。私はこの島のトランポリンの地区大会出場選手なのだ。コーチにも、顧問にも、チアの部長にも、同じようにしっかり説明した。部員全員にも怖かったけど誠心誠意思いを伝えて、何なら私をトップというポジションから下ろしてもいいから、私が部活の練習を数日休む事を伝えた。
トランポリンの地区大会出場の証明書も提出してるし、トランポリンで培った跳躍力や、アクロバット、柔軟性も全員の前で披露したし、トランポリンの練習風景は部長と顧問に動画で撮影したものを提出してるし、チアのダンスの自主練も欠かしてない。
毎日ちゃんとチアに向き合って、怠けるなんてことはしてない。ズルもしてない。私は茂みの奥に咲く苔みたいにひっそり、こっそり目立たないように生きてるだけなのに。
「サボって……ない、もん……」
言いたいこと沢山ある。伝えたいこと、分かって欲しいこと。沢山ある。でも、私の声は届かない。こんな声じゃ一生誰にも届かない。言いたいのに声にしようとすると喉が詰まって嗚咽と咳が出る。涙が止まらなくなる。こんなんで誰かを勇気づけられるようなチアリーダーになれるのか。無理だ、一生無理だ。
私みたいな脆弱な奴はこういうヤツらの足元の砂にしかならないんだろう。一生怯えて居なきゃいけないんだ。
そう考えたら、涙がもっと溢れてきた。
「あんたね!すぐそうやって泣けば済むと思ってんじゃねぇよ、愚図が!!」
もうヤダ。こんな意気地のない自分。消えてしまいたい。
『大丈夫。君はとても強くて勇敢だよ』
「!?」
背後を振り返る。誰だ。誰か、私に話し掛けた……?
突然顔を上げた私を見た鮫島さん達がギョッとして、少したろじいた。辺りを見回すが、私の近くどころかここ一体を避けるように大きなサークルが出来ていた。
『大丈夫、君の声は大事な人達にちゃんと届いたよ。もちろん、僕にも』
「だっ、誰なの?何!?」
1人で騒ぎ出す私を見て、一瞬気味悪がっていた鮫島さんが憤怒に顔を歪める。そして、思いっきり私の腰を蹴り飛ばした。不意をつかれた私は、そのまま床に倒れる。
「なんなの?何なんだよお前!馬鹿にしてんのか!!」
胸ぐらを捕まれ馬乗りにされる。殴られる、そう思ったが体はろくに動けなかった。
「はーい、ちょいまちー。ねぇー、サメぽよちょいオコ過ぎぢゃね?引くんだけど笑 つかさ、ここローカだしー、うっさくて授業受けらんないんすけどぉ」
鮫島さんの拳を長いネイルが包んだ。見上げると、少しおとなっぽい女の子がスマホをずっと弄りながら独特の口調で話していた。背も高いし、服もオシャレだし、なんと言うかオーラをビシバシ感じる美貌を持っている。鮫島さんも気圧されて慌てて拳を収めた。でも、退いてはくれなかった。
「す、すみません……」
「ん!別に敬語ぢゃなくていーし!ウチも一年だし! てか、サメぽよは何でそん子と喧嘩してるワケ? なんかちじょーのもつれ的な感ぢぃ?」
「別に、あ、貴方に関係ないじゃん!」
同輩と分かれば直ぐに強気に声を上げる。鮫島さんは弱いものには強めに、逆に立場が上の人にはとことん媚びを売るタイプだ。世渡りが上手で中学高校もそれで先輩や先生達には優等生と見なされ、友達も多かった。
突然口調を変えられてもその子は相変わらず気だるげにスマホをいじり続けながら少し鼻に皺を寄せた。つけまつげとマスカラで剣山みたいになった目がぐわっと見開かれる。
「は?何?関係ないからって喧嘩止めちゃダメなわけ?まぢイミフ。おやじるヤバみなんだがWWWてか、立ちなー?2人とも服汚れんのまぢ嫌っしょ? てか、喧嘩なら表出ろし」
「う、うるさいな!もう辞めるから良いでしょ」
「とりまインスタ上げていー?喧嘩止めたウチまぢ卍ってしたいー」
「しなくていいでしょ!何こいつ、いこ、みんなっ!」
相手にならないとでも判断したのか、鮫島さんは私を床に押し付けたままそそくさと出て行った。その背中を見つめながら、私は床に散らばった自分の荷物をまとめた。
「大変だね。入学式早々に喧嘩になっちゃうなんてさ」
さっきの口調が嘘のように、心から気遣うような声で私を助けた女の子は一緒に物を拾うのを手伝ってくれた。その手にはトランポリンのレオタードや髪留め、練習曲のCDが抱えられている。それを受け取って、手提げに押し込んだ。
「つか、何で喧嘩になっちゃったん? 何か、解決になるよーなことあったらウチも力になるよ」
喧嘩。確かに初めはそうだったかもしれない。でも、もう「あの時はごめんね」では済まないところまで関係は拗れてしまった。もう、誰にも止められない。私にも、鮫島さんにも、親でも、先生でも、警察でも、この子にも……。もう、元には戻せないんだ。
そう実感してしまい、私は荷物を抱え込んで、俯いたまま「ありがとう」とだけ返した。
「んじゃ、ばいちゃ! またどっかでね!」
少しくすんだピンク色のふわふわした髪が翻り、周囲に甘い匂いが弾ける。彼女はさっぱりとその場から遠ざかりながらこちらに手を振る。私も相手の顔色を見ながら小さく手を振り返した。そして、彼女が見えなくなってから急いで辺りを見渡す。
鮫島さん達は戻ってきていない事にホッと胸を撫で下ろす。気持ちを切り替えないと。でも、明日の心配が頭から離れない。
矢田先輩たちはともかく、今戸くんも、三峯君も、さっきの子も、こんな私を庇ってしまった。この学園の目の上のたんこぶ的存在を庇ってしまった。鮫島さんは人を誘導したり、仲間に引き入れるのが得意だ。そうやって、学校で気遣っていた人たちも、私と一緒になって虐められるか、彼女たちに逆らわないように傍観者になるか、加害者側に回るかだった。傍観者側になるなら、まだいい。でも、私と一緒に虐められることになってしまったら、なんて顔で謝ったらいいんだろう。
大学の外に続く道をとぼとぼ歩きながら、今日私の味方をしてしまった人たちに心の中で謝る。私の味方をしてしまったばっかりに、この先の学校生活が台無しになってしまった。謝るだけじゃもう取り戻せない。私は彼らに何をしてあげるんだろう。
駅に向かう人はまばらだ。背中の方から遠く予鈴が聞こえて、振り返った。あんなに希望を抱いて受験した大学が、あんなに輝いていたキャンパスが、巨大な怪獣の様にみえた。正門が牙をむいた口で窓ガラスから覗く人影が、私を狙って探す目玉に見え、私は逃げる様に参道に続く階段を駆け下りた。
この恐怖と圧迫感は小学校からだ。でも、お父さんたちに心配かけたくなくて、何度もあの口に身を捧げていた。あの口の中に居る時、私は殺された獣肉の気分だった。私はもう死んでるからと、何も感じないふりをして、一人トイレで涙をのんだ。逃げ込んだ保健室も、長居は出来なくて、何度も何度も奴らに咀嚼され続けた。
息も絶え絶えになりながら、改札に定期券を叩きつけて、駅の階段を駆け上がる。怪物は幸い追ってはこないが、ホームの上からでもその姿が見えてしまった。怖くて、柱の陰に身を隠しながら電車を待つ。
息がしづらい、周りの音がやけに聞こえてくる、足が震えているのはここまで全力疾走したからじゃない。シャツの上から高鳴る心臓を握りしめながら小さな声で呟いた。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ、出雲。Let’s hear your yell. Come on fans stand up and yell.
Ready?」
顔を上げる。目の前には滑り込んできた電車。そう、私を応援してる人がこの世界にはまだ居る。そこに私を応援する誰かがいる限り、私はその人たちにエールを送らなくてはいけない。その応援に応えるために、今日も飛ぶのだ。
開いた扉に足を踏み入れた瞬間に、恐怖心は消えた。逃げ切ったのだ。もう、大丈夫。けど、振り返る事は出来なかった。
初めて一通りの授業を無事に終えた、僕、今戸真雄人は帰路に就く前に聖徒会の部室の前に来ていた。
「あ! マオ!」
扉を開けようとドアノブに手を掛けたところで、武尊が飼い主を見つけた大型犬の様に友達の列から外れてこちらに走って来た。もうそろそろ成人を迎えるというのに、彼は小さな子供の様に、大きな体のまま僕に抱き着いてくる。当然僕は吹き飛びかける。
「マオもここに来たんだな! いやぁ、嬉しいな! 俺達ずっとクラブも部活も別々だったじゃん? 何気初めてだろ、一緒の部活に入るの!」
「確かにそうだけど、く、苦しいし熱いんだけど……!」
っていうか、鬱陶しいし気恥ずかしい……。誰も居なくなった廊下だからいいけど、こんな所誰かに見られたら死ぬしかない。というか、こいつよく男同士で抱き合ってっていうのに抵抗ないよな。陽キャの認識では普通なのか? 精々肩を組んだり、グータッチぐらいだろ? 普通は。
顔を摺り寄せて来る武尊の顔を押しのけて、部室のドアを開ける。
「お~…………おん。いちゃつくなら扉開けたらアカンよ?」
「御機嫌よう。仲良しだね、二人とも」
よし、こいつ殺して僕も死のう!
物凄い晴れやかな気持ちでそう決意した瞬間、武尊も羞恥心をいい加減感じたのか、僕を投げ落とすように手を放した。その腹に、やっと思いっきりグーパンを食らわせる事が出来た僕は、死を考え直した。
長机が二つ向かい合わせに付けられた席の端に宝石を弄んでいた矢田先輩が長い足を机から降ろす。
「まぁ、仲間同士仲いいのはええこっちゃ。ささ、座って座って!」
「お茶の用意ももう出来てるよ。お茶菓子はとらじのどら焼きが良いかな? おせんべいもあるよ」
「あ、お構いなく」
そう呟いた時には湯飲みに入った煎茶が湯気をゆらゆら上げていた。その横には如何にも高そうなお煎餅とどら焼きが木皿に乗っていた。武尊は遠慮がちに、しかし大胆にお煎餅の袋を開けた。
「んで、今日来てもろたんは、今後の活動方針と君ら以外のアニマの捜索、それと新メンバーのケルくんにワシらの少しだけ細かい概要を伝えるっちゅーんが目的や。オトくんは復習やと思うて聞き逃さんようにな」
「分かりました」
「うん……。ってお前はなんで今寝ようとしとんねん。自分、鳥頭やなんやから何べんでも聴きや!耳にタコ焼きが出来ても聞くんやぞ阿保!」
「うぅん……日が落ちてきて、眠いよ……」
「蜜豆やっから気張れ阿保」
向かいの畳に寝転んだ三宅先輩の尻を容赦叩きながら、矢田先輩は呆れて戸棚から袋に入った蜜豆を取り出し、中央のミニテーブルに置いた。そして武尊の前にどっかりと腰をおとすと、空気を換える様に手を大きく打ち鳴らした。
「さっ、んじゃ、アニマっちゅーんは何かってところからやな!」
そこからは、昨日と殆ど内容が同じ説明だった。アニマと靄から生まれたモヤッキューという怪人。アニマとアニティアという異次元に存在する世界。三宅先輩や僕が補足しながら、武尊に説明する。武尊は一通りの話を聞き終えると、三杯目のお茶を飲み干して腕を組んだ。
「つまり? 俺は別世界の神様に体を貸して、この世界を乗っ取ろうとする悪者をマオ達と一緒に戦って追い返すなり封印するなりすると。んで、それには神様に体を乗っ取られたり……戦闘で命を落としたりすることもあり得ると……」
獲物を見つけた肉食獣の様な、悪さをした子供を発見した父親の様な、そんな重圧感がある目がこちらをぎろりと睨んだ。
「マオ、お前また自分さえよければって考えでこれ引き受けただろ」
「……ご明察です」
「何がご明察だよ! 全くお前はいつもいつも! お前が死んで守られて、その後のこともちゃんと考えろっての! 確かにお前の正義感は立派だぜ? でも、死なれたら親父さんやここまでお前を生かしたお袋さんの思いはどうなるんだよ! お前の死は、そんなに軽いもんじゃねぇんだからな!」
「うーん、鮮やかな正論だね」
「ど正論中のど声論やな」
暢気にお茶を啜っていた先輩に容赦なく、武尊は人差し指を向ける。
「あんたらが元凶だよ! 人のいいマオを利用しよってからに! どうせ、お前がやらないとお友達が不幸になるぞって言って脅したんだろ!」
「うーん、怖いくらいの大正解」
「なんや自分、エスパー?」
「こいつの幼馴染で、監督役!」
フーと息を吐いて、武尊はソファーに腰を戻した。少し、真剣に考え目を閉じた後絞り出すように言う。
「こいつ一人だと、絶対暴走する。仕方ないけど、俺も戦います。でも、これは誰かの願いとか、頼られたからじゃない。俺が俺の為に、俺が後悔しないように選ぶから。だから、マオ!」
武尊は僕の肩を捕まえてしっかり目を見て言った。
「俺の前で自己犠牲は絶対やらせないからな。お前も、お前の為に戦えよ。お前が生き残る為に戦うんだぞ!」
「……うん」
矢田先輩がそうだと全肯定するように、力強く何度も頷いた。その隣で、嬉しそうに微笑む三宅先輩。
「ま、ほんなら歓迎すんで、二人とも! 精々生き延びようぜ、なぁ」
「ほほほ、そうだね。その為に今後の方針を決めよう。今、敵勢力もこちらの様子を伺っているいわば偵察期間だ。怪人の精度も下の下くらいで、一番強かったのは私達が戦った刀剣の怪人だった。恐らくあの時にアニマの拠点ごと墜とすつもりだったんだろうね」
「せやな。敵は今人材集めと情報集めを行っているんやとワシも思っとる。下手に動きはせず、指導者は雲隠れしてる。けど、ワシらには先代の記録っちゅーもんがあんねん。せやから、何処が導火線か、よぅ分かっとるんやわ。でも、そいつらが今どこで、誰と繋がっているのかは分からんねん」
「だから、こちらも情報収集と人材招集を徹底しようと考えている。そして、君たちは恐らく戦闘に一切不慣れだ。一時的に神と一体化し超人的な能力や身体能力を得たとて、精神は一般的な大学生、未成年だ。二人とも、見るに本気で殴り合いをした事はないと見える」
三宅先輩は普段のおっとりした口調とは裏腹に、鋭い視線と指摘をしてきた。その時、武尊が手を上げた。
「あ、でも、マオって実は幼少期に近所のお兄さんの影響でボクシングを習ってましたよ」
「だろうね、さっき君に当てたパンチの動きで分かったよ。でも、多分あの動きじゃきっと一回戦落ちだろうね、キレがなかった」
まさか……あの平和主義で噂が立つ、僕よりも人を殴る経験が少なそうな三宅先輩からそんな言葉を聞くとは。僕と武尊は顔を見合わせた。武尊も目と口をあんぐりと開けている。
「驚くのも無理ないけどな。この阿保、実は合気道やら柔道の有段者なんやで? それに親父さんは海軍将校でばりばり現場の指揮を取っとる。肉体戦……いや戦闘にはこの中の誰よりも群を抜いとるわ。ワシも昔はやんちゃしとったけど、ゆうても知恵を使った奇襲や不意打ちが殆ど。それに昔こいつと本気で殴り合って頬の骨と鼻の骨折られた事あんねん」
かんらかんらと懐かしそうに矢田先輩が笑う横で、少し悲しい顔で微笑みながら三宅先輩はやんわりと制止する。
「あれは小学校低学年の時の話だろう? 実のところ、私は武力より対話で平和を作りたいんだ。武力は早く強いが、使い方ひとつで全てを破壊し、辺りに不幸をまき散らす災いになりかねない。それは、身をもって学んだよ。対話は長いし、その一つ一つは弱いがそれを重ねる度強くなる。それは、人との信頼と絆だ。武力にはそれらが一切ない。でも、イザとなったらやっくん一人でも守れないといけないから、習得したというだけさ」
「やっくん?」
「その呼び方やめぇゆぅとるやろが……」
ぼそっと本当に聞こえるか聞こえないかの声で、矢田先輩が零した。心なしか普段の笑顔が剥がれて、口を尖らせて不服そうだ。
「脱線してしまった。でね、話を戻すと、君たち二人から順番に戦闘訓練もしていこうと思う。自分や自分の大事なモノを守るためにも、その心得は必要不可欠だ。事前にOBからも援助を受けられるよう、私の方からもお願いしている。と言っても、いきなり殴り合いをしろとは言わない。まずは基本の型や体力づくりからだよ。武尊君は確か、野球部だったよね。でも、今はやってない。筋肉は使わなければ脂肪になってなくなってしまう。体力も同じだ。まぁ、放課後こうやって集まってジョギングや筋トレを週一で行うくらいだ」
良かった。武尊の前の部活みたいに毎日街を一周だったり、腹筋500回とかやらされるのかと思った。隣の筋肉馬鹿は何処か不服そうだが。
「あと、君たちには神の鱗片にも訓練でなれてもらう」
「鱗片……?」
僕が首を傾げた瞬間、遠くで救急車の音がした。その瞬間、武尊が突然立ち上がる。
「武尊?」
目を剥いて鼻を小刻みに動かして、そわそわと周囲を見渡す。そして突然上を見上げ、大きく息を吸い込んだ。
「アぉおおおおおおお――――――――――――――――――――――――ッ!」
「!」
突然の咆哮に僕はソファから落ちた。きょとんと小首を傾げる三宅先輩の隣で、お茶で口を湿らせた矢田先輩がピッと吼え続ける武尊を指さした。
「これ、これが神の鱗片。所謂、動物の神様の本能が所々魂に残ってしまってる様子を指すんだ。オトくんも経験あるやろ?」
「僕が? っていうか、五月蠅いよ武尊!」
僕がやつのジャージの端を引いても、武尊は構わず吼え続けている。まるで躾のなっていない大型犬だ。僕が腰を殴ろうが、頬を抓ろうが止めない。そんな様子を呆れたように矢田先輩は首を振った。
「アカンアカン。一番最初の発作はそんなもんで収まらんよ。でも幸い、サイレンで共鳴して遠吠えしてるだけやし。サイレンが聞こえなくなれば静かになるやろ。反応するとはいっても人間や。一瞬でも理性が戻ればええ」
サイレンは遠く消えて行っている。完全に聞こえなくなって、二三回吼えた後で、武尊は少し悲しそうな表情で吼えるのを止めた。そして、我に返ったようにハッとして顔を上げて辺りを見渡した。
「お、俺は……一体、何、を……?」
「めっちゃ遠吠えしとったよ」
「めっちゃ吼えてた。というか、自分で気づいてないのか?」
僕が詰め寄ると武尊は困惑した顔で首を横に激しく振った。その時、武尊の青い髪に変化が訪れる、その毛先や毛の間に急激に白い毛が混じり始めたのだ。そしてそれはまばらに、だが着実に全体に広がる。驚いて頭を見上げてる僕に気付いて、武尊はさらに不安げに眉を寄せた。
「今度は何?」
「何か、髪の先が白くなってるぞ? なんだこれ、病気か?」
「は? ってか、それを言うならマオ、お前も昨日突然蝶にじゃれついたと思ったら髪が赤と茶色に分かれて言ったぞ?」
「え、そうだったのか! これ見間違いじゃないのか!」
または、赤須ってやつがこっそり仕掛けたドッキリじゃないかと思ってたけど……。
「まぁ、髪なんてどうでもええ。ワシらは今人間の心と動物の心が同居して、椅子取りゲームしとるような状況や。とあるきっかけで心、いや魂が動物に乗っ取られる。その時ワシらの意識は無くなり、神の姿と程なくして近くなる。そして、その状態のまま放置すると肉体まで神に取られ、この世に留まらなくなるんや」
「か、神に取られるってつまり」
「そう、あの世に身体ごと連れていかれる。つまり死ぬって事だ」
何を物騒な事を和やかな笑顔で言ってんだこの先輩は。あと、髪の件はどうでも良くない。でも、この戦士になるってこんなに代償を伴うのか。戦っても死ぬかもだし、神様に気付かず放置したらいつの間にかお陀仏になるし。何より意識がない時にほな事情を知らない人がその光景を見たら警察と精神病院の行き来だけになりそうだ。親に泣かれるなんてもんじゃない。
「せやけど、それを特訓と動物化で制御できる。ついでにそれが出来れば自分らの性格コンプレックスも改善されんねんで! それに魂を二分化させるのも悪ないで? 動物と同じ身体能力や運動神経、超常的な神の力も貸してもらえんねん」
そう言って矢田先輩はな黒いピッタリしたトレーナーの袖を捲った。そこにはまばらに生えた黒い羽があった。
「ワシらは羽を生やして飛ぶ事が出来んねん。体力ゴッツ使うんやけどな」
「あと、僕は言霊と、やっ……矢田くんは風読みが使える。過去の戦士の記録から多分真緒人くんは灯籠、武尊くんは操水が使えると思うよ」
なんか、名前はかっこいいけど音だけでは何が出来るのかよく分からない。けど、そういえば昨日矢田先輩がこっそり見せてくれたなぁ。羽の振動でどんなに遠くの音も聞くとか、気配を察知するとか……。そっか、それが僕にも使えるようになるのか。
「すっげ……マジでヒロアカとか、チェーンソーマンとか、漫画みたいな展開!! こりゃこの後可愛いヒロインが仲間になって、南の島とかで修行とかしちゃったり、エロい女エネミーとの恋とか始まるのか!うぉおおお!!激アツ!激アツ展開待ったナシだ!よっしゃ!!」
興奮冷めやまないまま、拳を振り回していたら、背後から生暖かい視線を感じて我に返った。
「おお、なんやなんや。普通は結構ボケーとしたり、怖がったりするんやけど、えらい興奮しとんな」
「あいつ、チビの頃からヒーローに本気でなろうとしてたんすよ。その為に人命救助のボランティアとか、ボクシングとか色んな事に首突っ込んだりしてて……でもことごとく玉砕してたんすよ」
「カッカッカッ! なるほどだから、ボクシング! へー?ケルくんもっと聞かせてぇや」
「たっ、たける!おまっ!何、人の黒歴史バラしてんだ!! やめろ!」
「大丈夫、大丈夫。すぐ忘れるわ、ワシら鳥頭やし、な!」
「じゃあ、その高速で動く指とスマホはなんです?」
矢田先輩は口笛を吹いて左手をポケットに隠した。その横ですっかり飽きた三宅先輩が5袋目の煎り豆の袋を開けて、それに気付いた矢田先輩にぶんどられた。夕日が窓の向こうの灯台から消えていくのが見えるなか、三宅先輩が湯呑みを置いた。
「ま、能力の話は後にして、直ぐに君らにはやってもらいたいことがあるんだ。君たちも住吉出雲という女の子のこと、知ってるでしょ?」
三宅先輩が突然切り出した。その名前に僕らは聞き覚えがある。
「出雲が、どうしたんです?」
「矢田くんがね、アニマの予兆を彼女から察知したみたいなんだ。でも、彼女の周りはモヤになる心の持ち主が常に張ってる。だから君らでそのモヤを事前に遠ざけて欲しいんだ。あのままじゃ、モヤッキュー化も考えられるし、真っ先にモヤッキューに殺されてしまうだろうね。一応加護の印としてアニマストーンを私達から渡しているが、彼女自身まだ自分が何者であるか理解していないんだ」
そりゃ、突然戦士だなんだって言われても普通の女子大生がそうですかとはならないだろう。
武尊もそう思ったようで、気まずい笑顔で場を取り繕っている。三宅先輩は僕らの肩を叩いて言い聞かせるように言った。
「頼んだよ、彼女は先の戦いで欠けてはいけない人材だ」
あの朗らかな彼からは分からないほどの重みが背後から感じる。僕らは喉を鳴らして体を硬直させた。もう、これはハイと言わないといけない空気。と、とんでもねぇぞ、この王子!
「おーい、勇翔。おみゃぁ、まーた親父さんムーブでとるよ~。一年めっちゃ怯えとるぞ~」
「あららら、ごめんね。ついうっかり」
「ついうっかりで軍の上層部的威圧を出さんで下さい、死の気配を感じます」
「僕も、命の危機を感じました。出雲をここの会に入れたいならその気配は一生閉まってください。彼女、物凄い臆病なので」
こんな先輩居ると知ったら多分、一生学校に来なくなってしまう。いや、家から出てこなくなるかもしれん。彼女、本当に初めて巣穴から出てきた子ウサギみたいだもんな。
「まぁ、そんな感じで今後やってくわ、ほなよろしゅう」
「よろしくね~。基本、私達はこの部室でまったりのんびりしてるから」
綿菓子の様な笑顔を振りまいて、三宅先輩は僕らを廊下まで見送ってくれた。
誰も居なくなった練習場に一定のリズムで鳴る、スプリングが跳ねる金属音。硬くて張った床を蹴れば、私の体は空まで飛ぶ。ずれない着地点、体を捻って風を感じる心地よさ、内臓が浮くスリルは癖になる。ここだったら、何時間居てもいい。学校なんて行かずにここでずっと跳ねていたい。音楽に乗って、軽やかに飛んで、自由に表現して、そうすればみんなが笑顔になる。みんながそんな私の演技を見て、勇気を貰ったりしてる。
でも……本当は、声でも、ダンスでも、私のエールを届けるようになりたい。もっと沢山の人に元気になって貰いたい。鮫島さんにも、今戸くんにも、三峯くんにも、矢田先輩や三宅先輩にも、もっと楽しんで貰えるようにしたい。
そう思って、私はトランポリンの練習を中断した。そろそろ、顧問から新しい練習の動画出てるだろう。やっと憧れのチア部に入ったんだ。休んでいたことでみんなの脚を引っ張っちゃいけない。何より、目を付けられてるんだし、より変に見られないようにしないと。
私はタブレットを開いて、チア用の練習ノートを手に取った。そこには鮫島さんのものと思われる汚れがあるが、軽く叩けば使えるものだ。
今日はエールとダンスか。噛まないようにしないと。ダンスは何回も踊って体に染み込ませないといけないな。振りも結構早いし、初めはスローにして動きを解析しよう。
「よし、まずはステップを覚えよう」
軽快なリズム、チームの明るい声、笑顔で楽しそうな演技。私も笑顔笑顔!嫌がらせとか、暴言とか、視線とかどうでもいい。私の応援で、選手を、お客さんを、コーチの人も、会場の全員を、元気にさせるんだ!
自作のポンポン持って、一人だって、練習は欠かさない。柔軟も、筋トレも、朝のランニングも、帰ってからの勉強の予習復習も欠かさない。こんなに努力すれば、いつか周りの目も変わってくれると思うから。
「出雲ちゃんも、アニマかぁ……。こりゃ賑やかになりそうだ」
すっかり暗くなった帰路。この島の夜は幻想的だ。平屋作りの商店街、赤い提灯みたいな低い街灯。大学もアトリエ棟や工学科棟がライトアップされて、その奥には観覧車や自衛隊基地の明りが見える。どっかの漫画の中みたいだ。
「出雲、かなり臆病なのに大丈夫かな。お昼も食べずに学校から出ちゃったし、泣いてたし」
「でもあの子、ああ見えて広島のトランポリン選手に毎回選ばれてるくらい、運動神経がいいんだよ。特にあの堂々とした演技は普段の彼女とは別人と思うくらいだ。しかも、大学じゃチア部の次期エースとか言われてさ、勉学も文芸学科を主席で入ったらしいんだよね。あの性格以外はもう人気者間違いなしの子なんだって!」
武尊が何故か得意げにそう言った。何処からそんな情報を仕入れたのかと思えば、その両手には学校のパンフレットを持っていた。チア部か……そう言えば、入学式そうそう食堂で女子の先輩がそんな事言ってたな。
「じゃあ、あの鮫島っていう人たちもチア部かね? 可哀そうだな、入学式からあんなのに目を付けられてるなんてさ」
僕はつい同情してしまった。折角のキャンパスライフがたった一つの事で壊れてしまうなんて、耐えられない。
駅の方に向かうと退社後のサラリーマンや買い物帰りの人たちでホームには溢れんばかりの人が居た。電車に乗れるか、分からない位の人も、東京のラッシュ時と比べると可愛いものだった。
「なぁ、出雲ちゃんの練習してる場所、俺、知ってんだよね」
「フゥン……ってマジ?」
僕が食いつくと、武尊は嬉しそうにニヤリと笑った。掲げた手には新体操教室のある神の塚総合体育館までの地図が表示された、携帯が握られていた。それを振りながら彼は尋ねる。
「上手いとんかつ屋も近くにあるし、夕食がてら見に行かね?」
電車に乗って、島の東側の住宅地近くに降り立つ。制服姿の学生やサラリーマン達の波に乗ってホームから駅舎の外へ。チェーン店やスーパーがある横にはアパートや一軒家が軒を連ねている。
「ここは中学校とか小学校とか幼稚園とかが集中してんだって。だから、地価も高くてよー、お金持ちが多いらしいぜ?」
隣で只管喋り続ける武尊を適当に流しながら、ナビの示す方角へ足を向ける。駅から離れれば離れる程人がまばらになり、家の明りと黄色の灯篭の様な街灯だけになっていく。ここは大学前とは違って階段や坂が少なく、なだらかな坂になっているのは、とても住み心地が良さそうだなと思ってしまう。
家から香る夕食の匂い、テレビの音、人々の楽しそうな会話、光が漏れていた窓が動いてカーテンが閉まる。誰かのただいまに、おかえりの声。フライパンを振るう音、炊飯器のタイマー、子供を叱る音、二階の子供を夕食に呼ぶ声、赤ちゃんの腹が減ったと泣く声。
ここはこんなにも賑やかだったのかとしみじみと感じながら、どんどん奥まった所へ進んでいく。人の声が遠のいて、代わりに何かの音楽が近づいてくる。
スニーカーの滑る音と弾む様な息使い。この匂いを、僕らは知っている。
「着いた着いた、ここの二階に観覧席があるから行ってみようよ」
総合体育館と書かれた門を過ぎて駆け出す武尊を追いかける。ホールにまで聞こえてくる元気な掛け声と軽快なリズムにこちらも体が自然と動いてしまう。二階の高い場所に出ると、一人の少女が汗を輝かせて、弾ける様な踊りを踊っていた。中央には巨大な競技用のトランポリン。其処には乗らず、床の上でも美しいジャンプやバク転を披露する、長い黒髪の少女。昼間のおどおどした表情とは一変して、溌溂とした明るい表情に圧倒される。
クラップ、英語のエール。あの子は、こんなに大きな声も出来るし、あんなに手足も長かったのか。さらには、連続の大技をミスを一つもせずやり遂げ、拳を掲げてポーズも決める。
「すっげぇ、なんか、こっちも興奮するな!」
「うん、僕も何か踊りたくなってくる」
レオタードにポンポンだけ持って、踊り続ける彼女は1人でも物凄いエネルギーを放って居た。曲が終わる前、バク中で後ろに飛ぶとI字バランスでポーズを決め、一息ついて足を下ろす。
思わず、拍手をしてしまった。彼女が驚いてこちらを見上げる。武尊が差し入れのスポーツドリンクと、商店街で買ったとんかつを、僕がコンビニで買ったレモングミを掲げて手を振った。
「ど、どうして二人がここに……? あ、文房具ですか!?」
外のロビーで待ち合わせし、開口一番出雲ちゃんが慌てたようにそう言った。武尊は穏やかな笑顔で「いいよ、いいよ」と手を振った。
「じゃあ、どうして」
そう言って僕を見た。正直に三宅先輩から聞いたことを話した方が早いかな。でも、あんな突飛な話、直ぐ受け入れられるとは思わないけど。
「えっと、ちょっとたまたま通りかかってさ。た、武尊がこの場所で出雲ちゃんが練習しくてること知ってて」
「結構有名だよ? てか、出雲ちゃんチアの練習もしてんだね! すっごかった! カッコ良かったよ! おれも、野球してたらアレを一身に受けられたんだなぁと思うと悔しいなぁ」
本心だろう。夜空を仰ぎ、ため息の様に零した武尊の声は風にかき消された。同意の言葉を掛け、奴の尻を蹴り上げる。あんなエールを見てた癖に、おセンチになんてなってんじゃねぇぞ、そう言いたかったが本人の前だと恥ずかしかった。
だが、出雲はバツが悪そうに、というか、野獣に怯える様に上半身を丸めて、辺りをしきりに見渡していた。目は不安に震えるように動き回り、その縁には涙が光っていた。
僕はその手を無意識のうちに握っていた。いや、意識はしていた。燃える様な、火花の様なしかし、花火の様な、強烈な意思があった。頬が熱い。耳が熱い。その熱を帯びたままの言葉をはっきりと口に出していた。
「大丈夫。もう、怯えなくていい。僕が、僕らが絶対に君らを守るから」
「そーだよ、出雲ちゃん! だから、一緒にメシ、いこーぜ」
彼女の瞳が僕を映す。満点の星の様な瞳が溢れ、頬を滑り落ちた。一瞬、手を振りほどこうと腕を引きかけていたが、ふるりと震えたそれは恐る恐る僕の手を握り返した。
「私なんかを……いいの?」
「「勿論」」
武尊と声が揃った。出雲は何度も涙を拭いながら噛み殺した嗚咽を零す。そこには色んな思いがあるんだろう、でも、その全部を取っ払って、僕は言いたかった。
「だって、僕ら友達じゃんか。なら、一緒に戦うのなんて当たり前だ!」
「だな!」
横から武尊も手を伸ばした。出雲はおいおい泣いていた。何度も何故か謝っていた。
帰りの電車の中、私は人の少ない車内をぼーっと見つめていた。まだ、鼻が詰まっていて、息がしずらい。大会のチラシ、渡しちゃったな。二人とも、迷惑じゃなかったかな。
そんな後ろ向きな思いを悶々としながら、揺れる吊革に目を移した。
『良かったね、出雲』
隣の席を見る。誰も座っていない。ぞわりと背筋が逆立つ。
『出雲は世界中を元気にさせる力があるんだよ』
慌てて鞄を抱えて席を立つ。振り返ると、流れる夜景にぼんやりと、ウサギの様な影が見えた。緑色に光る目が真っすぐ私を見ている。
『みんなその力に嫉妬してるんだ。でも、それは素晴らしい事だ。だから、私も君に力を与えに来た。どうか、私を受け入れて、世界を守って欲しいんだ』
そう言われた瞬間、ブレーキがかかって体が揺さぶられる。振り返ると降車駅だった。私は走って電車から駆け出した。改札で足が縺れて転びながらも全力で家まで走った。走って、走って、走って、只今も言わずに自室に駆け込んでしっかりドアを閉めた。机の上のシャーペンを握りしめて、攻撃に備えるが全身が震えて言う事をきかない。
というか、ウサギ、喋っていなかった? というか、何であんなウサギ? どうして? そう考えた時、ハッと頭に浮かんだものがあった。カーディガンのポケットに手を伸ばし、貰った石を摘まみ上げる。もしかして、この石についていた……神様?
『ご名答! 私は、君の加護神だ! 私にも君を君たちを守らせてくれないか』
「いやあ!」
石を投げ捨てると、声は止んでしまった。つ、疲れすぎで変な夢でも見てるのかな。は、早くお風呂入って寝よう。大会も、明日はチアの合わせの日だし。早く寝ておこう。
今朝は、憂鬱じゃなかった。昨夜のことで何か変化を期待したのかもしれない。
「おっ? 今日は機嫌が良さそうだな。何かいいことあったのか?」
お父さんも少し嬉しそうに新聞の傍から顔を出した。お母さんはフライパンを今日も振るっている。卵の焼ける匂い。電気ポッドがポコポコ騒がしくなる。
「昨日は早く寝たからねー。どうしたの? 急に夕食いらないなんて。お友達、早速作れたの?」
「うん。実は」
後ろめたいことはないのに、どこか気恥ずかしい。でも、その事実がきっと私の憂鬱を吹き飛ばしてくれたんだろう。味方が居るって凄いなぁ、友達って凄いなぁ、朝がこんなにウキウキする日が来るなんて思ってもみなかった。不安はまだあるが、早く二人に会いたい気持ちの方が強い。
「今日は食べるの早いわねー。あ、今日はチア部の日か!」
お母さんの言葉に箸が止まった。憂鬱がジワジワと姿を現し始める。視線を落とすと手のひらが映った。昨日はこの手を家族以外の人が握っていた。大きくて分厚くて暖かい男の人達の手。
『僕らが絶対守るから』
嘘じゃ、無いよね。あの目は勇気と正義感に満ち溢れていた。そういうことを言って歩み寄ってきた先生やカウンセラーは居たが、どこか他人行儀で、他人事で一枚見えない壁が間にあるようだ。でも、彼は確かに私に触れていた。私の心に触れていた。
「出雲?」
「……うん? ごめん急いで食べすぎて喉に詰まっちゃったみたいで」
和やかな空気を壊さないために笑う。家族も安心したように微笑を浮かべる。
「もー、せっかちさんなんだから。あ、嬉しい事ついでにね、良いものがあるのよ」
お母さんはそう言ってダイニングの壁際にある納戸を開けた。腕に綺麗なスパンコールのついたレオタード。もう一方には必死に隠していたチアの衣装があった。
「練習、ハードなのね。ほつれがあったから、大会の衣装ついでに直しちゃった。はい、出雲、練習頑張ってね」
「あっ、あ……ありがとう! お母さん!」
みたんだ。切り刻まれたチア部のユニホームとか、破られたノートとか、折られたおばあちゃんに貰ったシャーペンとか、全部見られたんだ。バレてしまったんだ。
「可愛いでしょ。お母さん、頑張ったのよ」
嘘だ、泣いてたんだ。目の下が赤黒い。化粧で隠しきれてない、泣き跡が普段は分からないのに嫌に目につく。お父さんにも相談したのかな。どうしよう、私どうやって明日から笑えばいいんだろう。
「ありがとう、嬉しいよ、私」
「よかった。ねぇ、出雲。もしも、もしもね、どうしても部活が大変なら、お母さん辞めてもいいとは思うわ。 お母さん、ちょっと心配」
「大丈夫! 私、チア、好きだから!」
そう、チアは好きなんだ。チアで辛いことは何も無い。でも、そうじゃ無い。そうじゃ無いから。私は勢いに任せて貰った衣装を鞄に押し込んで、家を飛び出した。否、逃げ出した。耐え切れなくて、脱兎の如く逃亡した。
「おーっす!いーずもっちゃん!」
「ぴゃあ!」
初めの授業は三峯くんと同じだった。というか、この授業は全学科の一年生は必ず取らないといけないものだった。
「お、おはようございます」
「おはよ! 隣座るね! 今日は筆記用具大丈夫?」
「はい……。あの、昨日はどうもありがとうございました。これ、お返しします」
鞄から周りに見られないように机の下でこっそり渡す。三峯くんはなんでそんなひっそりやるのー?と不思議そうだ。この人は多分ここまで生きてきて一回も虐められた記憶がないんだろう。羨ましい。
「出雲ちゃんて、どこ住んでるの? 電車逆方向だから、四猿方面?」
「いえ、睦巳です。睦巳の、山側」
「へぇ!結構遠いんだ」
他愛ない会話をしながら周囲の警戒は怠らない。おかしい今日はやけに静かだ。後ろをむくと彼女達は来ていない。その時三峯君が携帯を差し出した。
「今日は鮫島さん達はサボって広島の方に遊び行ってるみたい。だから、今日は平和みたいだよ」
そう言って画面に綺麗なスイーツの写真に鮫島さんのカバンが写った、インスタの投稿を拡大させて見せてきた。三峯くん、友達王と呼ばれていたけど、彼女のインスタまでちゃっかりフォローしてるとは。人脈と顔の広さに私は呆気に取られる。
「出雲ちゃん、LINE交換しよ。なんかあった時助けを呼びやすいでしょ」
「え!私なんか、良いんですか? そんな、直ぐに私返信しないし、話してもつまんないかもだし」
「そんなの、マオもだよ!俺はめっちゃ返信早いらしいけどさ、別にそれを他人に強要するつもりはないから!一応、一応やっとこ!」
屈託ない、大型犬を思わせる優しい笑顔に私もちょっとときめいてしまう。よく見れば、彼は鼻筋も通っており、目も切れ長で大きめで、彫りも深い。体格もよく、腕は太く引き締まり、首筋も太くハッキリしてる。今戸君とは対象的な姿だ。
「今日、放課後暇?マオも誘ってさ、お茶しに行こうよ」
「えっ、あっ、ご、ごごごめんなさい。私、部活が」
「チア部の?昨日めっちゃ練習してたもんね!じゃあ、練習終わりに迎えに行くよ」
「ひええ!?そっそそそっ、そんなっ、悪いです、私なんて気にせずお2人で遊びに行ってください!私なんて、構わなくて良いので、本当に!」
「でも、昨日約束したじゃん? だから、なんと言われても俺ら行くからね」
三峯くんは淀みなくそういうと、QRコードを読み込んで、ポンと私にスタンプを送ってきた。オオカミみたいな犬のキャラクターが、「よろしくね!」と弾けるような笑顔で言ってる。私は慣れない手つきで友達登録すると、頭を下げるスタンプを送った。
「あれ? 出雲ちゃん、もしかしてあんまスタンプ持ってねぇの?」
「滅多に使わないので」
使う時は家族や親族、部活の顧問とかだけだ。あとは、クーポンとかそういう企業の公式LINEだけ。中学になったら、高校に上がったら、大学になったらと期待して居たがそれは悉く打ち砕かれたのだった。あと、LINEだとあっという間にいじめのターゲットになる。
「そう……。んじゃ、これからLINEの練習も兼ねて毎日なんか送るわ!このアカウント、マオにも教えていいよね!?」
「ふぇ!? そんな、悪いですって!私なんて必要最低限のことで大丈夫なんですから」
「ええ? もしかしてこういうの苦手? なら送らないようにするけど」
気は使ってくれているんだろうが、寂しいという気持ちが顔や仕草に全部出てしまっている。遊ぶのを断られた大型犬みたいに太めの眉を下げて、口も少しへの字にして、悲しそうに少しつり目ガチの目が下がっている。そんなん見せられたら断れるわけない。
「に、苦手じゃないですけど、その、三峯君が身体とか壊しそうで……。ら、LINE楽しみにしてますね」
「本当?分かった!面白いの撮って送る!」
さっきの表情とは打って変わって、パッの全パーツを開いてしっぽを振ってる幻覚まで見える。喜びがこんなに全面に滲む人中々居ない。素直で少し羨ましいと思えた。
「マオ、今日は別棟で授業あるみたい。この後合流だね!」
「は、はぁ」
誰かと授業なんて、なんか、ちゃんと青春してるみたいだな。静かで平穏な大学を初めて実感しながら、時々刻々と部活の時間が迫っていた。
重い体を引きずるように、チア部が練習してる第2体育館の戸を開けた。仲良く話していた子達が一斉に私を見て静まり返った。私は萎縮して、体を出来るだけ小さくなった。
「あいつ、サボってんのに、よくこんな堂々と出来るよね」
「根性すご。だから、鮫島さん達にハブられてても平気なんじゃん?」
「逆にそんけーするわ」
わざと聞こえるような悪意の篭った内緒話に、心が薄く何度も切りつけられるような思いになる。俯くと涙が零れるから、必死に前を向いて体育館の隅に、荷物を隠すように座り込んだ。まだ鮫島さん達のグループは来てない。ホッとしながら急いで髪をまとめて、眼鏡を取ってコンタクトに変える。更衣室を使わない早着替えはお手の物だ。この後ストレッチやウォームアップもしなくちゃいけないが、鮫島さん達が来るとそれも難しくなる。なので人の何倍も急いで準備しなくちゃいけない。
ユニホームを取り出そうと思ってカバンを開けたら、思わぬ物が目に入った。胸元にライドグリーンのスパンコールと枝と草をイメージしたビーズ刺繍の入った、真新しいレオタード……お母さんの作った、トランポリンの大会衣装だ。
音を立てて血の気が一気に引いた。こんなの、見つかったら大変だ。必死に足りない頭をフル回転させて、考える。考える。考える。考える。
鮫島さんは多分私の鞄を隠したりしに来るだろう。だから、水筒とタオルだけ置いて、先に鞄を隠そう。周りに見られないようにこっそりと、舞台裏のパネルと壁の隙間に授業用の鞄と着替えや眼鏡が入ったトートバッグを押し込んで、更にそこを演劇部の小道具などで上手く覆った。
これで少しは時間が稼げるはずだ。仮にトートバッグを取られてもレオタードだけはもっと奥に隠した。これでバレないはず。
「はぁ、もう、私ってなんでこんなにドジなの……」
ため息と共に肩を落として倉庫から出る。すると突然、胸がざわめいて、私は顔を上げた。
「ギャハハ、マジで?ウケんだけどー」
大声で話しながら、ショッピングバッグを両手に沢山ぶら下げて、鮫島さんが入って来ていた。私はなるべく息を潜めて、倉庫から離れた遠くの隅に腰を下ろす。タオルを被って、気配を消す。
が、目ざとく彼女は私を探し出す。
「あんた、サボってた癖によく来れんよねー。マージどんな神経してんの?流石ビッチ、みーんなに愛されたくて仕方ないんだァ?」
たった一回自分の好きだった男の子から私が告白されただけなのに。
「相変わらず暗っ。本当こいつ居るだけで部内の空気悪くなるんだが」
無茶苦茶な理論で懸命に私をこき下ろす。相手にしちゃダメ。泣いたり反応しちゃダメ。アイツらの喜ぶような事はしちゃいけない。
笑いながら去っていく彼女達はふと、体育館倉庫前で立ち止まる。扉が少し開けっ放しだ。心臓が瞬時に凍り付く。
「あれ?ここって開いてた?」
ダメ、ダメ。そっちに行かないで。見ないで。お願い、見ないで。
そう思っていたら身体は動いていた。甲高い悲鳴と自分の声が混ざりあって頭の中でワンワン響いた。
「何なのあんた!本当頭おかしいんじゃない!? あ、もしかして……」
「いぃいいやめて!!!何も無い!何も無いからやめて!! あう!」
しがみついたが簡単に振り払われ、体育館倉庫に人が雪崩込む。私は地面を這いながら鮫島さんの背中に飛び付いた。それを取り巻きの子達が二人がかりで引き剥がし、掃除用具の入ったロッカーに投げ飛ばした。その拍子に扉が空いて一瞬意識を飛ばした私の顔面にモップ達が降り注いだ。
「うわ、なんでこんなところにカバン隠してんの?何持ってきたのよ貴方」
「やめて……お願い……見ないで……」
鮫島さん達がぐるぐる回る。頭の鈍痛を噛み締めながら、必死に体を起こして、壁の隙間に隠した鞄を掴んで笑う鮫島さんの足にしがみついた。無条件に涙がボロボロ溢れる。鮫島さん達があー!!と声を上げてお母さんが作ったレオタードを引き抜いた。その顔は怪物の首を取ったような勝ち誇った笑顔だった。その腕に齧り付いて、体重全部かけて引き離そうとする。
「やめて!離して、返して!本当に、それは大事なものなの!返してよ!」
「はっ、センスヤバくない?!何これだっさー!!こんなもの着て踊るつもり?まぁ、尻軽女には丁度いいよね」
「なんでそんな事言うの!私のお母さんが頑張って作ったのにどうしてそんな酷いこと言うの!」
ピシッと空気が凍る音がした気がして、静まり返った連中に視線を上げた。鮫島さんが何故か物凄く傷ついた様な、悲しさのあまりに感情事何処かに落としてきたかと思うような、能面のような顔で私を見つめていた。
「酷い?」
能面が醜い鬼の顔に変わる。怒りで白かった肌が一瞬にして赤くなる。目が血走り、歪んだ口が大きく開いた。絶叫が体育館倉庫に響き渡った。
「憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いぃいいいい」
頭をかき乱し、足を踏み鳴らして、鮫島さんが絶叫し続ける。取り巻き達も驚きのあまり私のそばまで走り寄ってきた。髪を両手で引き抜いて、ボサボサになって顔全体を覆う髪の隙間から爛々と光る目が私を睨んだ。
「お前のせいだ。お前のせいだ。お前が私を不幸にした、私達の家族を壊したんだよ!お前さえいなければ!お前さえ……」
命の危機をその視線から察した。目を逸らしたら喉元を食いちぎられる。本能が警鐘を鳴らし続けている。私が壁に背をつけた時、鮫島の背後の天井の近くの照明が瞬いた気がした。
「出雲!」
「私さえ死ねば……?」
不穏な言葉と共に、真っ赤な炎を纏った今戸君が頭上から降り立った。メロン色に細い瞳孔、猫の様な目が私達を映す。
「逃げろ、こいつは今怪人になりかけている!」
「私の努力を、邪魔しないでよぉおお!」
鮫島さんの号哭に、喉が鳴る。その手には銀色に光る短剣が握られていた。あれには何度か見覚えがある。ここ最近、武器を自分に当てた人間達は悉く、化け物へと変貌していたから。鮫島さんには酷いことをされて、酷いことを言われてきた。けど、脳裏には小学校の時、男子に揶揄われて泣いていた私に、カワイイ鉛筆を渡してくれた彼女の事が脳裏を過った。
「渚ちゃん! ダメ! 自分の欲に……」
欲? 何で、彼女を暴走させた原因がそれだって、分かったんだろう。
冷静になった頭の片隅が、そう問いかけていた。でも、叫ばずにはいられなかった。
「なぎちゃん! 自分に負けないで!!」
だけど、私の言葉はあと一歩間に合わないんだ。鮫島さんが自分の首に短剣を押し当てた瞬間、真っ黒な血しぶきを上げる。悲鳴が耳を劈く。恐怖で腰が抜けた。そんな私を置いて我先にと部員たちや外で様子を伺っていた顧問や別の部活の人たちが逃げていく。
「出雲ちゃん、行くよ」
「待って、今戸君!」
扉から三峯君が飛び込んできて、私を抱え上げた。今戸君の頭と腰からは猫耳や猫の尻尾の様に燃え盛る炎が見えた。そして、その手にはあの赤い石が握られていた。
「駄目、あの子を、なぎちゃんを、傷つけないで……」
何を今更。一番最初に彼女を傷つけたのは私じゃないか。手を差し伸べた彼女を容易く裏切って、あの子の好きな子を手酷く振ってしまった。
彼女に虐められても、私は、本当は文句言っちゃいけない。いけないのに、私は心の何処かで鮫島さんを悪者にしていた。だから、怖くて、向き合えて居なかった。
巨大な銀色の木となり姿が完全に人から怪物になってしまってから、気付いた。後悔した。彼女を応援する気持ちが湧き上がってきた。ちゃんと向き合って、今度こそ彼女の恋を全力で応援してあげないとと思ってしまった。でも、全部が全部遅すぎる。
伸ばした拳は二人には届かない。私は、三峯君の胸に顔を埋めて怒りに絶叫していた。ナギちゃん、憎い。私も憎いよ。こんなに弱い自分が憎いよ。こんな時にも人に助けられて、ナギちゃんを置いて安全地帯に身を置くんだ。私はどうしても、戦えない。
「出雲ちゃん、俺さ、何にも事情とか分からないけどさ」
体育館の外に飛び出した、三峯君が少しだけ呼吸を乱して私に呼び掛けた。地面にそっと降ろされながら、私は彼を見上げる。
「出雲ちゃんはちゃんと戦えていたと思うよ。彼女の闇に負けないで、自分の悪いところも見つめて、誰も攻めずに、長く戦っていたと思う。それは凄い処だけど、でも、君は戦い方を間違えていたんだ。俺も、最近実感したとこだから偉そうなこと言えないけど、やっぱり言いたい事は言わないといけないんだ。どんなに怖い事でも、鮫島さんだっけ? 伝えないとと思う事は伝えないと。耐えるのも凄いけど、それじゃあ何も変われないんだよ。出雲ちゃん、君は鮫島さんとどうなりたいの?」
「もう、遅いです……」
「何で、そう思うの」
「だって、あんな怪物になっちゃって! 私を嫌いになっちゃって! 今戸君達、鮫島さんを倒すんでしょう? そしたら、もう二度と彼女に会えない!私は三峯君みたいに戦えない! 正義感も、誰かに頼られる責任感も、何もない! そもそも、もっと早く私が謝っていればこうならなかったの! 全部私が悪いの! 私が悪いから、私を鮫島さんに渡して、そうすればみんな」
「またそうやって自分の弱さを盾に、逃げるのか?」
刺す様な冷たい言葉に、一瞬涙も止まった。顔を上げると吼える直前の犬の様な顔の三峯君が私の肩を掴んだ。
「自分が悪い? だから、消えればいいって? 自分が傷つけばいいって? 違うよ出雲ちゃん! 自分が悪いと思ったなら誠心誠意謝るんだ! 自己犠牲は贖罪にはならない!そんで、謝るのに遅いも糞もあるか。謝らなきゃと思った時に伝えなきゃ、伝えたいときに言葉にしなきゃいけないんだ、それをいつまでもぐちゃぐちゃ言い訳付けて逃げるな!」
体育館の奥から轟音と土煙、そして赤い炎が見えた。三峯君も戦わないとこの場は持ちこたえられないと判断したのだろう。彼は私に何かを押し付け、体育館に顔を向ける。
「これ以上は強く言えない。どうするかは、君が決める事だ。でも、唯一だと思う。君の言葉でしか、彼女は救えない」
そう言って彼も首から下げていた青い石を引き千切った。その手には青い手帳型のスマホ。
「本当に命の危機を感じたら直ぐに、逃げてね。俺達でもどれだけ持つか、分からないから」
石を勢いよくスマホに叩きつける様に嵌め一回打ち鳴らすと、光る水の弾を空へ打ち上げる。滝のように落ちてきた水が晴れた時、三峯君は青い狼を模したヘルメットと狼の手と足と流れ続ける水の尾を持ったアニマブルーになっていた。水の波紋の様な模様のピタッとスーツを身に纏い、一瞬構えるとすぐに体育館の中に飛び込もうとして中から吹き飛んできた今戸君……今はアニマレッドを水と自身の体で受け止めた。怪物の鼓膜を本気で破りに来る咆哮に、また腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。
レッドとブルーは地面から突き出た鋭い草に足を取られながらも怪獣に立ち向かう。だが、燃え盛る炎も、全てを押し流す水も全く怪物には効いている様子がなく、二人の体力だけを鉋で削り落とす様な痛々しい時間だけが続く。
せめて、別の場所に足場さえ作れれば、何か変わるかもしれない。
怪物の蠢く、木の枝の様な腕がレッドとブルーの居たところを打ち砕き、そこから乾山のようにとがった葉が一瞬で生えてきた。ブルーは水の玉から放たれる水流で蔦の向かう方向を反らし、レッドは炎の毛皮が生えた腕で行く手を阻む、刃の草を薙ぎ払うのに精いっぱいで、怪物の動きから意識が完全に逸れており、ぎりぎりで攻撃を躱しては、生えた草に肩や手を貫かれていた。
「負けちゃう……」
私の背後で、誰かが呟いた。振り返ると生徒たちや規制線を張った警官達が戦闘をじっと見ていた。全員が不安と恐怖に表情を曇らせ、固唾を飲んで静かに観戦していた。見えている敗北に絶望している。
重たい空気、沈んだ雰囲気、この状態なら多分勝てない。
二人はそんな野次馬の心理を他所に命を賭して戦っている。
『出雲、君がいれば勝てるんだよ』
無意識に握っていた緑の石が突然光ながら私に話しかけた。
『君の声援があれば、君の応援があればこの空気は変えられる。でも、このままじゃ、モヤッキューにも勝てないし、この学校、いや島全体が封鎖される』
「なんで……」
『モヤッキューに彼らが勝てない場合、この生徒や住民の不満は恐らく島の役人や国の役人にも伝わる。そして、僕らはまたこの島の近くに封印され災いを防げず次こそ日本は終わる』
石は滔々と語る。まるで、これまでもそうだったように語る。でも、いきなり戦えなんて、無理だ。私には勇気も、体力も、戦闘力も皆無。力になれっこない。
「もう、駄目だ……逃げないと」
「逃げるって、何処に?」
後ろが不安でざわめく。誰も頑張っている人に目を向けない。
ふと、脳裏に幼い日の記憶が蘇る。母が過労で倒れた日、みんながみんな自分だけが大変そうで、みんながみんな自分の事しか見えていなかった。そして、まだ死んでも居ないのに、私を誰の家で面倒を見るかなど話し合っていた。ただの面倒ごとの押し付け合いで、幼い私には父もおばあちゃんも親戚たちも得体の知れない化け物に見えた。お見舞いにも忙しいしか言わない父は行かなかった。私はそれが堪らなく辛かった。一番つらいのはお母さんなのに。一番大変なのはお母さんなのに、みんなそれを見ようとしない。
そんな時見たチアの大会のドキュメンタリー。一瞬、家族の暗い顔が明るくなった気がした。知らない誰かに向けた応援でも、見た全員に力が湧いてくる声と弾ける様なステップ、目を見張る大技、そして、こっちも笑顔にさせる太陽の様な笑顔。
これだと思った。今の家を救うのはこの明るさだ。
「私の声援が、空気を換えられるのね」
今も、それが求められている。
丁度その時、怪人の攻撃に切り飛ばされたレッドが転がって来た。尋常じゃないほどの出血。でも、彼の目はまだ勝利に対してどん欲に輝いていた。彼はまだ信じている。この怪人を倒せると、全員を救えると。それを誰も信じていない。
「応援しなきゃ」
私も、信じてると、伝えないと。この勇気を次に伝えないと。
恐怖はなかった。不安も無かった。根性と気合だけが胸の中で燻ぶっていた。私は、震える膝を叩いて立ち上がる。そして大きく息を吸った。
「今戸君! 三峯君! がんばれぇえええええええ! 絶対勝てるよぉおおおおお! だから、諦めないでぇえエエ! 私が全力で応援するからぁああああ!」
ポンポンも、仲間も、衣装も、曲も無いけど、私は構えた。チアリーダーのあの子は言っていたチアには応援したい気持ちと頑張っている人だけいればいいのだと。拳を突き上げ、声を張り上げ、二人を応援する。怪人になってしまった渚ちゃんを応援する。後ろで不安そうにしていた野次馬たちも励ます。
私は戦えないけど、全力で誠心誠意応援することは出来る。
「レッツゴー、レッツゴー! アニマ、スタンダップ、スタンダップ! アニマ! ユーキャンドゥーイッツ! アニマ! 頑張れ頑張れアニマ! 君なら出来る、君なら勝てる、みんなの声援を聞かて! いけるぞ、いけるぞアニマ! 頑張れ頑張れアニマ!」
『いいね、なら僕が君に戦う力も与えるよ!』
え?
そう思って地面を蹴った瞬間、体を光り輝く草木が覆った。全身を緑色のスーツが覆い、髪が勝手にまとまってヘルメットの中に納まった。と思ったら突然音が爆弾のように頭の中に流れ込む。
これは一体?!
困惑する中。目の前から体育館の中から飛ばされた二人が迫っていた。悲鳴を上げつつ、両手で二人を容易く受け止められていた。
「ガハッ、あぇ……出雲、ちゃん……」
吐血しながら三峯君が驚いてヘルメット越しに私を見上げた。今戸君はもう体力の限界なのか、腕の中でぐったりと目を閉じて動かない。その手からは小さな火が出て、ゆっくりと傷を治している。
「有難うございます、お二人とも。ここからは私がどうにかします」
「どうにかって、危ない!」
三峯君が私を突き飛ばす。私は足を思いっきり踏み鳴らした。すると、目と鼻の先まで迫っていた刃の草が私が生やした、芝生に弾かれ進行を止めた。なぜか、変身した直後から自分がどう動けばいいか、重々理解していた。
「三峯君、今戸君をお願いします。彼女は私が助け出します」
「ちょっと、うわっ!?」
握ったタンポポの様なポンポンを振り上げると、地面から木が生い茂り二人の周りをしっかり囲った。
怪人になった鮫島さんが唸りながら、体育館のドアを握りつぶす。そして、外にぬっと姿を現した。食虫植物に似た顔、体を覆いつくすいばらの付いた蔦、涙を流す大きな目、鋭い歯が並んだ口からは赤黒い涎がぼたぼたと流れていた。足や体には抉られた傷や火傷が目立った。
『にぐ……にぐいよぉ……なんデ……あたし、ごンなァ……』
「もうちょっとの辛抱だよ、ナギちゃん、待ってて!」
貴方は、私が絶対に助けるから。
『もう、ほっどいでェよぉオオおおおおおッ!』
腕を打ち鳴らして私を遠ざけようとする。私は地面を蹴ってそれを躱した。体が予想以上高く飛ぶ。腕を振ると、その方向に地面から太い蔦が伸びて怪人の腕に絡みついた。その上に飛び乗って、私は彼女に向かっていく。
『こんなわたじ、見ないでよぉおお!』
腕以外の所からも蔦が伸びていく。それを、無数の蔦を生やして飛び回りながら躱す。体を高速で捻って回りながら飛びこえた瞬間、棘が体を掠った。その一瞬気が緩んで、足が滑るその瞬間、いばらの蔦が私を捉えた。体に棘が食い込んでいくのを、隙間から生やした蔦で防ぐが、その圧迫も防げた訳じゃない。
「出雲!」
その時、今戸君の声がしたと思ったら目の前を真っ赤な炎が覆った。と思ったら体が自由になる。空中で態勢を整えて着地すると、隣に息も絶え絶え、ヘルメットも半分壊れた今戸君が降り立った。
「今戸君、大丈夫なんですか?!」
「大丈夫。出雲、援護するから、彼女の周りを覆う靄を、蹴り払ってくれ」
「靄?」
「ああ、あの怪人の奥、まだ彼女は靄に負けていない」
真っすぐ彼は怪人の口の中を指さした。その間を割くように蔦が叩き下ろされる。私達は頷き合い、操った蔦の上に飛び乗った。
「ナギちゃん、頑張って! 負けないで!」
「出雲ちゃん、足元は任せて!」
下から三峯君の声が聞こえる。と思えば、階段のように水のあぶくが浮いてきた。蔦を躱しながら、その上に飛び乗る。良く弾むその感触は、練習場のトランポリンによく似ていた。これならいける。
「ナギちゃん、聞こえる!? あの時は本当に御免ね、私の事嫌いなままでいいよ! だけど、自分の事は、絶対嫌いにならないで!」
横に振るわれた茨を背面跳びのように上半身を反らして躱し、次の泡の上に飛び乗る。ここで、決める!!
思いっきり踏み込んで体の重心を上へ突き上げる。二回三回、伸身のまま体を捻って、トップについた瞬間、体を縮こませてから足を振り上げた。その後ろで木の蔦が絡まり合い、捩じりあい、巨大な足の形を形成している。その足で思いっきり怪人の脚を踏みつけた。果実が潰れる様に黒い液体が飛び散る。その中に私は飛び込んだ。
目を開けると、白い霧が立ち込める、鬱蒼と茂った湿地の中に立っていた。背の高い草や木が行く手の視界を覆う。そして、その奥から聞き覚えのある女の子のすすり泣く声が聞こえる。私は沼地に足を取られながら、その方向に走った。
「ナギちゃん、ナギちゃん、何処、御免、あの時ナギちゃんは私を助けてくれたのに、私は、貴方を裏切ってしまった、自分の弱さに勝てなかった、苦しんでた貴女に手を差し伸べる事を躊躇ってしまった。御免、御免ね、あの時、貴方は私を虐めたけど、私は貴方に耳を傾けるべきだった、だから、ちゃんと言わせて、ちゃんとあなたに向けて謝らせて」
そう言った時、肩を誰かに叩かれた。振り返ると、目を真っ赤にした、鮫島さんが立っていた。
「今更……なのよ、お前は今更謝れたって、勇作くんとは付き合えないし、私がいじめられた記憶はなくならない! もう、遅いの、遅いのよ!」
「そうだよね、私が謝った所で今更こうして始まったいじめの連鎖は止まらない。でも、分かりあうことは出来ると思う。私も100パーセント被害者じゃないし、貴方も100パーセント加害者じゃない。だから、謝りあって許さなくても理解して欲しい」
「何を? お前に私の何が分かるのよ!」
「いじめをしていても、いじめられても、全部苦しいって事。孤独は埋まらないって事」
私ははっきりと言った。鮫島さんに触るのはもう怖くなかった。顔を覆って泣きじゃくる鮫島さんの手を、握る。
「本当に、御免なさい……。私は人として情けない行為を貴方にしてしまった。一生を持ってその罪を背負い、生きていきます」
「…………私も、御免なさい。そうよね、虐められた記憶がなくならないなら、虐めた罪はもっと消えない。私も、罪背負うよ」
湿地に草が生え、埋まっていた足が出て行く。霧が晴れて、空が明るくなる。ナギちゃんの泣き笑いする顔が朝日に照らされた。
「「でも、許さないよ」」
声が揃った。久しぶりにナギちゃんと笑えた気がした。
私とナギちゃんは気が付くと、体育館の入口の階段の所に手を繋いで座っていた。慌ててその手を放す。許さない、でもお互いの思いは分かった。だから、もう交わらない、お互いの気持ちに整理がつくまで。
「出雲!」
「出雲ちゃん!」
「今戸君、三峯君!」
顔を上げると、涙を浮かべて両手を広げる三峯君と、心配そうにこちらに駆け寄る今戸君がいた。二人に囲まれ、三峯くんに抱きしめられるとああ、私って戦えたんだなと勝てたんだなという思いで体から力が抜けるのが分かった。
「おめでとう、出雲。お前がアニマとして仲間になってくれて嬉しいよ」
「有難うございます。お二人ともけがは?」
「治った。出雲ちゃんこそ疲れたんじゃない、立って大丈夫?」
二人に支えられながら立ち上がると、横から「ねえ」と声を掛けられた。今戸君がそちらを向いて、きっと眉を吊り上げた。
「なんだよ、また出雲にちょっかいを掛けるつもりか?」
「出雲、もうあんたを虐めるの止める」
今戸君を無視して、ナギちゃんはそう言った。しっかり私の目を見て、真剣に。
「だから、さ、あんたも私から逃げないで欲しい。まずは、そこから始めてみよう」
「……うん、そうだね。ナギちゃん。もう一回、他人から、始めようか」
記憶も罪も簡単に塗り替えられない。でも、努力次第でちゃんとまた友達になれる、そう思えたんだ。今戸君や三峯君の喧嘩を目の前で見て来たから。
私は改めて二人に向き直って、頭を深々と下げた。
「二人とも、本当にありがとうございます。二人のお陰で、ナギちゃんとの関係を清算できた」
二人は不思議そうに私と鮫島さんを交互に見比べて曖昧に笑った。
「こんなので良かったの? それくらいなら、いつでも助けになるよ」
「そうだぞ、だってもう友達だからな! これからよろしくね!」
「はい!」
二人と握手を交わした時、頭上でカラスが鳴いた。見れば、大量のカラス達が空で円を描いて飛んでいる。なんだろう、まだ、イヤな予感がする。
「ぎゃーはっはっはっは! 種なしの雑魚共が揃いも揃って……かくれんぼに勝機が出たのがそんなに嬉しゅうございましたの? ハチの巣になりたいのですわぁ??」
ドリルの様な3連立て巻ロール、軍服の下には金色の派手なしかし穴だらけのドレス、そして、手首から下に巨大な重機関銃を肩に担いでいる小柄な少女が、三宅と矢田と対峙していた。
「かわええお嬢さんやとおもぅたら、なんや自分、敵の幹部やないの。ひさしゅうな、ホシ―ナ・カトラシア。お前が、この3件の怪人を生み出したんか?」
黒い扇子で口元を隠しながら、矢田は目の前の少女を睨む。少女はめんどくさそうに舌打ちすると耳をほじりながら可愛らしい顔を歪めた。
「は~あ? おめぇらなんて知りません事よぉ? つか、この私が、一々払い除けた害虫の名前なんて憶えてるとお思いなのが、お頭の残念さを物語ってますわねぇ? 流石、ゴミムシ、おみそもお粗末でマジでざまぁって感じですわぁ!! とっととその薄ぎたねぇ臓物まき散らして無様に死んでくださる? 私、お前らの苦痛と己の無力さで泣きわめく様を見て早くメシウマになりたくってよぉ」
真っすぐ銃口が二人を向く。三宅も笑顔を引きつらせて臨戦態勢を取った。
「口の悪いお嬢さんだ。聞くに堪えられない」
そう言うと、邪悪な笑みを浮かべ縦ロールの少女はとても嬉しそうに笑った。
「それはこっちのセリフだっつーんだよ、チキン野郎共……ッ。ああ? んだよ、カス!今絶好の殺戮パーティーなんだよ、邪魔すんなテメェのケツ穴でこっぱちに増やしてやろうかああんっ!?」
お嬢様言葉も忘れて、地面に向かって怒鳴り続ける。誰かと連絡を取っているようだ。
「クッソあの屁マスクボケカス死んどけばぁああああっか! フン、すっかり興が削がれましたわ。はぁ、殺意が萎えっちゃった、くっそ腹立つ。けど、命拾いしたなひよこ共、次会う時は私のフカフカお布団になってましてよ。精々ゴミみたいなみっともない羽でも洗って待ってらしてね。次はお喋りの時間なんて慈悲与えてやらねぇからよぉ」
見開かれた目にはただ愉悦と殺意しかない。少女は軍服のコートを翻すと魔法のように彼女は消えていた。慌てて二人が駆け寄るがドアや時空の歪みすらも無い。跡形もなく、消えていた。
「何やあいつ……何を企んどるんや」
矢田の頭上ではカラス達が死の予感を必死に鳴いて知らせていた。
皆さまどうも、朝でも夜でもおはよいと。文月宵兎です。
今回は前回よりも長めになってしまい申し訳ありません。出雲ちゃんの良さやバックグラウンドを描こうとしたらこんなに長くなってしまいました。
出雲ちゃん、気が弱い女の子と思えば割とはっきりものを言うし、度胸や身体能力は真雄人以上のスペックを持つ、泣き虫チアっ子です。武器はポンポンを持って操る植物。新体操の技と高い跳躍力で戦うという設定です。
今回のテーマは虐め。深刻ですよね。しかもどちらも被害者と加害者を経験しているパターン。どうしたら成長できるのか、何をきっかけに虐めは起きるのか。中高の黒歴史を呼び起こしながらシナリオを練ってました。そんで、敵の幹部の一人を出してみました。罵倒系ヤンキーお嬢様です。可愛がってください。
では次回、お猿さんの覚醒です。お楽しみに。