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16 リンクス

「おい、大丈夫か?」

「……」

猫王子の不安げな声を聞きながら、私はベンチに横になりながら口元をハンカチで覆い、胃からせり上がってくるものを抑えていた。

そのため、心配そうに頬を撫でてくれている猫王子にも返事を出来ずにいる。

すぐ傍には広大な海が広がり、様々な国籍の船も数多く港に停留しているだろう。


ここジューン王国・首都キリ。世界三大港町のひとつだ。

私達はつい先ほど船でここへと上陸したばかり。始めて乗った船に緊張気味だったせいか酔ってしまったのだ。一度も乗り物に酔った事がなかったため、この気持ちの悪さは自分でも対処出来ず。

気分が悪いのはすぐには治らない。

そのため、陸地に着くと船着き場の傍にあったベンチに倒れ込んでこの様だ。なんとも不甲斐ない。


「……悪い。俺が人間なら宿とか、もっと寝心地の良い場所に運んでやれるんだけど」

ベンチに両手を添え、項垂れる猫王子に対して片手を伸ばし頭を撫でてあげたいけれども、今はそれすら億劫だ。指一本動かしたくない。

喉元に異物が滞留している上に、あらゆる体のパーツに違和感が残っている。

本来ならば宿を取り休めばいいのだが、そんな体力は残っておらず。


「大丈夫よ」

と告げながらも込み上げてくる物をぐっと堪え、私は彼を安心させるべく無理やり笑みを浮かべる。

その貼り付けたような表情では、猫王子もきっと察しているだろう。現に彼の顔は優れていない。


「顔色悪いぞ……」

「平気」

彼を安心させるために、私は体を起き上がらせた瞬間。

ぐらりと頭から魂でも抜けかけたかのように、自分の体が意志に沿わずコントロール出来なくなってしまう。


――しまった!


その時だった。

視界の端にあの可愛い猫王子を捉えたのは。

両手をこちらに伸ばしている様子から、きっと私を介助しようとしているのかもしれない。

でも、体格差のためこのままでは潰れてしまう。

そう頭を過ぎったが、情けない事に船酔いは思いのほか体を蝕んでいた。

まるで糸が切れた操り人形のように、重力に逆らえずそのまま猫王子の方へと倒れ込んでいく。


目に見える悪夢に咄嗟に目を閉じる。

だが、私の背に感じたのは柔らかく温かい感触ではなく、何か硬くて丈夫そうなものだった。

体に絡みつく、太くがっちりとした筋肉質なものに抱き支えられていた。


「間一髪ですねぇ」

と、突然割り込んで来たのは、まるで木々を揺らす風のように捉えどころのない声。

それに聞き覚えがあり、私はゆっくりと瞳を開けた。


「……え?」

そちらへと視線を向ければ、そこにいたのはローブに身を包んだ男の姿が。

彼の衣服の胸元には王家の紋章である黒鷲と共に、魔法の杖が二本重なりあるように描かれている。  

これはリヴォルツ帝国魔術師の証。

そして紅蓮の炎を思わせるローブ。

それを身に着ける事を皇帝許されているのは、この世でたった一人――魔術師団長のみ。

若干二十二歳という若さで、帝国魔術師の最高位まで上り詰めたお兄様の旧友。

ルドルフ=ハーメルンだけだ。


「久しぶりだね、サアラ」

深い森を思わせるようなウェーブかかった短めの髪が、一陣の風に靡き、さらさらと遊ばれている。


「どうして……?」

思わず漏れたその呟きに、彼は顔をくしゃりと崩して微笑んだ。

「大丈夫? 今、ゆっくりと休める場所へ連れて行くから」

彼はややたれ目な柔らな瞳を益々垂れ下げ、アヒルのような唇でそんな言葉を紡いでいく。

「安心して。僕が傍にいる」

たったそれだけの台詞なのに、私は心が和らぎ彼に委ねた。

まるで母猫の傍で休む子猫のように、無警戒心に。

不思議だ。まるで言葉自体に魔法がかかっているかのようにさえ思ってしまう。

私は彼の言葉に甘えて瞳を閉じた。心の何処かでお兄様を感じながら。





「――……ん」

ゆっくりと瞼を開けると、「加減はどう?」という声が掛けられた。

ぼんやりとした視界が捕らえたのは、真紅のローブを纏った青年――リンクス様の姿だった。

辺りを見回せば、見たことのないような室内。

天井の四隅には黄金に輝く蔦の飾り、そして壁は何か埋め込まれているのか、日の光によりキラキラと反射している。

私の左手に配置された寝具、それから右手にある一人掛け椅子。

その他に家具は見当たらない様子から、どうやらここは寝室のようだ。


「うん。顔色も大分いいね」

そう穏やかに微笑みながら、彼は立ち上がった。

「大分よくなりました。ありがとうございます。それより、どうして貴方が?」

「セヴァに――君の兄君に頼まれたんだよ。そうそう! サアラ宛に手紙と荷物を預かっているんだ」

「お兄様からですか?」

「いや」

リンクス様は小首を傾げる私を見てクスクスと喉で笑うと、「ちょっと待っていてね」と告げ、屈みこんで自分の足元に置いてあった鞄を漁り始めた。

そして何か紫色の巾着を取り出すと、それをこちらに差し出してきた。

それはティーカップにすっぽりと入るぐらいの、小ぶりな大きさ。

私はそれを受け取ると、掌目掛けてひっくり返す。

するところんと、石が付いた指輪が転がると同時に、肌に一瞬ひやりとプラチナの冷たさが伝わった。


「これって……」

人差し指と親指でそれを摘まんで掲げると、透き通る空を凝縮したような宝石が輝く。

スクエア型に形を整えられているその下には、台座に刻まれた我がカーツィア家の家紋が浮かび上がっていた。


――お父様の指にいつも嵌められている指輪だわ。


「それがカーツィア家の宝なのは君も知っているね? 実はそれ魔法具の一つである『蝶の空』という代物だそうだ」

「魔法具だったんですね。見た目はただの指輪のようですが」

「そうらしい。君の弟君でありオルソからだよ。魔力吸収型タイプを探していたんだって? 良かったね。偶然、君の家にあるその指輪が適応していたらしい。それを君に譲ると宰相より伝言を承ったよ」

「こんな貴重な物……」

「そんな事を言ってもいられないんだろ? 未然とはいえ、敵の襲撃にあったそうじゃないか」

そう言って心配そうに眉を下げたまま、リンクス様は立ち上がると、こちらに手を伸ばしてくる。

そして梳くように髪を撫でてくれた。


一見すると恋人にするような仕草にも見えるが、私とリンクス様は兄妹のようなもの。

だから妹に接するような意味合い。その証拠にお兄様と同じように慈愛を含んだ瞳で見つめてくれている。


「ご心配お掛けしました」

「本当だよ。セヴァから微笑みが消えたからね。コンクェスト国崩壊かと絶望したよ。なんとか抑えたけど……」

「お兄様の耳にも?」

「勿論。伝えたのは僕だけどさ。あぁ、その件で話したい事があるんだけど、猫の王子様も一緒の方がいいね。……というか、是非紹介して」

先ほどのシリアスは何処へ? というぐらいに目を爛々と輝かせながら、弾んだ声を上げるリンクス様に対して、苦笑いが自然と出てきてしまう。


この方は私と同類。

そのため、猫の楽園にも度々ボランティアに来て下さるし、寄付もして下さっている。

勿論、ご自身も猫を数匹飼っている正真正銘の猫好き。


「構いませんが、猫王子はどちらへ?」

「あぁ、それなんだけどさぁ……実はさ……うん…その……」

リンクス様は何か言いにくい事があるらしく、言葉を濁すように弱めている。

そのため、実に歯切れの悪い言葉ばかり口にしているせいか、肝心の本題に進まない。

そんな彼の態度に、私は少し苛立ちを含んだ声でリンクス様へと問いただす。


「どうなさったのですか? はっきりおっしゃって下さい」

いつもならばあまり気にもとめないのだけれども、猫王子に関わる事ならば話は別だ。

あの可愛い子に何かあったのだったら、いてもたってもいられない!


「僕のせいなのかも……」

「リンクス様の?」

「うん。実は部屋に引きこもったまま出て来ないんだ……男としてのプライドを傷つけちゃった。サアラ、どうしよう!? あんなに可愛い子に嫌われたら、僕、絶対に暫く引きずるよ……もう、泣きたい……」

リンクス様は肩を落としながら、ぽつりと漏らす。

彼は、まるでこの世がこれから崩壊するかのような沈痛な面持ちだ。





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