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9 混沌の魔女

ゆったりとした湯気に混じり、柑橘系のすっきりとした香りが鼻腔をくすぐる。

手に持っているカップに広がるローズ色の波紋が美しい。

香りを一通り堪能した後で、私は丸みを帯びたシュガーポットに手を伸ばし、シュガートングで角砂糖を一つ摘まみそのままカップへ。

すると、みるみるうちに白の箇所が浸食され赤く染め上げられていく。

それはゆっくりと形を変え、カップの底へと沈んでいった。


私はゆっくりとそれをかき混ぜると、カップに口を付け胃へと流し込んでいく。

飲み終わると、口内に酸味が少しだけ残留。

おそらく、ローズヒップの類だろう。

あとは、香りからレモングラスもブレンドされている事を推測。けれども、他は全くわからない。

ただ、香りとさっぱりとした味わいに体の芯までほぐされ癒されていくのを感じる。


――さすがだわ。


このお茶を入れてくれた人は、窓の外でお父様の隣に佇んでいる人物。つまりはお母様だ。

「それで? 猫祭りはいつ開催されるのかしら。ドレスを新調して向かわなきゃ」

小首を傾げながら正面に座る未来の旦那へと口を開いた。

すると彼は片手で頭を抱えると、深い嘆息を漏らす。


「あのな、まず先に言っておくが、俺を元に戻せたらの話だぞ?」

「わかっているわ。では、そうなった原因を教えてくれるかしら?」

「あぁ。ことの発端はつい二月前の出来事だ。就寝中、とある魔術師に襲われた。部屋には対魔術用の防御結界が張られているのに、やすやすとあの女は侵入してきたんだ。音も立てずに幽霊のように壁からすっーっとな」

防御結界を王族・皇族の寝室に張るのは、どこの国でも一般的だ。

術者の殆どがその国で一番の魔力保持者。

つまり、魔術師団長が主に請け負っているはず。

それを破ったという事は、それ以上のランクを持っているという事だ。という事は、四以上。

そうなってくると、必然的に犯人は絞られてくる。

だから簡単に特定出来るだろう。

ただ、少なくても記録保持者だけという範囲ならば。

大抵の場合出生書を国に提出する時に、魔力測定を行うのでそれも添付される。

けれども、それを行わない者も稀にいることもあった。

彼らは主に暗殺を請け負う闇の者など、それぞれ何かしらの理由がある。


――ただ、引っかかるのよね。


彼の話を聞き、違和感が残っている。

けれどもそれが、全く見当もつかない。

まるで魚の骨が喉に刺さったかのように、曖昧にしか場所が特定できないみたいに。


「ねぇ、そのとき何か感じなかった? 魔力の歪みとか……」

「いや。全く」

「そう……もう少し詳しく話して?」

「あぁ。いつもの通り就寝中だったんだが、ふと人の気配がして飛び起きたんだ。すると部屋の壁の一部がぐにゃりと揺れ、白い人影のようなものが暗闇に浮びあがっている事に気づいた。段々それが人の姿を形成していき、現れたのはマント姿の女。侵入者だと気づき、すぐに剣へと手を伸ばしたんだが遅かった。あちらに先に攻撃魔法を使われ、俺の視界は眩い光に包まれてしまい、目を開けてられなくなったんだ」

「それは視覚だけ? 痛みとかは?」

「いや、全く」

私は左右に首を振った猫王子の瞳を窺う様に見つめた。

その瞳は透き通る湖のように澄んでいて、とても嘘をついているようには様子は無い。

けれどもありえない現象だ。攻撃魔法を受け、視覚だけで済むなんて――

もしかして、ただの目くらましか? と疑問に思ったが、彼の口から出た言葉がそれを否定した。


「ただ、ガラスの砕ける音や、寝具の軋む音と共に『まさか……』という女の呟きは聞こえた」

「彼女は、確かにそう言ったの?」

「あぁ」

となると、やはり相手は攻撃魔法を使った。

けれども何らかの状況でそれが無効化されてしまったということか。


「女がそう告げた後、急に気配が消えたんだ。だから俺も一安心し、ゆっくりと瞳を開けたんだが、違和感がそこにあった。視界がいつもより低く、体も妙に小さく感じる。そんで姿見で確認すればこの様だ。まぁ、一時死を覚悟したから、生きているだけで幸運なのかもしれないけれどな」

「そうね。そんなに可愛い姿になったのですもの」

「おいっ! お前、完全に人ごとだろう」

「それで? 相手は誰かわかったの?」

その質問に、彼は苦しい表情を浮かべている。

ぎゅっと拳を握りしめながら、口を真一文字に結んでいた。

まるで泣くのを堪える子供のように。


「……混沌の魔女」

ぽつりと漏らしたそれに、私はあと数センチで届くはずの焼き菓子を掴むのを辞め彼へと視線を向けた。

私だけじゃない。

お兄様はティーカップをソーサーに戻すのにカシャンと音を立ててしまっているし、それから窓の外ではお父様が、青ざめたお母様の肩へと手を添え、自分に体をもたれ掛からせるように支えた。


それもそうだろう。

混沌の魔女とは、今現在で正式に確認されている中で唯一ランク七を持つ者。

この世界で生存している魔術師の中で最も頂点に立っている者だ。


彼女について分かっている事は、三つ。

一つめが、真紅の髪に黄金の瞳を持つ事。

二つめが、西大陸の混沌の森にいるという事。

三つめが、世にも美しい女性だという事。


そもそも彼女が住んでいるとされる場所は、数百年前に謎の爆発により、植物も動物も独自の進化を遂げている。

そのため、未知の植物や動物の目撃がある上に、まるで洞窟のように生い茂る木々が太陽を遮り、来る者を拒絶。足を踏み入れるのを躊躇い、半ば禁足地となっている。

そのため、ランク七を持ちながらも、何処の国にも属していない半ば伝説のような扱いになっていたので実在している事にも驚愕。


「君はどうして混沌の魔女だと言い切れるんだい? 仮に外見だとすれば、先走っていると思うよ。髪色ならば、そこにいるルドルフ様のように珍しくはない。たしか、ルドルフ様の母上はデノズ国出身だったよね? そこでは赤系は一般的な色のはず」

お兄様が険しい顔で尋ねるのも無理はない。全てがシナリオとして出来過ぎているのだ。


「それもあるが、本人が言ったんだよ。しかも、わざわざ誰に頼まれたかまで告げ口してな」

「自ら? 冗談でしょ。なんのために?」

「俺だって知らねーよ。ただ、嘘か本当かはわからないが、あいつが言った雇い主に俺は何度も命を狙われている」

「それは一体誰?」

その質問に猫王子は口を閉ざしたまま項垂れている。

ぐっとズボンを握り締め、頭を左右に振った。まるで何かを信じたくないかのように。

そんな彼に代わるように、口を開いたのはルドルフ様だった。


「ストリッド。僕と同母親の……第一王子です」

「あぁ、たしか王位継承権で揉めているそうだね。母親の身分が低い第一王子ストリッド様派と実母が王妃の第二王子、つまりフィテス様派」

「えぇ、そうです。子供の頃は、みんな仲が良かったんですよ。いつからでしょう。それが狂ったのは……幼き頃に、僕の母が毒殺されました。それを王妃が王位継承権を優位にするために行った。そうストリッド兄上が誤解してしまったのです。王妃が亡くなった後、その憎しみの矛先はフィテス兄上の方へ。それがきっかけでは刺客を放つようになりました」

「つまり、今回の犯人はその第一王子ということ? なら、その王子を拘束するなりしてみたらどう?」

「そう易々と認めるわけがないだろう。俺が刺客を送りましたなんて」

「……まぁ、そうね」

さすがにそうだ。たしかに自分がやりましたなんて言う程馬鹿な話があるはずがない。

ただ、混沌の魔女は何故彼を生かしたのか?

いや、違うか。どうして彼に攻撃魔法が効かなかったのかという事か。




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