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33 懐かしいのはあの可愛い猫の姿

それは聞き覚えのある、優しさと強さを含んだ青年の声で、ここ数日の間で、耳に染みている音。

猫王子の声だ。


「サアラ、無事かい!?」

その後に、続くリンクス様の声。

地面を蹴りつけ駆けていく音が二つ私の傍までやってくると止まった。

唯一自由に動かせる瞳でそちらへと視線を向ければ、やはりリンクス様がいた。

肩で息をしながら屈みこんでいる。

そして、その傍には漆黒の髪の青年が。何故か上半身は裸で腰には真紅の布を巻いている。


「待っていろ、今飲ませる」

猫王子と同じ声音を持つその者は、私を抱き起すと腕に抱え込む。

そして器用に私を片腕で支えると、何やら手にしていた瓶を唇で器用に蓋を抜き、それを己の喉へと流し込むと、私の唇へと触れた。鉛のような私の体は、いう事を聞かず。そのため、なすがままに。


「……んっ」

管を伝い胃へと向かう苦い液体。

「もう大丈夫。これ、回復薬だから」

彼はアシンメトリーの髪を靡かせ、目に涙を浮かべながら、こちらを愛しそうに見つめている。

けれども、すぐに顔を引き締め、「頼む」とリンクス様へと私を委ねれば、ゆっくりと立ち上がった。

そして混沌の魔女の方を見ると、地面を一歩ずつ力強く進んだ。

少しずつ近づく距離。それが全て埋まった時。静かな彼の声が優しく広がった。


「――悪かった。お前が母親を求めていた事は昔からわかっていた。それなのに何もせずにいた俺のせいだ。もう終わりにしよう」

その青年は混沌の魔女の前へと佇むと手を伸ばして、彼女の体を抱きしめた。

一瞬だけ強張った混沌の魔女の表情だったが、やがて俯き表情が隠れた。

彼は左手で彼女の体を落ち着かせるようにトントンと撫で、右手でナイフの刃を動かせないように握りっている。

そのため、指先から手首を伝い、赤い液体がぽたりぽたりと地面を濡らしていく。


「これ以上、母上の幻覚に囚われるな。お前の人生だ。やり直そう。俺達兄妹で。国に戻ったら、お前の存在を公にする」

その言葉に崩れたのは、混沌の魔女の姿。

それを見つめていた私の視界もそろそろ限界だったらしい。ぷつりと意識が切れ、私は深い眠りへと誘われてしまった。

これが混沌の森での最後の記憶となることに。







リヴォルツ城には『永久の帝都』と呼ばれる場所がある。

それは五階の南部分。そこは皇帝や宰相の執務室へと通じる渡り廊下。

私は度々、黒猫の爪に関する報告書を提出するために訪れているためか、すっかりと自分が日頃暮らしている屋敷ぐらいに馴染んでしまい見慣れた風景。

そんな所を今日もまたいつもと同じように、書類を腕に抱き足を進めていた。


左手にある窓から差し込む光が壁に広がる大壁画を照らし、より映えさせてくれている。

そこに描かれているのは帝国の城下町風景。

活気溢れる人々の日常を切り取ったかのように、躍動感あふれる作品だ。

これがこの渡り廊下が永久の帝都と呼ばれる由縁。

これはこの辺りの名産である、カンガ磁器タイルにより作り上げたもの。しかも、およそ二百年前の作品だ。

私は何気なく右手に広がるその大壁画の街並みへと視線を向けた。

すると、とあるものが視線を掠めたため、私の足は視えない手により、床へと押さえ込まれてしまう。


「えっ……」

まるで街中で理想通りの相手を見つけたかのように呼吸を忘れたが、すぐに距離が邪魔になりたまらずそちらの方へと足早に向かった。


「猫王子!」

それは噴水前広場のベンチに寝そべっている長いふさふさの毛を持つ黒猫。

私はそれに手を伸ばし、輪郭をなぞるように触れていく。けれどもそれはただひんやりとした無機質。

当たり前だが、あの温かみは伝わってこない。彼はもうここにはいない。


あの戦いからもう一か月半が経過。私の生活は彼に出会う以前へと戻りつつあった。

猫の楽園で癒され、時々黒猫の爪として賊の討伐……いつも通りのはずなのに、どこか心に穴が空いたかのようだ。

きっとずっと一緒だったあの可愛い王子が居なくなってしまったからだろう。いや、正確には「元の姿に戻った」か。


「可愛い王子には、もう会えない……」

ぽつりとそう漏らすと、私は指をそっと離した。

あの混沌の魔女との戦い後、私が意識を取り戻した場所は灰色の森ではなくリヴォルツ帝国にある私室だった。

そのためもしかして一連の出来事が夢ではないのか? そんな事も頭に浮かんだ。

けれども、それも一瞬。それよりもまず身に感じた違和感に、私は飛び跳ねるように反射的に身を起こしてしまった。


それもそうだろう。私が体を休めていた寝具の周りを、家族や知り合いが囲んでいたのだから。それには度胆を抜かれた。

そのため現状を把握するために話を伺えば、あの戦いの後にリンクス様の転移魔法により、協会経由で連れて来られたという事がわかった。

それから、あの回復薬で私を助けたのは猫王子……――フィテス王子だったという事も。

まぁ、声が同じだったからそんな気がしていたが。


彼がどうして人間に戻ったのか、それは誰にもわかっていない。

もしかしたら、一度毒によって死にかけてしまったからだろうか。

リンクス様がストリッド様達と猫王子を連れ、あらかじめ符を貼っておいた森の外へ転移魔法で避難した所、突如として猫王子の体が光に包まれ、人間の姿に戻ったそうだ。


何故あの時、上半身裸という卑猥な格好をしていたのかと言えば、猫の時に身に纏っていた衣服が破けてしまい、布を巻きその場を凌いだというのも納得できる。

当初の目的通りフィテス王子は絵物語のように、魔法の干渉は解け王子様に戻れた。 

結末としてはハッピーエンドだろう。

でも、私としては最初からわかっていたが悲しい。あの可愛い猫王子との別れが……


長い旅でかなり情も沸いていたし、あの私の理想を全て具現化したような容姿。

まるで初恋を引きずっているかのように、色褪せない思い出と化している。

その私の心に存在している猫王子ことフィテス王子は、今は自国にて事件の処理に追われているそうだ。

コンクェスト国では、今回浮かび出た国王すら知らなかった驚愕の真実に大揺れ。

無理もないだろう。ただ、不幸中の幸いか、混沌の魔女は処刑を免れたそうだ。 

それは奇しくも彼女の母親が隠したランク七という魔力のお蔭で。


「あーあ。せめて肖像画だけでも書かせて貰いたかったわ……あの可愛い猫王子の!」

私は嘆きの息を吐き出すと項垂れた。

これは結構引きずる。まるで失恋でもしたかのように、心にぽっかりと空洞が。それを埋められるのはあの可愛い猫王子のみ。

私に残されたのは彼との思い出だけ。それから――……そっと右手を上げ、耳の丁度上ぐらいの側頭部へと触れる。

すると指先にひんやりとした固い質感が手に伝わってきた。

これは猫王子にプレゼントして貰ったあの薔薇の髪飾り。

あの可愛い王子様の真っ赤になった顔が心に浮かんび、胸に暖かな温もりが広がっていく。


「もう一度だけ逢いたいなぁ……」

そうぽつりと漏らした時だった。

「サアラ!」と突如として名を呼ばれたのは。







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