1 猫の楽園
楽園。人は自分にとっての至上な世界をそう呼ぶ。
そのような逃げ込む場所があるということは、現実生活を営む上で気が楽だ。
なんといってそこへ向かえば癒される上に、浮世の柵から心身ともに解放されるのだから。
「ほんと、ここは楽園と呼ぶのにふさわしいわ」
私はソファに座って至福の時を堪能中。
後方の窓から差し込んでくる光が視線の先を明るく照らして、猫達を温かく包み込んでくれている。
それはまるで教会にある宗教画のステンドグラスのように神々しい情景のため、思わず恍惚の域に達してしまっていた。
けれどもそこにいるのは生き物。
したがって、静物画のようにその場にじっとしているわけではない。
あるものは広々とした室内を縦横無尽に駆け巡り、またあるものは窓辺で日向ぼっこをしたりしている。
その行動も姿かたちも全て愛らしく魅了されてしまう守るべき存在。
「可愛いわ。その尖った耳、円らな瞳。丸い手。とても癒される……」
そう。私がこの世界で愛してやまないもの。それは猫だ。
そしてここには、その癒しの使者達が暮らしている部屋。壁に打ち込まれた板や、筒が幾つも重なった大きな塔のような遊び道具等、ここには猫が暮らす上で必要なものが全て揃えられている。
神話の世界から名を残すリヴォルツ帝国。
その帝都・リーズに私は暮らしている。
そしてここはその中心地より少し離れた静かな郊外にある『猫の楽園』という施設の一室。
二年前に私が捨て猫や迷い猫の保護目的に設立した場所だ。
猫の楽園という名前の通り、猫にとって楽園のように過ごしやすい住処となるように。そんな願いが込められている。
それなのに、当初の運営目的が何処へ行ったのか、ここ最近は職員や専属獣医により、様々な種類の動物が受け入れ始めてしまっている。この間は怪我をした野生の猪だったし。
そのため現在この建物は、猫の保護施設ではなく動物の保護施設に。
だから保護した動物のために、増改築を繰り返している。
それは全く構わないのだけれども、施設名がちょっとだけ気がかり。いっそのこと、名を変更してみるべきか。
「あぁ、ずっとここにいたい。猫と共に生活したい。埋もれたいわ」
私は心の底から溢れ出す想いを唇に乗せた。留まるところを知らない煩悩と欲求。
ここに居れば、それらが満たされる。辛い事があった時、逃げたい事があった時、疲れた時……――私の心も体もリラックスでき、解放される素敵な世界。ここがそうだ。
猫好きな私には、まさにこの施設の名前のとおり楽園。
どうして自分でもこんなに猫が好きなのかはわからない。
ただ惹かれる。猫達の全てが可愛い。愛くるしい。
どんな動物でも生まれたての赤ちゃんは庇護欲を掻き立てられるものだ。
もしかしたら、猫もそのような能力を持っているのかもしれない。
惹きつけてしまう自然の法則的なものを。
それがいつからだろうと思い返せば、それは物心ついた時からで。きっとこの先も変わらないだろう。いや、もっと愛が深くなると思う。それは地球の中心、マントルに達するぐらいに。
「やっぱり、猫を飼いたいなぁ……四六時中一緒に暮らしたいわ。ねぇ、アザルも思わない?」
足元を丁度通りがかった猫へと同意を求める。
すると、夜を切り取ったような色をしているオス猫は、ワイルドに鼠のおもちゃを口に加えながら足をぴたりと止め、まん丸の瞳でこちらを一瞥した。かと思えば、すぐにそっぽを向き私を横切ってしまう。
こんな自由な所も可愛い。猫はいい。存在そのものが奇跡。
本音は屋敷でも飼いたい。けれども、私のお父様が軽度の猫アレルギー持ちなので禁止。
なんでもくしゃみが止まらなくなってしまうそうだ。そのため私が現在暮らしているカーツィア家では、夢の生活が不可能。そのため自立したいが、一応貴族令嬢のため結婚するまで家を出る事は世間体的に難しい。
「あー……このまま何もしないで猫と遊んでいたい。堕落した生活をしたい。でもなぁ……そろそろ、屋敷に戻らないとお父様の沸点越えそうだわ。顔を真っ赤にさせて私の名を叫んでいそう」
ちらりと左側へと視線を移す。そこにはクリーム色の壁に猫が遊べるようにと、木の板が数個不規則に打ち込まれている。
そのちょうど一番高い箇所にブチ猫が眠っているのだが、その上部に時計が掛けられている。
猫を模した時計の長針が十二という数字、そして短針は三という数字を指している。
私は二時に屋敷の書斎まで来るようにお父様に呼び出しを受けているので完全に遅刻。大問題。
恐らく執務室に向かえば、肺に思いっきり空気を吸い込んだお父様に、「サアラ!」と怒号で出迎えられるだろう。
だからこそ、ここで猫達と戯れて心を潤わせてから向かおうとしていたのだが、どうやら時間の経過というものは思ったよりも早かったらしい。居心地の良さにずるずると、いつの間にかこんな時間に。
きっと好きな子と一緒に過ごしていると、時が経つのは早く感じるのと同じ原理なのだろう。
だから仕方のないこと。そう。私が必然的に遅刻するのも当然。猫好き故の盲目的な愛。
どうやらそれが今回裏目に出てしまったようだ。けれども、どうしてもお父様の顔がちらついて仕方が無い。
「……時計、見なかった事にしようかしら?」
と、現実逃避気味に呟けば、何やら前方より扉を開く音が無機質に耳に届く。かと思えば、「サアラ様……っ!?」という驚愕の声が響き伝わってきた。それに猫達が一斉に反応し、その声の方向へと円らな瞳を向ける。それに続くように私も視線を追えば、そこにはとある人物が佇んでいた。
灰色のワンピースを纏っている少女だ。
猫達はその少女向かって「にゃー」と鳴きながら駆け出していく。
いや、正確にはその手に持参されている銀トレイに載せられた物へ。
それに狙いを定め、前足と後ろ足で床を蹴り向かっていく。
……なんて羨ましい光景なのだろうか。猫達に群がられるなんて。激しい嫉妬の炎が心に灯る。
けれども、その少女はそれどころではないらしく、まるで私を幽霊でも見ているかのように、ただ茫然と映し出していた。
「どうしてまだこちらにいらっしゃるのですかっ!?」
彼女は、この施設職員であるシェリーだ。
年は私よりも二つ上で、十七歳。住み込みで猫達の世話を担当してくれている。
彼女は猫達を避けながら、こちらへと早足でやって来ると私の前へと佇んだ。
その表情には、焦りの色が見え隠れ。
それもそうだろう。彼女とは、つい一時間半前に職員用の部屋でお茶をした時に、お父様に呼ばれている事を伝えていたのだから――