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錆び付いたドアを開けると、篠崎クンは真っ先に運転席を陣取った。仕方なくあたしはすぐ横の補助席に座った。本当のあたしのお気に入りは最後部右座席なのだ。いつもその席から荒涼とした野原に沈む夕日を眺める。クラスメートの理不尽な要求や教師の心ない言葉の記憶を広々とした景色に吸い取ってもらっていたのだ。でも今日は違う。天から降ってきた急な命令に戸惑いながらも、胸の奥底から力が涌いてくる。まるで入道雲のようにぐんぐんと。あたしは必要とされてるんだ。その時、遠くの空で稲妻が光った。
しばらく運転席の計器類を触っていた篠崎クンは踵を返し本題へ入る。
「いきなり直火で炙るのは危険じゃないかな?燃えないくらいの微妙な熱さじゃないと、、。フライパンとかあるといいんだけどなあ。」
「あっあるで。中華ななぁ、鍋やけど。」あたしがここを見つける前に誰かが住んでいたのだろう。あたしはバスの外側にある扉に篠崎クンを案内した。篠崎クンは中華鍋とキャンプ用の五徳を持ちながら「完璧!!土屋さんすごい。あとは薪だね。」と喜んでる。
「そっそっそれもあっあるで。」薪ではないが、壊れた窓を直そうと思い、バスの下にベニア板や角材の切れ端を集めてあったのだ。
あたし達2人はまるでキャンプのように焚き火を熾した。火事になるといけないので、消化器も用意した。もっともゴミ捨て場から拾ってきた物だから、使えるかどうかわからないけど。
中華鍋は丁度いい火加減になった。火が移るといけないので、薪の数を減らした。あたしは地図の両端を持ち、フワリと中華鍋に落とした。高鳴る胸の鼓動を抑えながら、地図の細部まで注視した。篠崎クンは銀色の腕時計を左手に持ち、時間をはかる。
まだ変化は無い。永遠にも思える時間。もうまずいか?あと少し。ぎりぎりの判断を迫られる。ピカッ!その時だった。突然の霹靂と共に大粒の雨が滝のように降り出した。熱せられた中華鍋に雨粒が落ちギュンギュンと音をたてる。モウモウと水蒸気が立ち上がる。あっという間の出来事で、腕がすくんで地図を取り上げられない。どうしよう!
篠崎クンが被っていたキャップ帽をミトンのように使い、地図を引き上げた。そのままバスへ走り込んで行った。あたしも後を追う。
真夏のスコール。突然の出来事にお互い言葉をなくした。
地図は無事だった。相当、頑丈な和紙なのだろう。思った変化はなかったので火炙り作戦も失敗に終ったようだった。
あたし達は無言のまま席に座る。フロントガラスに激しくぶつかる雨をただボーッと眺めていた。去年の夏休みも雨の日にここにいたことを思い出した。クラスメートの誕生日を祝うと称したあたしをいじめる会で散々いじめられた帰りにバスに逃げ込んだのだった。浴びせられた罵声や迫害を夕闇に吸い取ってもらったのだ。でも今日の出来事でそんな記憶も過去になりつつある。
「あれーっ?なんだこれ。」篠崎クンは裏返ったひょうきんな声を上げた。
「見てみて!!これ見て!ほら、ここんとこ。」大声を出しながら地図の裏面を指差した。
「どっどこ?あっ!なんやのーこれ。」地図の裏面の数カ所に盲人用図書みたいなポツポツができている。とても不自然に。
「濡れたからだ。というより蒸したから、だね。」キラキラと瞳を輝かせて篠崎クンは言った。
「そっそやね、こっこれがトリックやったんかな?でも、なっ何を示してんのかようわからんなぁ。」二人は顔を見合わせた。
「でももうちょっと蒸したらまだ何か出るかも。どうしよう、蒸気か、、、。あっ、そうだ!スチームアイロンだ!」篠崎クンは自問自答して答えをだした。
「あっあん雨止んだら、あーたしん家来いへん?おっおっ母さん今夜やや夜勤やーやんねんん。」言いたい思いが強いため、こんなんになってしまった。頑張れ、あたし。
「うん、じゃあ雨が止んだら土屋さん家に行こうよ。」篠崎クンはやさしく微笑んだ。幾分か救われた。
男子を自宅に招くのも無論初めてだ。
あたしの家はごく普通の小さな一軒家だ。築20年なので外観が諸、一昔前のセンスで見た目は良い方ではない。部屋はキチンと掃除してるので不潔ではないが何よりインテリアのセンスが悪い。裕福ではないので貰い物や中古で購入した家具を、センスの一欠片もないお母さんがレイアウトしてるだけ。それらを見られるのが少し恥ずかしかったが、篠崎クンは微塵も興味のない様子だった。
2階のあたしの部屋に招いた。
「どっっどっどこでも、いぃっいいいから座ってって、アイロン取ってくるわ!あっ、のっ喉、乾いたな、カルピス飲む?」
篠崎クンは女の子の部屋に入った事があるのだろうか。特に緊張してる様子もない。あたし1人が焦って空回りしている。自分の空間に他人が入ると調子狂うもんなんだなぁ。あたしはそんな具合に目的とは関係のない事を思案し、押入れからアイロンとアイロン台を取り出した。
するとアイロン台の柄があまりにもみっともない上にここかしこ破れ、変色もしていた。アイロン台の代わりに座布団を代用する事にした。
部屋に戻り篠崎クンにカルピスを手渡した。
「お腹空いたからコレ食べよう。」とオークワで買ったうまい棒を篠崎クンは差し出した。
お互い無言で食べた。ムシャムシャというあたしがあらゆる音の中で一番嫌いな音だけがここにあった。
「さて、始めようか。」
「うっうん。」
スチームアイロンには水が入っていたのでそのままコンセントに挿した。温まるまでの暫しの沈黙にいたたまれずその辺に落ちてあったジョンデンバーのアルバムを団扇代わりに汗が滲む額を煽いでいた。
ランプが消えた。準備完了だ。あたしはアイロンを手にした。
「押し付けないでね。」篠崎クンは心配そうな目であたしを見た。
「わーかってる。毛糸のセーターの要領やな。」鍵っ子のあたしは家事が得意なのだ。
アイロンを水平にするとシューシューと勢いよく蒸気が出る。それをそのまま地図に近づける。
「ポチポチが並んでる真ん中の辺りからお願い。」と篠崎クン。あたしは小さな円を描くように蒸気をあてた。
・・・・・・・・「もっもういいかな?」
「うん。」
「・・・・・・・・。」
・・・・・・・・でた!中央のポチポチは見事に鳥居のマークになっていた。
「やったぁーー!!」2人は嬉しさのあまりハイタッチを交わした。あたしは興奮して肩を揺らし右手小指がアイロンに当たった。たまらなく痛くて熱かったが我慢した。これも忍耐力の筈。
「こっこの記号って、、、神社やんなぁ。」あたしはゆっくりと呼吸を吐き出しながら言う。
「うん、そうだね、、、。でももう少しやってみない?もしかしたらまた何かが出るかも。」篠崎クンは眉間にシワを寄せながら鳥居マークに見入る。
あたしはもう一度蒸気をあてた。慎重に丁寧に、地図全体を蒸気で埋め尽くした。蟻の巣ひとつひとつを取り調べるように。
でた、、、。地図上の鳥居マークから10センチ程離れた左上に奇妙なポツポツが、、。
「なんだろうこれ?」
「うーん。このマークようわからんなぁ。」あたしは両手を伸ばし古地図を天井に向けた。さっきの火傷がヒリヒリと小刻みに皮膚を刺して痛い。そして古地図を裏返し照明に透かした。
「あっっ!!このボツボツ、アルファベットの’G’になってる!」
「ほんとだ!!土屋さんすごいじゃん。」篠崎クンに褒められた。嬉しい。
「せ、せやけど’G’ってどっどーゆう意味やろ。300年前の日本の地図やのにアルファベットってヘンやなぁ。江戸時代やろ。」首を傾げる。江戸時代といえば浮世絵の暑苦しい画像しか思い浮かばない。浮世絵はどうしてドロドロとおどろおどろしい感じのものばかりなんだろう。
「兎に角、この記号が現代の地図上のどこにあるか確かめないと。高田の図書館に住宅地図の本ってあるよね。」
あたし達は明日、図書館に一緒に行く約束を交わした。
篠崎クンは礼儀正しく「お邪魔しました。」とあたしに頭を下げ、帰って行った。
しんと静まり返った部屋は篠崎クンの匂いだけが残っていた。その香りは独りぼっちの空間にそっと魔法をかけ優しくあたしを温めてくれた。
ひとつも怖くない初めての夜だった。